川中島の戦いと真田家で有名な「松代城」の歴史を知ろう!

松代城と聞いて、まずなにを思い出しますか?

長野のお城、真田信之が上田から移った城、佐久間象山をうんだ松代藩のお城。というのがほとんどではないでしょうか。

しかし、この松代城はもっと古くから大事な軍事的拠点として、武田信玄が造った城だと知っている人はどのくらいいるでしょうか?

武田信玄が?と思われる方には「海津城」と言ったら「ああ!」と思われる方もおられると思います。

この戦国からはじまったお城の始まりから、江戸幕府のはじまりから終焉にかけて不思議な役割をもった歴史を紐解いていきましょう。


海津城はなぜ重要拠点なの?

松代城は、先にも書きましたが「海津城(かいづじょう)」と呼ばれていました。
また「貝津城」とも、茅が生い茂っていた土地から「茅津城(かやつじょう)」とも呼ばれていたともいいます。

この城は「武田信玄」が建立しました。
なんのため? それは「上杉謙信」との5回にもわたる「川中島の戦い」の軍事拠点としてです。
戦国時代の中でも、誰もが知っている川中島の戦い!それにこの城がどう関わっていったのかを説明しましょう。

甲斐の虎・武田信玄の川中島までの道

甲斐の虎・武田信玄の川中島までの道

image by PIXTA / 6702335

武田信玄の先祖は「源頼朝」や「足利尊氏」と同じ、清和天皇を祖とする「清和源氏」ですが、早くから甲斐(山梨県)地方の守護として力を持っていたので、単体で「甲斐源氏」とも呼ばれています。
鎌倉幕府が滅びて、室町幕府の力が衰えてきた戦国時代に入る頃には、内乱や従っていた国衆達の反乱や、他の土地からの土地狙いのイザコザで、さすがの武田家も力が衰えてきていました。

それを一代で武力によって勢力を盛り返し甲斐を統一したのが、武田信玄の父親の「武田信虎(たけだのぶとら)」でした。
信虎は駿河(静岡県)の「今川家」や、「扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家」との関係を強くして、相模(神奈川県)の「北条家」と敵対していました。
信虎は跡継ぎを信玄ではなく弟に継がそうとしたしたために、信玄に追放されて今川家へ隠居することになったのでした。

当主となった信玄は信濃(長野県)へ侵攻をはじめ、後ろから攻め込まれないように北条家とも和睦しました。
その時に信玄から攻められた信濃の国衆や「村上家」が、越後(新潟県)の「上杉謙信」に助けを求めます。
それが「川中島の戦い」の始まりでした。

越後の龍・上杉謙信のの川中島までの道

越後の龍・上杉謙信のの川中島までの道

image by PIXTA / 8208964

上杉謙信は、越後守護代の「長尾為景(ながおためかげ)」の息子として生まれました名前は「虎千代」。
その頃の越後(新潟県)国は内乱が続いて父は戦い続ける毎日を過ごしています。
越後守護「上杉房能(うえすぎふさよし)」と、関東管領(関東地方を管理する役目)「上杉顕定(うえすぎあきさだ)」 を討ち滅ぼして、妹婿である「上杉定実(うえすぎさだざね)」を越後守護にして、越後を平定しようとしていました。

父のあとを兄が継いだものの統治能力がなく内乱も治まらないことから、主君の上杉定実の仲介で後を継いで守護代になります。
名前は「長尾景虎(ながおかげとら)」となります。

上杉定実が後継ぎを決めずに亡くなってしまったことから、室町幕府十三代将軍「足利義輝(あしかがよしてる)」の命令で、謙信は国主となったのでした。
しかしそれに反対する者も多く、それに増して味方をする者も多く、22歳で越後を統一したのです。

ようやく平和になった越後に、北条氏に侵攻されて関東管領の「上杉憲政(うえすぎのりまさ)」が謙信を頼ってやってきました。
後にその礼に上杉憲政は謙信を養子にして「上杉」の姓を与えたのでした。
同じ年、武田信玄が信濃を攻めます。
それによって追われた信濃守護の「小笠原長時(おがさわらながとき)」、次の年に信濃国葛尾城主の「村上義清(むらかみよしきよ)」が助けを求めてきました。

海津城誕生!

海津城誕生!

image by PIXTA / 26751935

川中島の戦いは5回の合戦となりました。
第1次合戦は天文22年(1553年)、第2次合戦は天文24年(1555年)、第3次合戦は弘治3年(1557年)、第4次合戦は永禄4年(1561年)、第5次合戦は永禄7年(1564年)。
いずれも決着がつかず引き分けとなっています。

さて、この戦いの真っ最中の「1553年」に海津城は築城されたと、武田家の戦略・戦術を記した軍学書である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に書かれています。
しかし実際の所は不明のようです。

今は「1559年」というのが有力のようですね。
その年といえば第3次合戦が終わった頃。
それまでの第2次合戦の時は200日かけても勝負がつかず、第3次は互いに成果もなく終わったので、信玄は次こそは決着をつけねばと思ったことだと思います。

場所は千曲川のほとりで、信玄が国衆の清野氏の館を「山本勘助(やまもとかんすけ)」に命じて城にしたといわれています。
清野氏というのは、川中島の戦いの原因の1人である村上氏をリーダーとした国衆たちの1人だったようで、ちょうど大河ドラマの「真田丸」の最初の頃に真田氏を中心に国衆達が集まっていたのと近いものがあったのかもしれません。
武田軍による戸石城攻めの時に「清野清寿軒」が武田軍にくだったとされています。
築城は川中島四郡(更級・埴科・高井・水内)の国衆が出仕したとされています。

海津城は川中島の拠点とされ「高坂弾正(こうさかだんじょう)」という重臣が配置されています。

城の形態は平城で千曲川を背後に堅固なものでした。
また武田氏独特の「甲州流築城術」の特徴があるといわれています。
特に有名なのが「馬出し」と呼ばれるものです。
城の出入口の守備を堅実にするために土塁や石垣を積んだ曲輪(くるわ)を築いたもので、ここからは守りだけでなく攻撃も容易で内側から鉄砲で狙い撃ちができます。
大河ドラマ「真田丸」に出てきた真田丸はまさしくその形で、戦闘シーンでその強固さを観ることができました。

The 川中島の戦い!と海津城

The 川中島の戦い!と海津城

image by PIXTA / 11536690

いよいよ川中島の戦いで最も有名な第4次川中島の戦いの始まりです。

この戦いは「川中島の戦いといえば、この戦い!」といわれるほど有名な戦いとなりました。

後の講談などで多少は脚色されているところもありますが、まず1561年8月、謙信が越後を出て海津城の南にある「妻女山」に陣をはります。
その知らせを海津城の香坂から受けた信玄は海津城に入ります。
先に謙信が陣をはっていたのだから海津城をさっさと攻めればいいものの、なぜか謙信は動かず武田軍が入るのを待っています。
にらみあいが続き、山本勘助が中心となって「キツツキ戦法」というのを考えます。
味方を二手に分けて、香坂軍が夜のうちに妻女山に登り背後から攻めて、上杉軍がたまらず山を下りたところを本隊が鶴の羽のように広げた布陣で挟み撃ちにするという戦術です。
キツツキが木をコンコンくちばしで叩いて、あわてて出てきた虫を食べるというところから名前がついているそうですね。

謙信は逆に海津城から「狼煙(合図の煙)」が何度も上がるので「これは挟み撃ちだろう」と直感して、夜のうちに山をくだります。
そのために山攻めに行った大軍は空振りとなり、待ち構えていた軍は霧が晴れたら目の前に上杉軍がいたのでビックリ。
追いかけるように山を下った軍は、逆に上杉軍が待ち構えているという体たらくで、山本勘助はじめ、信玄の弟など有力な武将が亡くなっています。

そこで川中島の戦いといえば一番の見せ場、謙信が単身で武田本陣に馬を走らせて、陣で座っている信玄に向って斬りつける!信玄が持っていた軍配で受け止める!という名シーンが(本当にあったかどうかわかりませんが)銅像になって残っています。

しかし、山からの別働隊も時間はかかったものの到着し、かろうじて持ちこたえていた本隊は元気つき、上杉軍は軍を引き上げて行き修了となりました。

その後も、武田家が滅亡するまで海津城は武田の重要な城で、高坂弾正がそのまま城代となっていました。

江戸幕府が開かれるまでの役割とは?

武田信玄が亡くなり、後を継いだ「武田勝頼(たけだかつより)」の時代に「織田信長」が信州に侵攻してきました。
有名な「長篠の戦い」で武田軍が大敗して力が衰えてきます。
海津城は後陣を守る役割で高坂弾正は動きませんでした。
その後の謙信の死後に起った後継ぎ問題からの越後の内乱「御館の乱(おたてのらん)」では、北条氏の一族から謙信の養子に入っていた「上杉景虎(うえすぎかげとら)」に対して、高坂弾正が中心となって武田は謙信の甥である「上杉景勝(うえすぎかげかつ)」に味方をして勝利を得ます。
北条氏の上杉景虎が越後の国主となると挟み撃ちにあうという危惧からだったかもしれませんね。
しかし武田は滅びてしまいました。

織田信長時代の海津城

織田信長時代の海津城

image by PIXTA / 2165104

1582年3月に武田氏滅亡した後、海津城を中心とした信濃川中島四郡に、織田信長の家臣であり「本能寺の変」で信長と最期を共にしたことで有名な「森蘭丸(もりらんまる)」の兄である「森長可(もりながよし)」が入ります。

それを不服とした御館の乱から上杉家と結びつきが強くなっていた旧家臣たちの反乱が起りますが、武功に優れた森軍の前には歯が立たず2日で決着がつきました。

支配することが大変だと痛感した森長可は、支配下となった武田旧家臣たちや反乱に荷担した住民たちの妻子を人質として海津城城下に住まわせることにしたのでした。
その反面に家臣となった武将達との会談や領地安堵なども精力的に行っています。

同年5月、織田軍が越後を侵攻すると同時に、森長可は軍を率いて応援に駆けつけます。
その勢いで上杉家の城「春日山城」近くまで攻め込んでいた6月2日、本能寺の変が起り織田信長が亡くなってしまいました。

それを聞いた武田旧家臣達は、後に「真田家」に仕える「出浦盛清(いでうらもりきよ)」以外すべて裏切り、森長可は人質を楯にして命からがら海津城から逃げました。

織田信長の死によって、わずか3ヶ月弱の支配で終わったのでした。

Writer:

3度のご飯より歴史が好きです。歴女というのが今メジャーなようですが、どちらかというと私は歴史ヲタクという泥臭い感じがします。

この記事のカテゴリ

国内
山梨県
建築
歴史
長野

関連記事を見る

国内の記事を見る

【京都の温泉13選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【栃木の温泉15選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【大阪の温泉16選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【山梨の温泉8選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【兵庫の温泉8選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【群馬の温泉8選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【愛知の温泉6選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【埼玉の温泉8選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【長野の温泉16選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【岐阜の温泉8選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【福井の温泉7選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!
【富山の温泉8選】温泉愛好家がおすすめする温泉施設はここ!