洋と和が混ざり合った港町神戸の歴史観光スポット12選

関西三都の一都市、神戸。

神戸は古くは万葉の時代から港町として、また九州などの西国からの陸の要所として栄えました。
平安時代には中国との貿易の中心として発展し、鎖国している江戸時代には樽廻船で灘の酒を卸したり北前船の寄港地として発展。
幕末には海外へ拓く港の一つとして整備され、明治から大正にかけては多くの外国人が住んだことから、異国情緒を感じるおしゃれな街として街歩きが楽しい街となりました。
今回は開港150年を迎える神戸港を中心に6つのエリアと12のスポットを通じて神戸の歴史をみていきましょう!

太古の歴史と淡路島を望む五色塚古墳

太古の歴史と淡路島を望む五色塚古墳

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神戸の港をご紹介する前に、まずは4世紀末ごろに作られたという古墳をご案内します。

この五色塚古墳は神戸の西部地域にある垂水区にあり、ちょうど海の向こうには淡路島が見える地域です。

作られた時代は古墳時代と言われる時期で、形は歴史の教科書で習った仁徳天皇陵と同じ前方後円墳。
海岸に向かってかぎ型の形になっています。

大きさは一番長い箇所が194メートル、後円の直径は125.5メートル。
兵庫県下で一番大きな古墳で、全国でも40番目の大きさだそうです。

誰の墓なのかは不明で、もしかしたら地域の豪族のものかもしれませんし、日本書紀でこのあたりに作ったと記載のある「偽墓(遺体のない墓)」かもしれません。

五色塚古墳の周囲は円筒状の埴輪が埋め込まれていたことから「千壺古墳」という別名もあります。

五色塚古墳に登って古代の景色を見てみましょう

五色塚古墳に登って古代の景色を見てみましょう

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五色塚古墳は日本で最初に復元された古墳ですが、特に周辺を公園のようにはしていないので、周りは線路や住宅地です。
訪れると唐突に現れる小高い丘に驚きます。

管理事務所で受付をすると古墳の上に登ることができますので、ぜひ登ってみましょう。

近付くと古墳が三段でできていることがわかります。
そして側面には粒のそろった石が敷き詰められていますが、それらは出土した石で、淡路島から運ばれてきたものが混ざっていることが分かっています。
この古墳を作らせた人物は淡路島まで勢力を持っていたと考えられています。

古墳の上に登ってみると明石大橋と瀬戸内海、淡路島が一気に目の前に広がります。
海からの風が大変強く吹き付けるこの場所は現代ではパワースポットとしても紹介されることもあるようです。

古代の人々が古墳のような大きな建造物を築くのに、この場所を選んだのはもしかしたらそんな目に見えないパワーを感じたからかもしれませんね。

古代の人々は大橋はなかったですが、この同じ風景を見ていたと思うとちょっと感動的です。

栄枯盛衰を感じる平氏縁の兵庫津

続いては、平清盛が晩年に遷都しようとした兵庫津についてご紹介します。

場所は現在のJR和田岬駅周辺からハーバーランドの間のエリアを兵庫津と呼び、平安時代には西国街道も通る陸海ともに交通の要所として発展してました。

兵庫津は奈良時代に東大寺の大仏殿建造の責任者だった僧の行基が築いた「大輪田泊(おおわだのとまり)」が元となりました。

北側の六甲山地から流れてくるいくつもの川が作る天然の良港だったのです。

しかし、南西からの風浪は和田岬によって軽減されていますが、南東からの風浪に弱く、大阪からの船が難破したり、その波によって湊の設備が破壊されたりするということがよくありました。

10世紀ごろまでは朝廷が港を整備していました。
しかし、船の交流は絶えることはなかったのですが次第に整備がされなくなります。

清盛の夢が詰まった港

清盛の夢が詰まった港

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1162年、大輪田泊は平清盛の私財によって整備されました。

東南の風浪を軽減するために、湊の前に人工島の工事に着手します。
しかし何度も大風などにみまわれ、工事は中断または失敗に終わります。
難工事だったことから人柱をたてたり、石に一切経の経文を書いて基礎を築いたと言われています。

この湊を整備した清盛はここを日宋貿易の拠点とし、伊勢の水銀を輸出し宋銭や陶磁器、絹織物や香料・薬・書籍などが京にもたらされました。

宋銭が流入したことにより貨幣経済が促進された一面もありました。

この日宋貿易を取り仕切るため、清盛は拠点を兵庫津へ移します。

兵庫津の北側へ眼をやると六甲山地のすそ野がそばにあるのですが、この一帯の地域を整備して館を築き、都を移すことにしたのです。
後年の為政者によってその痕跡はほぼなくなっており、今では正確な清盛の屋敷はわかってはいません。

この兵庫津を見下ろす形で整備した都市を「福原京」として、実際に安徳天皇を連れて半年の間遷都したことはわかっています。

結局は源氏の挙兵により京へ戻らざるを得なくなり、遷都は叶いませんでした。
しかし、日宋貿易で海洋国家として経済的に国を豊かにしようとした清盛の夢を託されたのが兵庫津だったのは確かです。







#1 清盛塚

ここはJR和田岬から歩いて10分程度の場所にある清盛橋のたもとにある、高さ85メートルの十三重の石塔です。

清盛は京都で亡くなる際に、福原に埋葬するように言い残していたと言われていたことから、清盛塚は長く清盛の墓だと考えられていました。

現代になり道路工事で移転することが決まった際に掘り起しが行われ、墓ではなく供養塔だということがわかりました。
清盛の墓はどこなのか未だにわかってはいません。

その横には琵琶塚と呼ばれる琵琶の形をした古墳があり、琵琶の名手として知られる清盛の甥・平経正の墓と伝えられています。

#2 能福寺

805年に最澄によって日本最初の密教教化霊場として開かれました。

1180年には清盛の福原京遷都計画によって平家一門の祈願時に定められて、大伽藍などが建設されました。

また清盛が亡くなった際にここの住職が亡骸を京都より連れもどり、この寺にて葬儀を行ったとも言われています。

そしてこの寺を訪れると最初に目に飛び込んでくるのは日本三大仏と言われる兵庫大仏。
1891年に豪商・南条荘兵衛の寄進によって建立され、第二次大戦で失われたため現在の大仏は1991年に再建されたものです。

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