姫路城の知られざる歴史…官兵衛が治めた不戦の城

かの黒田官兵衛が城主として治めた姫路城は、その白漆喰の城壁の美しさから、別名「白鷺城(はくろじょう)」という名でもよく知られています。長い歴史のなかで一度も戦火に見舞われることなく、当時の姿を、ほぼそのまま残している珍しいお城です。そういった状態の良さから世界遺産にも登録され、姫路城は、いまや日本が世界に誇る名城となりました。そんな姫路城ですが、平成26年に行われた修繕工事でとてもミステリアスなある謎が発見されたそうです。それはいったいどんな謎なのでしょうか?これから、姫路城の歴史を紐解いてみましょう。


姫路城はもともとお寺だった!?とったりとられたりの姫路城

姫路城はもともとお寺だった!?とったりとられたりの姫路城

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 姫路城の成り立ちは、今から670年ほど前の南北朝時代に遡ります。
もともと姫路城の建てられた土地の上には、「称名寺」というお寺が建っていました。
そして、北条氏を討伐せよとの命令を受けた、赤松則村が京都を目指す途中の姫山にあったこのお寺に目をつけ、そこをアジトとしたのが姫路城の大元になっていると言われています。
その後、則村の息子である貞範が称名寺を移築させ、その跡地に建てたのが「姫山城」という、姫路城の前身となるお城です。
しかし、貞範はせっかく築いた姫山城をわずか3年で離れ、他の播磨の地に本拠地を移します。
そして姫山城は、一族のひとりである小寺頼季に託されることになるのです。
その後は小寺家が代々城を守ることになります。

 そして、その後に姫山城を軸とした、とったりとられたりのシーソーゲームが始まることになるのでした。
そのきっかけとなったのが、山名氏が赤松氏に対して攻め込んだ「嘉吉の乱」です。
姫山城を預かる小寺職治は、赤松氏とともに山名氏と戦います。
しかし、健闘むなしく討ち死にし、山名氏に城をとられてしまうのです。
しかし、その山名氏も時を経ると段々と力を弱めていき、再興した赤松家によって城をとりかえされることになります。
いかにも戦国時代らしい逸話です。

黒田家登場!おじいちゃんもお父さんもやはりキレ者!

 昨日倒した敵が、今日また襲い掛かってくるかもしれないのが戦国時代です。
赤松氏は、姫山城を取り戻した後も、隣の但馬に残る山名氏を警戒し続けるのでした。
則村は山名氏に対する防御策として、また新しい城「置塩城」を築き、そこにお引越しすることになります。
姫山城には、代わりにあの小寺家が再び城のお留守番を任されることになるのでした。

 1545年、その小寺家も他の要所に移されることになります。
では、誰が城を任されたのかというと、それがあの黒田官兵衛のおじいさんである黒田重隆でした。
重隆とその息子である職隆(もとたか)は、小寺に了解を取ったうえで、居館程度の規模であった姫山城を中世的な城郭にするための拡張工事を行います。
この大工事によって生まれ変わった姫山城は、姫路の地形を巧みに活かしたものだったそうです。
また、職隆は百軒長屋を建設し、貧しい人たちを住まわせます。
これは慈善事業として行ったわけではなく、そういった人々から情報を収集するという狙いがあってのことです。
さすがはキレ者で知られる黒田家といったところですね!

軍師、黒田官兵衛

軍師、黒田官兵衛

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 1567年、黒田職隆は、城の留守を預かる城代の座を、息子である考高(よしたか)に譲り渡します。
黒田考高、後に豊臣秀吉の右腕としてその天才的な能力を発揮する黒田官兵衛その人です。
孝高は父、職隆から家督と家老職を継ぐとともに、黒田家の主君である小寺政職の姪である櫛橋伊定の娘、光(てる)を正室に迎えて、姫路城代となりました。
また、同時期に考高の従兄弟である明石則実との同盟も結びます。
これにより、考高は自分が生まれ育った姫路城の主となりました。

 黒田官兵衛といえば、安土桃山時代の当時から現代にかけてまで、天才軍師の呼び声が高く、最近では、大河ドラマなどでも取り上げられましたので、知らない方はほとんどいないというくらいに知名度がある軍師です。
この天才軍師は、官兵衛と名乗る以前の若いころからその才能の片りんを見せるようなエピソードがたくさん伝えられています。

 姫路城の歴史を紐解くには、この黒田官兵衛の生涯についての説明を避けることはできません。
ここからは、少し本題を離れて、黒田官兵衛の生涯について触れていきたいと思います。

幼いころから周りを驚かせた官兵衛

 1546年、まだ改築を終えて間がない真新しい屋敷で黒田官兵衛、幼名万吉は生まれました。
万吉が生まれた日は、庭一面に雪が降り積もり、美しい銀世界をつくっていたそうです。
黒田家の人々は「このような素晴らしい日に生まれる子は、きっと幸運の子だ。」と万吉を祝福します。
その幼子は、幼いながらもいかにも聡明そうな顔つきをしていたらしく、きっと大成するに違いないと家臣たちは喜びました。

 世は戦国時代のさなか、万吉が生まれてすぐの1547年、黒田家の主君である小寺は嫌な知らせを受けて顔を歪めます。
別所就治(べっしょなりはる)率いる兵たちが、こちらに進出してきたというのです。
別所就治は、小寺や黒田と同じく赤松氏同士。
つまり一族内の争いということになります。
小寺は憤慨しながらも応戦の準備を整えます。
屋敷内が慌ただしくなるなか、当時まだ3歳だった万吉は、棚に飾られた兜を被ろうとして周囲の人々を驚かせました。
まだ幼いながらも、一族の緊急事態を肌で感じたのでしょう。
家臣たちは、その万吉の様子を見て「栴檀は双葉より芳し」(大物は幼い頃からその片りんを見せるの意)言い、頼もしく思ったそうです。

母との死別を乗り越え、元服とともに仕官

母との死別を乗り越え、元服とともに仕官

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 万吉は、14歳になった元禄2年に母を亡くしました。
その後、万吉はふさぎ込むようになります。
人と会うのを避け、自室で「古今和歌集」や「後撰和歌集」といった和歌集を読みふけったり、母の死を嘆く歌を作ったりして、母を亡くした悲しみをさらに深めていました。
そんな様子を心配した寺の住職、円満が万吉を元気づけようとします。
「ずっと悲しみにふさぎ込むことを母君は望んでいない。」「悲しみを振り切る強さを持たなければこの戦乱の世を生きていくことなどできない。」と激励された万吉は、やっと母への悲しみを断ち切り、武の道へ励むことになります。
このときに読んだ兵法書がのちに黒田官兵衛となる滋養を与えました。

 その翌年、万吉は元服を迎えます。
幼名も改められ、その名を考高(よしたか)とします。
そして元服とほぼ同時に黒田家へ立ち寄った小寺政職によって仕官の誘いを受けます。
なんでも、政職に食事を運ぶ際の考高の所作を見て、政職は一目で只モノではないことを見抜き、誘い入れたそうです。
こうして考高は、政職の下に迎え入れられ、15歳にして禄80石を受けることとなったのでした。
そして考高は、姓を自分の主君である小寺に変え、名を官兵衛と名乗るようになります。

 そして、官兵衛が元服したのと同じころ、尾張では織田信長が今川義元を討ち、その名を全国に轟かせていました。
後に自分の主君となる、信長の下剋上の報に触れた官兵衛は、このとき何を思ったのでしょう。

17歳で戦デビュー!その鮮やかな活躍

 1562年(永禄5年)、土豪が兵を引き連れ、領地に進行してきました。
それを知った官兵衛は自ら出陣を名乗りで、父である職隆と共に出陣します。
そして、あっという間に士豪を討伐してしまいます。
この時官兵衛17歳、鮮やかな初陣を飾りました。

 この初陣での評判を聞きつけ、官兵衛の下に仕官したいという男が表れます。
後に黒田二十四騎の一番手となる栗山善助です。
当時まだ15歳であった善助を、官兵衛も気に入り、自らの下に置くことになりました。

 赤松氏の内戦は、次第に激しくなっていきました。
1567年(永禄10年)、別所安治(やすはる)赤松政秀と共に攻めてきました。
職隆はこれを防ぐために戦うことを命じられますが、過去に世話になったことのある政秀に恩を感じ、直接相見えることを嫌います。
そこで官兵衛が出陣することになりました。
官兵衛二度目の出陣です。
ここでは、官兵衛を慕って仕官された善助が気を吐く戦いを見せ、恐れをなした相手方は早々に退却します。
この二度目の手柄によって、官兵衛の評価はその評価をますます高めたのでした。

官兵衛一級の奇襲で、宿敵赤松政秀を撃破

 その後、官兵衛が家督を譲り受けると同時に結婚を結んだことは先に触れました。
黒田家を率いるものとしての自覚、そして彼に与えられた類まれなる才能が、彼に天下統一の夢を抱かせます。
しかし、そのためには長く続く近隣の内輪もめを解決しなければなりません。
しかし、一朝一夕で片付く問題ではなく、官兵衛は焦りを見せます。
同時期には、織田信長が更に勢力を伸ばしている状況でしたので、天下統一に王手をかけようかという信長と、内輪もめのために天下に打って出れない自分とを比較しての焦燥だったのでしょう。

 そんな官兵衛の焦りをよそに、赤松政秀が、再び攻めてきました。
官兵衛は配下150人を率いて政秀と対峙します。
官兵衛は、この戦いで大きく攻め込まれて甚大な被害を受けてしまいました。
政秀の背後を突こうともしましたが、これをかわされ、敵の政秀は官兵衛の軍を大きく傷つけた後、余裕しゃくしゃくと青山に帰っていきました。

 官兵衛は、敗北を喫しながらも、赤松へ奇襲をしかけることを決意します。
相手方は今日の勝利で油断しているに違いない。
攻めるなら今だ。
と配下を鼓舞し、夜、青山へ奇襲をしかけました。
これが大成功し、官兵衛は自分の戦略家としての才を自覚することになったのでした。

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