秀吉の妻ねねの高台寺、やさしさと魅力に溢れた京都の名所

京都有数の観光名所、八坂神社から清水寺まで続く道を歩いていくと、途中を少し高台に上ったところにあるのが、高台寺です。豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)ねねの建立したお寺として有名ですね。この高台寺は、ねねが夫秀吉の菩提を弔うために建立されたお寺と伝えられています。いったいどんなお寺なのでしょうか?ねねの生涯や人となり、高台寺建立の歴史、そして季節ごとの高台寺の魅力など、高台寺がどういったお寺なのかを一緒に見ていきましょう。

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さまざまな観光スポットに囲まれた高台寺

さまざまな観光スポットに囲まれた高台寺

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京都東山に桃山時代から残っている寺院

高台寺は、京都市東山区にある臨済宗のお寺です。
ご存じの方も多いかと思いますが、祇園からほど近い八坂神社から清水寺に向かう途中には、二年坂、産寧坂と、お土産物や食事処が立ち並ぶ観光名所があります。
その二年坂に差し掛かる少し前に高台寺はあります。
現在きれいに舗装された高台寺西側の道路は、ねねの道とされており、大門から道路を渡り西側には、掌美術館というねねの愛蔵品が展示された美術館もあります。

大門から石段でできた坂を上っていきます。
台所坂と呼ばれる坂で、100mほど続きます。
坂を上りきり、左へ曲がって少し行くと、高台寺に到着です。
元々はとても広く、さまざまな建物がある寺院でしたが、たびたび起こった火災により、仏殿などは焼失してしまっています。
しかし、国の重要文化財とされる建物をいくつも持つ貴重な寺院です。
一つ一つの建物については、後程ゆっくりご紹介していきますね。

京都にはさまざまな観光スポットがあり、高台寺の近くにも人気のスポットが多くあります。
高台寺の北側には八坂神社、円山公園、南側には清水寺、西側には祇園や建仁寺などさまざまな京都観光の名所があり、高台寺もその観光スポットの中に名を連ねています。

多くの人に愛されたねねという女性

多くの人に愛されたねねという女性

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翻弄されながらも自分の信念を大事に生きた生涯

ねねは、現在の愛知県西部にあった尾張国(おわりのくに)の杉原定利(すぎはらさだとし)の次女として生まれます。
正式な出生日時などはわかっていません。
その後、同じ尾張国の浅野長勝(あさのながかつ)の養女となります。
すくすくと成長して少女になったねねは、織田信長の家臣であった木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と出会います。
この人がのちの豊臣秀吉です。
当時は、親同士や親戚が結婚相手を決めるのが普通の時代。
お互いの感情よりも、利権や家同士の関係のために結婚させられるような時代でしたが、藤吉郎とねねは恋愛結婚であったとされています。
藤吉郎は百姓の子として生まれ、身分が低く、武家の出身であるねねとの結婚には、周囲が猛反対。
ねねの生母は、死ぬまでこの結婚を許さなかったそうです。
しかし、周囲には反対された結婚でも、ねねは献身的に藤吉郎を支え、天下人となるまでにしました。

合戦や信長のお供で城を留守にしている間は、秀吉に代わり、ねねが城の中を取り仕切っていたとも言われています。
秀吉が関白となったときに、朝廷から北政所の名前をもらいます。
位を授かったねねは、秀吉に代わり、朝廷との連絡や交渉などを担当、人質として豊臣家に置かれていた大名の妻や子どもたちの世話や監視役も担っていたそうです。
秀吉が亡き後も、ねねは豊臣家のことを一番に思い、秀吉という柱を失った豊臣家を一生懸命支えます。
その一方で秀吉の菩提を弔うことにも熱心で、その熱心さから高台寺が建てられたとも言えます。
晩年は、高台寺近くの屋敷で過ごし、そこで息を引き取ります。
秀吉が亡くなってから26年後のことでした。

敵からも愛されるやさしい人柄

ねねには、その人柄を思わせるエピソードが数々残されています。
大河ドラマなどでもよく描かれており、現在まで語り継がれています。
有名なのは、秀吉の浮気に悩むねねに、主君であった織田信長が手紙を送った話です。
信長が、家臣の、ましてや妻に手紙を送るということはほとんどないようなことでした。
手紙の内容も、秀吉の浮気を容認するものではなく、「ねねは美しい立派な女性ですよ。
秀吉のようなハゲネズミがねねのような素晴らしい女性を妻にできることはそうそうあることではないのだから、自信を持ってください。」というようなねねを励ます文であったと伝えられています。
戦国時代のような厳しい時代、そして信長のような厳しい性格の持ち主に、このような手紙を送らせたねねは、たいそう良い性格の持ち主だったのでしょう。
この手紙は、現在も名古屋にある徳川美術館に所蔵されています。

また、戦国時代には、家同士の力関係を計り、家臣が主君の家に妻や子どもを人質として預けることがありました。
豊臣家に人質として預けらけた大名の妻や子どもは、ねねが一手に面倒を見ていたようです。
まだ家臣であったころの徳川家康も、三男でのちの徳川二代将軍となる秀忠(ひでただ)を豊臣家に人質として預けていました。
豊臣家に預けられている間に、ねねやその女中から丁重に扱われ、さまざまなことを教わったとして、秀吉がなくなり、豊臣と徳川の立場が逆転してからも、秀忠はねねをたいそう大事にしていたと言われています。
豊臣と徳川は、最終的には敵同士。
秀忠ももちろん豊臣との戦いに参戦しています。
そんな相手からも大切にされるねねは、どんなすばらしい女性だったのでしょうね。

高台寺建立の経緯と数々あるその見どころ

高台寺建立の経緯と数々あるその見どころ

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秀吉の死後建立までの道筋

1598年9月18日、ねねの夫豊臣秀吉は、その生涯を終えます。
秀吉と長く連れ添ったねねは、秀吉の冥福を祈る目的で寺院を建てることを望みました。
ねねを産んだ実母である朝日局(あさひのつぼね)は、現在高台寺がある場所よりも西に当たる京都寺町にあった康徳寺に眠っていました。
ねねは、その康徳寺を秀吉のための寺院にしようと思いましたが、康徳寺はあまり大きなお寺ではなく、秀吉を弔うには狭いという結論に至ります。
結果として、秀吉の菩提寺として、現在の東山に高台寺が建てられたのです。
当初、秀吉の菩提寺として候補に挙がっていた康徳寺は、高台寺の仏殿として移築され、現在は残されておりません。

秀吉の死後、豊臣家にはすでに権力はなく、徳川家康がその実権を握っていました。
家康は、ねねの秀吉の菩提寺を建てたいという願いを聞き届け、高台寺建立のために力添えします。
自分の家臣である武将たちを派遣し、高台寺建立を進めさせたのです。
とくに大きな功績を残したのが堀直政(ほりなおまさ)であったとされており、その証拠に高台寺の開山堂の中に、堀直政の木像も収められています。
秀吉の死から8年、高台寺は完成し、曹洞宗の寺院としてスタートを切ります。
それから18年経ち、今度は臨済宗へと改宗し、現在も高台寺は臨済宗の寺院としてあり続けています。

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