信長も秀吉も家康も!?戦国大名気分で滋賀県ぐるり城めぐり

「近江を制するものは天下を制する」と言われた近江とは現在の滋賀県一帯のこと。滋賀県は城跡が多いことでも知られています。戦国大名の居城として遣われていた城から戦のための山城まで、その数なんと1300!残念ながら現在ではそのほとんどが、わずかな石垣や本丸跡が残るのみの史跡となっていますが、地域地域で大切に管理保全されていて、どの城跡も見ごたえ抜群なのです。戦国の世に思いを馳せながら、そんな滋賀県に今も残る城跡、数ある中から見どころをご紹介してまいります。


琵琶湖の西側:近江西部地域にある城跡

明智光秀が築いた城「坂本城跡」(大津市)

明智光秀が築いた城「坂本城跡」(大津市)

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琵琶湖の南、幅が細くなっているところの東側は、背後に比叡山、その後ろに京都を控えた重要な場所。
東側は琵琶湖に面しているため、湖を利用した交通網の要衝でもあり、自然の地形を活かした天然の要害でもありました。

1571年(元亀2年)、織田信長は比叡山焼き討ちの後、明智光秀に命じてこの地に城を築かせます。
比叡山の監視と琵琶湖の西側制圧のための拠点が必要だったのです。

城造りに長けていた光秀。
築かれた坂本城は大天守小天守を備えた強固な水城(平城)でした。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスによる『日本史』にも、光秀が築いた城は豪壮華麗で、安土城に次ぐ城であったと記されています。

光秀はこの城を拠点に近江一帯の平定に躍進。
事は着々と進められているかに見えていました。

しかし天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺の変を起こし信長を強襲。
しかし直後の6月13日に羽柴秀吉の軍勢に破れ、逃亡の果て、光秀は命を落とします。
坂本城は光秀の重臣によって火が放たれ、焼失してしまうのです。

その後、織田家の重臣であった丹羽長秀が坂も途上を再建し、秀吉の軍事拠点として使われますが、秀吉が近江周辺の平定を達成すると徐々にその役割を失い、1586年(天正14年)、廃城となります。
資材の多くは近くにできた大津城建築のために使われたのだそうです。

現在の坂本城跡は、公園として整備されていますが、城の痕跡はほとんど残っておらず、湖岸に石垣が残るのみ。
しかしここから眺める琵琶湖の風景はなかなかのもので、ここに豪華な城が建っていたらどう見えただろうか、と想像をめぐらせながらの散策がオススメです。

本能寺の変の余波はここにも「大溝城跡」(大津市)

本能寺の変の余波はここにも「大溝城跡」(大津市)

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坂本城跡から直線距離で30kmほど琵琶湖を北上した、琵琶湖の西側、少し東側に突き出たあたりに建てられたのが大溝城です。
既に城の痕跡はありませんが、現在のJR近江高島駅から100mほど湖側に移動したあたりに、石垣に囲まれた小高い森が残されています。

織田信長の甥にあたるとされる津田信澄は近江高島郡を拝領。
1578年(天正6年)、琵琶湖の内湖(琵琶湖周辺の水域)に築城し居城としました。
古い資料によれば、大溝城は琵琶湖の内湖を利用した水城であったと考えられています。
残念ながら築常時の城の詳細はわかっていませんが、本丸、二の丸、三の丸を持ち、船の停泊が可能な港を持っていたと考えられています。
織田信長は当初から、琵琶湖の水運を利用した城郭ネットワークを形成するべく、湖岸のあちこちに城を築こうとしていたようです。

大溝城は琵琶湖を挟んで対岸に安土城を望む重要な城。
信澄は居城の築城と共に城下町の整備を進め、高島郡の発展に力を注いでいました。

しかし天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が本能寺の変を起こすと状況は一変。
光秀の娘を妻に娶っていた信澄にも嫌疑がかけられます。
信澄は大坂にて自害。
大溝城は廃城となり、城の一部を残して取り壊されます。

城の周りに形成されていた大溝城の城下街は、江戸時代に入ってから大溝陣屋として利用されることとなり、活力ある街が形成されていきました。

現在では、駅前の病院の裏手に本丸跡が残されており、痕跡はわずかですが巨石による壮大な石垣は見応えあり。
周辺には武家屋敷や港の跡などもあり、史跡めぐりを楽しむ人の姿もあります。

琵琶湖の北側:湖北地域にある城跡

浅井長政・お市の方の悲劇の舞台「小谷城跡」(長浜市)

浅井長政・お市の方の悲劇の舞台「小谷城跡」(長浜市)

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大溝城跡から琵琶湖畔をぐるりと北上し、北東側へ。
琵琶湖を挟んで直線距離でおよそ30㎞離れた、標高約495mの小谷山の上に、浅井氏が築城した小谷城(おだにじょう)があります。

麓から山頂へ、東西に伸びるU字型の深い尾根を利用した、地形を活かした鉄壁の山城。
琵琶湖畔からは少し山側に離れており、山ひとつそのまま城にしたような強固な造りに。
越後の春日山城や同じ近江にある観音寺城などと共に「日本五大山城」にも名を連ねている名城です。
築城年は諸説あるようですが、1524年頃ではないかと言われています。
尾根づたいにいくつもの廓が設けられ、攻め落とすのは極めて困難と言われていました。

この城を居城としていた浅井氏は、近江北部、つまり琵琶湖の北側一帯を治めていた戦国大名。
浅井氏三代目の浅井長政は、織田信長の妹で戦国時代絶世の美女と言われたお市の方を妻に迎え、織田家との関係は良好と思われていました。
しかし天下布武を強行に推し進める信長との間に次第に亀裂が生じ、信長を裏切り朝倉氏に味方。
小谷城は織田軍に攻められてしまいます。

しかしさすがの信長も、小谷城を攻めあぐねていたようで、4年近い歳月が。
先に朝倉氏の城が落とされ、その勢いで攻め込まれた浅井長政は羽柴秀吉等の攻めに耐え切れず自害。
1573年(天正元年)、難攻不落と呼ばれた鉄壁の山城、小谷城は落城してしまうのです。

その後一時、秀吉が城主として小谷城に入っていましたが、じきに長浜城に移ったため、小谷城は廃城となります。

現在、小谷城跡には、建物は残されていませんが、建物跡(礎)や石垣など数多くの遺構が山の中に残されており、史跡を巡りながらトレッキングを楽しむ人の姿も。
麓には「小谷城戦国歴史資料館」も併設されており、小谷城の立体地図など城の様子を詳しく知ることができるようになっています。

秀吉が最初に建てた城「長浜城跡」(長浜市)

秀吉が最初に建てた城「長浜城跡」(長浜市)

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小谷城から南へ10㎞ほど、琵琶湖を間近に望む場所に、羽柴秀吉が築城した長浜城があります。

築城年は1573年(天正元年)、小谷城攻めの後、羽柴秀吉は浅井氏の領地を拝領。
一帯は当時「今浜」と呼ばれていたそうですが、信長の”長”を取って「長浜」に改名した、という話が伝わっています。
秀吉が建てた最初の城。
小谷城を廃城した際の資材を一部利用して築かれたのだそうです。

本能寺の変の後、長浜の地を治めることになったのは柴田勝家でしたが、賤ヶ岳の戦いで秀吉が優勢に立つと、秀吉の家臣であった山内一豊が長浜城に入城。
6年ほどの間、城主を努めます。
江戸時代に入ってからは、彦根城が築城されたこともあり、長浜城は廃城に。
資材の多くは彦根城建設に利用されたのだそうです。

現在、長浜城跡には、独立式望楼型3重5階の鉄筋コンクリート造りの模擬天守が立っています。
廃城の後は残念ながら、石垣や井戸などがわずかに残るだけでしたが、同時期に築城された城を模して、1983年(昭和53年)に築かれました。
天守の中は歴史博物館として様々な展示が行われています。

また、最上階の5階は展望室になっており、琵琶湖を一望することが可能。
復元された模擬天守が、秀吉が築いたものと同じ形状かどうかはわかりませんが、もしかしたらこれと同じ景色を眺めながら、密かに天下を夢見ていたのかもしれません。

琵琶湖の東側:湖東・東近江地域にある城跡

Writer:

歴史と歴史小説と遺跡を愛してやまない東京都在住の主婦。子供のころからの大の時代劇ファン。国内外問わず歴史小説を読むようになり、NHK人形劇「三国志」を見て中国史にはまって大学では東洋史学を専攻。愛猫とじゃれながら歴史小説を読み漁る毎日を送っている。趣味は古地図を眺めることとカメラ片手の街散策。

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