信長・秀吉・家康が欲しがった!?雲海に浮かぶ天空の城、竹田城の歴史

みなさん、竹田城ってご存知ですか?実は日本100名城、そして恋人の聖地(!?)にまで登録された、近年にわかに注目を集めている観光スポットなんです!「竹田城」と言われるとピンと来なくても、『日本のマチュピチュ』と聞けば一度は耳にされたことのある方が多いかもしれません。雲海に浮かびあがる雄壮な石垣群が見る人の心を魅了して止まない、まさに天空の城。今回は、そんなロマンあふれる竹田城の歴史を紐解いていきましょう。

石垣と自然が織りなす神秘の景色、一度は行ってみたい竹田城!

石垣と自然が織りなす神秘の景色、一度は行ってみたい竹田城!

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実は、日本屈指の規模を誇る山城なのです

兵庫県のほぼ中央に位置する朝来(あさご)市。
神戸から電車で揺られることおよそ2時間半ほどで、JR竹田駅に到着します。
木造の駅舎を出て東を見れば朝来山、西に古城山をのぞみ、その山あいを円山川(まるやまがわ)が流れる景色に、日本の原風景とも呼べる懐かしさを覚えずにはいられません。

その古城山の頂上にあるのが、国の指定史跡・竹田城跡です。
廃城からすでに400年、ほぼ当時のままの状態で残されている石垣群の中に身を置けば、まるで在りし日の竹田城の威容が目に浮かんでくるかのよう。

城の規模は南北に約400m・東西約100m。
南北に長く作られた堀や石垣などの配置が『臥せている虎のように見える』ことから、別名「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」と呼ばれています。
姫路城や名古屋城などの平地に作られた城とは異なり、竹田城に代表される山城は険阻な山を利用して築かれる防衛拠点のため、そもそも立地の時点で大きさを限定されてしまいがちです。

そんな中、現存する山城としては日本屈指の規模を誇る竹田城。
それだけでも歴史的な価値があり、お城好きの方からすれば十分に魅力的なわけですが、このお城の魅力はそれだけにとどまりません。
オプションがすごいんです。

雲の海に浮かぶ石垣、竹田城の真の魅力!

それが、竹田城をして『天空の城』と言わしめる所以である、雲海です。

空気が冷えると、風のない山間部に雲や霧がたまることがあります。
それを高いところから見渡せば、山々がまるで雲の海に浮かぶ島のように見えることから『雲海』と呼ばれているのですが、そんな幻想的な風景がこの竹田城を一大観光スポットに押し上げました。

晩秋、山麓を流れる円山川の川霧が山あいに立ち込める朝に朝来山・立雲峡(りつうんきょう)から古城山を眺めると、雲海をぬうように浮かびあがって見えてくる竹田城の石垣。

天空の城と呼ばれるに恥じない景色が、私たちの眼前にひろがるのです。
その神秘的な光景たるや、恋人の聖地に登録されるのも納得と言ったところでしょうか。

ちなみに、雲海自体は気象条件のそろった時にしか見ることができないため100%天空の城が見られるという保証はできませんが、大雑把に言えば『晩秋から春先にかけて』『明け方』『昼間と夜間の温度差が大きい時』『風がないこと』これらの条件が重なった時に見ることのできる確率が高まるようですので、観光に行かれる際にはご留意くださいね。

また、竹田城跡は雲海だけではありません。
四季折々、山の景色に彩られる様子も素敵なものです。
桜の名所であり、目にも鮮やかな新緑から燃えるような紅葉、真っ白な雪に染まる四季の竹田城跡は、それだけでも風光明媚な観光スポットと言えるでしょう。

どんな人たち?竹田城を作った名門・山名家

どんな人たち?竹田城を作った名門・山名家

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築城したのは室町幕府の重鎮、山名宗全

そんな恋人の聖地であり観光名所ともなっている竹田城ですが、山城である以上その歴史は戦乱と切っても切り離せません。
近くに発展した都市や港があるわけでもなく、織田家や上杉家といった大大名が支配していたわけでもない。
このような場所になぜ、日本屈指の山城が築かれることになったのか。
誰が、この城をそれほど重要な城だと見なしたのか。
今回は、そんな竹田城の歴史を追いかけていきましょう。

さて、竹田城が築城されたのは諸説あるものの1430~40年代にかけてだと言われています。
当時、兵庫県は日本海側の『但馬』・瀬戸内側の『播磨』・京都寄りの『丹波』という3つの国に分かれていました。
播磨・丹波と国境を接する要衝だった但馬の国・竹田に城を築いたのが、そのころ但馬守護としてこの地を支配していた山名持豊(やまなもちとよ)という武将です。
聞きなじみのない名前かもしれませんが、彼は竹田城が完成する前後に出家し、そこからおよそ四半世紀後、日本の歴史に名前を刻むことになります。
1467年から10年に渡って日本を二分した内乱、応仁の乱における西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん)と言えば、歴史の授業で覚えたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

その宗全が出家する前に、播磨から但馬を守るための拠点として築いた城がこの竹田城だったのだと言われています。

山陰地方の雄、山名氏の没落

しかし、時代はまだ室町時代中期。
応仁の乱が始まる25年も前の平和な時期に、なぜ『但馬を守る』必要があったのでしょうか。
竹田城が誕生した背景を知るために、まずは室町時代の兵庫県・播磨をめぐる争いを見ていくことにしましょう。

鎌倉時代末期、播磨に赤松円心(あかまつえんしん)という武将が登場します。
彼は鎌倉幕府の倒幕戦に活躍した後、足利尊氏の室町幕府樹立にも尽力したためにその功績を認められ、室町幕府から播磨守護に任命されました。

守護とは、今で言えば県警の本部長が近いかもしれません。
各都道府県の警察で一番偉い人といったところでしょうか。
以降、播磨守護は代々赤松氏が任命されていくことになります。

その頃の山陰地方を支配していたのが、後に山名宗全を輩出する山名氏でした。
当時日本は68の国に分けられていたのですが、山名氏は山陰地方を中心に一族合わせて11ヵ国を領するほどの大大名。
あまりの権勢に、時の山名氏筆頭だった山名氏清(やまなうじきよ)は『六分の一殿』と呼ばれるほどでした。

幕府内で一人の大名が力を持ちすぎることを恐れた三代目将軍・足利義満(あしかがよしみつ)は、山名氏を巧みに挑発して反乱を起こさざるを得ない状況に追い込み、これを討伐します。
『明徳の乱』と呼ばれたこの反乱の後、所領を但馬・因幡・伯耆という山陰地方わずか3ヵ国にまで減らされてしまった山名氏は、いつか再び権力の座に返り咲く日を夢見て、虎視眈々と復権の機会をうかがうことになりました。

山名家のライバル、赤松氏の台頭

山名家のライバル、赤松氏の台頭

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kei.O

Writer:

お笑い番組を流しながらギターをつま弾き、小説を読む、うだつの上がらない会社員です。人生楽しく生きるために、やってみたいと思ったことは隙を見てやっちゃうスタイルです。読後感のさわやかな?そんな文章を皆さまにお届けできるよう、日夜あれこれ模索します。

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