武勇と外交に長けた「鬼義重」こと佐竹義重、常陸統一から出羽転封までを語り尽くす

常陸(茨城県)の戦国大名・佐竹義重(さたけよししげ)は、その優れた武勇から「鬼義重」、「坂東太郎」の異名を誇りました。北条氏や伊達氏など近隣勢力の圧迫を受ける中で、彼は武勇だけでなく外交にも手腕を発揮、ついに常陸を統一する悲願を達成します。しかし、最期を迎えたのは遠く東北の地でのことでした。いったいなぜ彼が東北にいることになったのか、彼の生涯を通じて、戦国時代の波乱万丈さをお伝えしていきたいと思います。






名門武家の嫡男として生まれる

名門武家の嫡男として生まれる

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天文16(1547)年、義重は常陸の戦国大名・佐竹義昭(さたけよしあき)の長男として誕生しました。

佐竹氏は源氏の流れを汲み、平安後期から続く由緒正しい常陸の名門武家です。

永禄5(1562)年、義重は16歳で父から家督を譲られますが、父は常陸統一という野望を掲げて戦を続けており、実権は父の手に握られていました。

そんな中、義重は父と共に戦場に在り、越後の上杉謙信と結んで親北条勢力を大いに破り、勢力を拡大していきます。

しかし、永禄8(1565)年、父・義昭は35歳の若さで急死してしまったんです。

これによって義重を取り巻く状況は一変し、かつて屈服させた周辺の豪族たちの反抗を一手に受けることとなってしまったんですよ。

父の常陸統一という悲願は託されたものの、前途多難な船出でした。

武勇と外交、どちらも大事

父の死の直後、佐竹氏は実に辛い状況に置かれていました。

南には全盛期真っただ中の北条氏がおり、北には蘆名(あしな)氏という強敵がおり、いつ攻め込まれてくるかもわからないようなピンチだったんです。

しかし、義重はまず自分の武勇をもって周辺勢力を黙らせます。

上杉謙信と連携した彼は、小田氏・那須氏・白河氏そして蘆名氏と刃を交えました。
そうした戦の中で、7人の敵を一瞬で斬り伏せるという見事な戦いぶりを見せ、これによって彼は「鬼義重」、「坂東太郎」といった異名を付けられ、恐れられるようになったんですよ。

愛刀「八文字長義」を手に、北条方の兵を兜もろとも真っ二つに斬って捨てたという逸話があるほどです。

一方、彼はこの状況を打破するのには武勇だけではダメだということもわかっていました。

彼は、外交にも長けていたんですよ。
相手に自分の子を養子として送り込んだり、娘を娶らせて姻戚関係を結んだりと、着実に自身の勢力を拡大し、基盤を安定させていった手腕は見事というほかありません。

また、すでにこの頃、畿内(関西方面)で力を付け始めていた羽柴秀吉(後に豊臣)と誼を通じており、なかなか慧眼だったわけです。
後に秀吉が北条征伐を行った際、これが活きてくるわけなんですよ。

蘆名氏との連携、対するはあの伊達政宗

蘆名氏との連携、対するはあの伊達政宗

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また、かつて佐竹氏を苦しめた北の蘆名氏は、当主・盛氏(もりうじ)の没後に徐々に弱体化していました。

そこに目をつけてじわじわと食い込んできたのが、当時は新進気鋭の若武者だった伊達政宗です。

このままでは、伊達にうまいことやられてしまう…と危惧した義重は、天正13(1585)年、蘆名氏など南奥羽の諸将と連合し、伊達政宗と対決しました。
この時の戦いが「人取橋(ひととりばし)の戦い」で、義重は政宗を敗走させることに成功します。

しかし、ここで政宗軍を壊滅できなかったのが、義重にとっては痛く、悔しいところでした。

というのも、その時、陣中で叔父が家臣に刺殺されるという事件が起きたり、本国常陸方面に北条方が攻め入ってくるかもしれないという報せが入って来たりして、撤退せざるを得なかったんですね。
これで伊達側に攻勢をかけられなかったことで、後に政宗は義重の脅威となっていくんです。

この時の戦いは「鬼義重」にとっても実に印象的で大きな戦だったようで、後に彼は将軍・徳川家光に対しても「生涯の大戦」と語るほどでした。

だからこそ、政宗を取り逃がしたのは実に悔しいことだったんでしょうね。

蘆名の美少年当主・蘆名盛隆に一目惚れ

蘆名の美少年当主・蘆名盛隆に一目惚れ

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ところで、美人を好んだ義重ですが、一度だけ美少年に惚れてしまったことがあったんですよ。

しかも、相手は敵の当主。

義重の宿敵・蘆名盛氏が亡くなると、その跡を継いだのは養子に入っていた盛隆(もりたか)でした。

しかしこの盛隆が、周辺諸国に知れ渡るほどの美貌の持ち主だったんです。
まだ年齢は少年の域を脱しておらず、妖しいまでの魅力を放つ美少年でした。

そんな盛隆に義重が出会ったのは戦場でのこと。

「う、美しい…!」と義重が言ったかどうかはわかりませんが、とにかく、彼はなんと盛隆に一目惚れしてしまったのでした。

それからというもの、義重は盛隆への思いに身を焦がすようになり…そしてついに熱烈なラブレターを書き送ったんです。

その熱すぎる思いに、なんと盛隆も応じたんですよ。
そして手紙のやり取りが始まり、ついには戦を止めて和睦しようということになったとか。

結局、この蘆名盛隆は23歳の若さで家臣に暗殺されてしまいます。
しかも、その理由も男色がらみだったいう説もあるんです。

彼の跡継ぎは幼くして亡くなってしまいましたが、その家督を受け継いだのは、なんと、養子に送り込まれた義重の息子・義広でした。
政略的なものだったことは疑いないのですが、やっぱり、かつて惚れた相手の家に息子を送り込むとは…なにか、心の機微がそこにあるような気がします。







南は北条、北は伊達…ピンチです

南は北条、北は伊達…ピンチです

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伊達政宗を退けはしたものの、とどめを刺せなかった義重は、天正16(1588)年に再度対伊達連合軍を組織し、政宗を攻めました。

しかし、連合軍ゆえのまとまりのなさから、圧倒的な兵力差があったにもかかわらず、勝つことができなかったんです。
また、秀吉が発した、戦国大名同士の戦を禁ずる「惣無事令(そうぶじれい)」により、戦を続けることができなかったんですね。

その上、翌年には息子・義広が養子に行った蘆名氏と政宗との「摺上原(すりあげはら)の戦い」が起き、ここで蘆名が大敗して政宗の勢力が南へと拡大するのを許してしまったんです。

しかも、南からは北条氏が勢力を広げており、義重は南北を強大な勢力に挟まれ、身動きが取れなくなってしまったのでした。

この頃、義重は長男の義宣(よしのぶ)に家督を譲っていますが、こんな状況ですから、当然実権は掌握したままでした。

さてどうしたものか…。

困った義重でしたが、ここで局面を打開する大きな動きがありました。

秀吉が、天下統一の総仕上げとして、小田原の北条征伐に乗り出してきたんです。

小田原攻めに即参陣!

小田原攻めに即参陣!

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天正18(1590)年、小田原攻めを開始した秀吉は、諸大名に参陣を要請します。

これはとても大事なことでした。
というのも、これに遅参すれば戦国大名としての存続に関わることだったんです。
自分の持つ領地を保証されるか、減らされるか、はたまた国替えされるか…最悪の場合、取り潰しということもあったんですよ。
事実、伊達政宗は大遅刻し、大幅に領地を減らされた上、国替えを命ぜられてしまったんですから。

義重は元々秀吉に誼を通じていた間柄でしたし、すぐに息子・義宣を連れて秀吉の元に参上し、石田三成と共に忍城(おしじょう)攻めに加わりました。
そしてその後の奥州仕置(おうしゅうしおき/東北諸将の領地再分配)にも加わり、これらの功績を秀吉に認められ、常陸54万石の立派な大大名となったんです。

そして、バックに秀吉がいるという強みを生かし、義重は父ができなかった常陸統一の悲願をついに達成し、この後45歳からようやく隠居生活を始めることができたのでした。

さて、悠々自適の隠居生活ができるぞ…と思いきや、世の中の雲行きが怪しくなっていったんです…。

関ヶ原の戦いで父子の対立

関ヶ原の戦いで父子の対立

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秀吉が亡くなると、台頭してきたのは徳川家康でした。
すると、権力は徐々に家康のものになっていったわけです。
この状況で家康と秀吉側近・石田三成が対立し、東軍と西軍が激突した関ヶ原の戦いが起こったんですね。
慶長5(1600)年のことです。

佐竹家では、実は父と息子とで意見が真っ二つに分かれていました。

義重は東軍に付くべきと主張しましたが、肝心の当主である息子・義宣はどちらかというと西軍寄りの態度を示したんですよ。

佐竹家としては、石田三成とのつながりがあったんです。

北条征伐の忍城攻めで知遇を得て以来、検地の際には指導を受け、義重の従兄弟・宇都宮国綱が改易された際には連座させられそうになったのを、三成の取り成しによって逃れることができたという事実がありました。

しかも、この時三成がひそかに「調査役には知られないようにこっそり上洛した方がいい」と知らせてくれるなど、義宣が恩を感じても仕方のないくらい恩があったんです。

しかし、義重とすれば、恩だけで動くことができないのが戦国の世、と主張したかったことでしょう。

Writer:

世界と日本がどのように成り立ってきたのか、歴史についてはいつになっても興味が尽きません。切っても切り離せない旅と歴史の関係を、わかりやすくご紹介していけたらと思っています。

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