築城からたった6年で焼失!信長の野望が渦巻く安土城はこうやって建てられた

本能寺の変の後で焼失した安土城は、かつて山の頂に聳える絢爛豪華なお城でした。信長がどうしてこの地に、こんな豪華なお城を築いたのか気になりませんか?今回は、築城からたった6年で焼失した幻の名城安土城の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

安土城を築城した織田信長ってどんな人?

安土城を築城した織田信長ってどんな人?

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戦国時代の英雄の一人「織田信長」のことは、皆さん知ってらっしゃいますよね。
クールで恐ろしい存在だったのではと想像する人も多いのではないでしょうか?変わり者で、父親の葬儀に正装するでもなくいつものバサラな格好で現れて、焼香で抹香を投げつけて無言で立ち去ったという話はあまりにも有名ですね。
長篠の戦いでは、家康と協力して3000丁の鉄砲を買い、強敵武田勝頼(たけだかつより)を打ち破ったといわれています。

長篠の戦いに勝利したことで、天下統一まで後一歩というところで家臣の明智光秀により、本能寺で襲われ自刃したとの説が残る人物です。
光秀が謀反を起こした経緯には諸説が残り、自由奔放でやりたい放題だった織田信長のやり方についていけなかったという説や、光秀の裏には実は黒幕が他にいたなど日本史上の謎の一つとなっています。
「臆病者の目には、敵は常に大軍に見える」や「攻撃を一点に集約せよ、無駄なことはするな」などの格言を残し、自分にも厳しかったようですが他人にも厳しかったようです。
積極的に南蛮の文化を取り入れた、戦国時代の名将織田信長の建てた城「安土城」はどんなお城だったんでしょうね。

安土城の築城

安土城の築城

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安土城は天正4年(1576年)に信長が、長篠の戦いで武田勝頼を破った後に、領国が西に広がるのに合わせて、現在の岐阜県から滋賀県に城を移動すべく建築を計画したお城です。
かつて琵琶湖の湖東にあった安土山になぜ建てたのか不思議に思いませんか?実は、信長は居城を移しながら自分の陣地を拡大しています。
那古野城から清州城に移した時は、尾張を統一。
また、小牧山城を建てた時は、美濃攻めを行っており、稲葉山城の戦いで斉藤氏を攻めた後に稲葉山城(現在の岐阜城)を本拠地としていました。
ここから、天下統一が始まったといわれています。

岐阜城を居城にした時は、四方を敵に囲まれた状態でした。
浅井・朝倉氏を滅ぼし、長篠・設楽原の戦いで武田軍に圧勝。
次に信長が目標としたのは、京都石山本願寺や中国地方平定だったのです。
実はこの安土城が建つ地は、北陸や越後への交通の要所上にあり、岐阜や京都にも近く、天下取りにはもってこいの場所でした。
越後の上杉謙信からの侵攻阻止する目的も大きかったのです。
京都に城を築けなかった理由の一つとされる、上杉謙信は信長にとって最強の存在でした。
安土城からなら京都まで、船を使えば約半日で到着できるのも魅力だったようです。

安土城の建設

安土城の建設

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天正5年(1577年)に、いよいよ城下町の建設に着手しました。
この時、城下町が栄えるよう工夫した経済政策の楽市・楽座を作ったのです。
築城にあたっては、東海、近畿地方から人夫や職人が導入され、織田信長自身が陣頭指揮を執ったといわれています。
やっぱり天下統一を狙って建てられたお城なんでしょうか?信長がワクワクしながらこの築城の指揮を執っていた姿を想像すると、愉快な気持ちになりますね。

天正7年(1579年)信長自身がやっと入場しました。
このお城の天守閣は今までのお城と違い7重にも及んでおり、着工から約3年かけて造られました。
現存していないお城なので、詳細については不明なところが多いですが、望楼型の地上6階建てで、本丸地表からの高さは約40メートル以上もありました。
隅々まで贅を尽くして作られており壮大な天守を作った理由の一つには、見せるための城だったといわれており、戦いのための城ではなかったのではともいわれているんです。

安土城はどういう意味を込めて建てられたの?

安土城はどういう意味を込めて建てられたの?

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だって、戦国時代の戦略を練る城が目立つと、敵にわざわざ「ここを狙ってくれ」といわんばかりだし、ここは既に勢力圏だったため安土で戦うつもりはなかったと考えられています。
天下統一を取った気分で建てたとか?うーん!信長にしては、考えることが早すぎかな?

実は、大手町門から180メートル直線で続く、幅80メートルの大手道などの存在があったことから、天皇の安土行幸を構想していたとの説があるんです。
これが本当なら超豪華なお城を建ててお迎えしなければなりませんね。
何といっても信長は、見栄っ張りという県民性で知られる愛知県出身ですから。
天皇説なら納得かも!でも、残念ですが本当の理由は分かっていません。







安土城ってどんなお城だったの?

安土城ってどんなお城だったの?

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最上階は金色で造られ、低層は朱入りの八角形をしていたようです。
内部は黒塗りで豪華な障壁画が施されていました。
天下統一を成す人物を象徴するよう信長は天守閣に住み、家族や家臣も付近で生活していました。
あらら?天守に住むってことは、天皇はどこで休むのでしょう。
やっぱり天下統一後の生活を夢見て作ったお城だったんでしょうか。

また、安土城の特徴の一つは、総石造りの近世城郭ということです。
これまでの戦いのための城造りではなく、見せるための城ということもあり、その後の城郭建築に大きな影響を与えています。
全国で城の石垣建築に携わった「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石垣職人集団もこの城の建築になくてはならないものでした。

見せるために造られた安土城

見せるために造られた安土城

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琵琶湖に向かって半島状に突き出した丘陵に立っており、南西麓から南麓にかけては水濠がありました。
この城はどこからでも壮麗な天守が見えるように造られており、信長が自分の権力の凄さを示すために造ったという説が濃厚だと思われます。
自身が天下人となれば、今までとは違う世の中になると印象付けたともいわれています。
天守台と御殿から成る本丸、二の丸、三の丸への出入り口の黒金門がありました。
この門は桝形虎口(ますがたこぐち)と呼ばれており巨石群で造られています。
この門の迫力には、見る者全てが驚いていたようです。

現にこの城下では派手もの好きの信長が度々相撲大会を開き、夜は天守を提灯でライトアップするなど、さまざまなイベントをしており、天正10年(1582年)のお正月には、天守の隣にある本丸御殿を百文の見物料を取って公開したとか?これほどの差を見せつけられたら、人々は信長こそが天下人だと思い込み、敵も戦意を失ったことでしょう。

信長死後の安土城

信長死後の安土城

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しかし、残念なことに信長は天下統一の夢を成し得ず、本能寺の変で亡くなったと伝わっています。
これは、天正10年6月2日(1582年)の早朝のことでした。
この後、山崎の戦を経て、天守とその周辺建物は焼失してしまいました。
せっかく信長が建てた豪華絢爛なお城。
一度は見てみたかったですね。

安土城址は干拓などによって、現在は琵琶湖から少し離れたところにあります。
小高い安土山全域にはかつて山城として建てられた、城郭の遺構が分布しています。
昭和62年(1987年)から20年計画で発掘調査が行われ、当時の様子が次第に確認されました。

次のページでは『幻の名城と呼ばれる安土城跡に訪れて信長に思いを馳せてみませんか?』を掲載!
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