東山の名所「南禅寺」で、じっくり感じる歴史と禅の世界

数多くの魅力的な寺社仏閣が並ぶ京都の中で、四季を彩る美しい庭と美しい襖絵などがある南禅寺というお寺をご存知ですか?

鎌倉時代から続く南禅寺の歴史とそれを彩る文化財の数々は知れば知るほど奥深く、禅の心を全身を使って感じられる魅力あるスポット。目で見て肌で感じて舌で楽しむことができる南禅寺の奥深い歴史を感じて、いつもと違う豊かな時間を過ごしてはみませんか。

京都へ訪れたらぜひ足を運んでほしい、深い歴史と文化が心に残る南禅寺の魅力についてご紹介します。

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700年の歴史を刻む南禅寺とは

700年の歴史を刻む南禅寺とは

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日本全国にある禅宗のお寺の中で最も格式が高いとされる南禅寺は、臨済宗南禅寺派の中心のお寺(大本山)です。

1291年に開山されて以降、多くの人々を引き付ける美しい庭園や国宝に指定される建築物に襖絵などの文化財は、何度見ても圧倒される存在感を持っています。

そんな南禅寺は元々は鎌倉時代の第90代天皇である「亀山上皇」の離宮に現れる妖怪を「無関普門(むかんふもん)」という臨済宗のお坊さんが退治した功績によって離宮を譲られたことで初代住職となり、臨済宗のお寺となりこの場所が臨済宗南禅寺派の本山となったのです。

南禅寺は臨済宗の寺院制度である五山よりも格式が高いとされ、同じく京都市北区にある大徳寺と並んで五山筆頭と言われて、天皇や上皇によって国家や皇室の安寧を祈願して建てた日本最初の勅願寺(ちょくがんじ)でもあります。
そのため南禅寺は京都五山だけでなく鎌倉五山よりも上とされる、由緒ある格式の高いお寺なのです。

そんな南禅寺は信者じゃなくても気軽に拝観できて豊かな情緒を堪能できる、親しみやすい観光スポットでもあります。

南禅院の持ち主だった「亀山上皇」とは

「亀山上皇」(1249年~1305年)は鎌倉時代の後期の第90代天皇で、承久の乱の当事者の一人である後鳥羽上皇(後鳥羽天皇)のひ孫にあたる人です。
その治世は平穏とはいいがたく、わずか10歳の時に起きた地震やt台風、寒さを原因とする大凶作によって起きた正嘉の飢饉(1258年8月)のさなかに、兄である「後深草天皇」(1243年~1304年)より皇位を譲られて天皇になりました。

教科書でもお馴染みの日本が初めて外国に攻め込まれた「元寇(げんこう)または蒙古襲来(もうこしゅうらい)」はこの亀山天皇の時代に起きたもので、三重県の伊勢神宮や和歌山県は熊野の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)で勝利を祈願するなど、信心深く元の軍勢を撤退させた台風「神風」は亀山天皇の祈願によって起こったという逸話が残るほどでした。

そんな亀山天皇は1274年に息子の後宇多天皇に皇位を譲り上皇となった後、院政という天皇に代わって政務を行う位に就き「亀山上皇」と呼ばれるようなり、院評定制をはじめとした様々な政治改革を行ったのです。

その後1289年に当時亀山上皇の離宮であった南禅院で禅宗に帰依して出家し「亀山法皇」となったことをきっかけに公家の間で禅宗が広まり今日に至るきっかけを作りました。

亀山法皇のお墓は京都市右京区にある天龍寺にありますが、南禅寺にも分骨されており南禅院の庭に御廟(一般公開はされていません)があります。

南禅寺の祖「無限普門」とは

南禅寺の初代住職である「無関普門(むかんふもん)または大明国師(だいみょうこくし)」(1212年~1292年)は鎌倉時代中期に生まれた臨済宗の僧侶です。

今の長野県長野市で生まれ新潟の正円寺で住職をしていた叔父の「寂円」に預けられ修行をし、13歳の時に得度して僧侶となりました。

その後様々なお寺で修行をする中で日本に臨済宗の教えを持ち込んだ「栄西」の弟子である「釈円栄朝」から禅を学び、さらに修行をするために中国の宋へと渡り約10年ほどかけて禅宗寺院を巡りました。

帰国後も様々なお寺を巡り修行を重ね再び宋へ渡るなど、精力的に仏道を邁進して行きました。

京都市東山区にある東福寺の三代目住職となりそこで生涯を終えるまで、禅の道を教え説いた人でもあります。

そんな無関普門が無くなる一年前、79歳の時に亀山法皇に頼まれて離宮に出るという妖怪を退治したことで功績を称えられ、翌年に南禅寺を開山し初代住職となりましたが、その年に遷化されました。
その墓所である東福寺の住居跡の「龍吟庵」は11月の秋の特別公開の際に大人500円、子供300円で拝観することができます。

臨済宗南禅寺派って?

南禅寺の宗派である臨済宗とはどのような宗派なのでしょうか。

臨済宗そのもの大きな教義を簡単に言えば『禅を通して悟りの心(仏性)を知る』というもので、他の禅宗と違うポイントは『公案』という和尚さんの問題に対して一生懸命考えながら悟りを開いていく修行方法です。

この臨済宗はもともと5世紀~6世紀ごろにインドから中国へ来た仏教の僧侶「菩提達磨(ぼだいだるま)」が広めた『坐禅(ざぜん)』による瞑想によって悟りの得ていくという禅宗の教えを、平安時代後期から鎌倉時代初期の禅僧である「明菴栄西」(1141年~1215年)が日本仏教の精神的な立て直しに禅の教えが必要と考えて中国の南宋から持ち込んだのが始めとされています。

その後中国からわたってきた様々な僧侶からも禅宗は広められますが、日本の臨済宗は明菴栄西が開祖として京都市東山区の建仁寺を開山しました。
そんな明菴栄西に弟子入りしその教えを受けたのが無関無限の師匠である「釈円栄朝」(1165年~1247年)なのです。

無関無限が学んだ禅の教えの基本は簡単に言えば『坐禅によって瞑想し自身を見つめ律してお釈迦様と同じように己の中の仏の心を見つけ、文字や言葉ではなく自分自身が苦しみも喜びを知り、人々と心と心で通じ合う』というもので、南禅寺派というのは臨済宗の中の南禅寺を本山とする一つの流派ということ。

臨済宗には多くの流派が存在しますが、その大本は菩薩達磨が中国で広め明菴栄西が日本へと持ち帰った『お釈迦様の教え』であることに変わりはありません

禅寺とお茶の切り離せない文化

禅寺とお茶の切り離せない文化

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禅宗のお寺へ行くとお抹茶が飲めたり本格的な茶室があり、お寺によっては定期的なお茶会が開催されることがあります。

これは禅宗とお茶文化が深くかかわっているからというのはご存知でしたか。

日本にお茶文化が広まる前、禅宗の元である中国の禅寺ではお茶は厳しい坐禅修行の間の眠気覚ましや気付けとして飲まれていました。

これは睡眠をほとんどとらず一日の大半を坐禅を組み瞑想をして過ごす修行では、極限まで睡眠欲を高めて「名誉も物欲もどうでもいい」という心境にさせて「当たり前に眠れること」といった日常のごく普通の生活がどれほど素晴らしくありがたいかを知るというものがあり、その際に眠気覚ましに濃い抹茶を飲む習慣ができました。

また禅宗のお寺ではただ抹茶を飲むのではなくその飲み方に茶道とは違う独特の作法があり、それもまた修行の一環として行われています。
そのため禅宗のお寺にはお茶に関する文化が根付いているのです。

一度は廃れたお茶の文化

では日本において禅宗とお茶の文化はどのようにして根付いたのでしょうか。

毎日の生活の中で多くの人々に親しまれている日本のお茶文化は、奈良時代に中国から伝来したものが始まりとされています。

所説ありますが一般的なお茶文化の始まりは比叡山延暦寺の開祖である最澄が中国からお茶の種を持ち帰り、比叡山で栽培したのが始まりとされていますが、現代のように庶民には浸透せず平安貴族や京都の寺院にのみ広がっていったそうです。

そもそもお茶の文化が平安貴族に広まったのは600年ごろから始まった中国の唐に使節を送る『遣唐使』が茶葉を持ち帰ったからとされ、遣唐使の廃止により当時最先端だった唐の文化が廃れると同時にお茶の文化も衰退していきました。

そんなお茶文化も時代が進み1191年の宋の時代に明菴栄西がお茶の種と苗木を持ち帰り栽培をはじめた事で再び花開いていき、貴族をはじめ武家や庶民にも親しまれるようになりました。
つまり明菴栄西は臨済宗の祖としてだけでなく、現代の日本茶文化の祖とも言えるのです。

ちなみにこの当時のお茶はいわゆる抹茶であり現代人が好む煎茶は江戸時代に入ってから広まったもので、当時はお薬としての面が強かったとされています。
これは明菴栄西が宋で高熱が出る病気になった時に滋養の薬として飲み元気になったのがきっかけで日本へと持ち帰ったのです。

当時のお抹茶は滋養の薬としてだけでなく戦場で武士が眠気覚ましの薬としても飲んでいたといわれ、様々な地域で栽培されるようになると公家や武家だけでなく庶民の嗜好品としても徐々に広まっていきました。

平安時代の貴族文化から鎌倉時代の武家文化へと移行する最中であったのもお茶が広まったきっかけかもしれませんね。

南禅寺に溢れる禅の心と文化財

鎌倉時代に創建された南禅寺は現代までも続く豊かな歴史と文化を刻んでいる、京都有数の観光スポットです。

そのため創建より残る物や近代で新しく作られた物、禅の心が息づくものから京都が刻んだ歴史まで、知っているとより深く感じることができる文化財や拝観の時にぜひ注視してほしい、魅力あふれる南禅寺のポイントについてご紹介します。

御所にあった重要文化財「勅使門」

御所にあった重要文化財「勅使門」

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そもそも勅使門の『勅使(ちょくし)』とは天皇の使者のことを言い、その扱いは天皇と同等に敬意と畏怖をもって迎えていました。
この勅使門とはその寺院で使者を迎え入れる専用の入り口のことで、鎌倉幕府以降は将軍の使者も勅使と呼んで迎え入れる際には、この勅使門を開いています。

南禅寺の勅使門は1641年、3代将軍の「徳川家光」の時代である寛永18年に当時御所にあった『日の御門』を「明正天皇(めいしょうてんのう)」(1624年~1696年)より拝領した、由緒ある門なのです。

現在の南禅寺ではこの勅使門は新しい住職の就任の際や勅使が通る際に開かれ普段は閉じた状態でしか見ることはできませんが、安土桃山時代の伝統的な建築様式で佇む姿は、まさに『勅使』を迎える門としての趣を感じられます。

日本独自の伝統の屋根である樹齢70年以上のヒノキの皮だけを使た『檜皮葺き』の優美な曲線と落ち着き、格式高い四脚門の重厚さは年月を重ねた木材だからこそ彩れる、濃い色目が美しい建築物です。

特に勅使門の屋根を支える『蟇股(かえるまた)』に施された動物の彫刻の迫力と勅使門の随所に設えられた牡丹紋の優美な彫刻は、瞠目に値し一見の価値があります。
また『蕪懸魚(かぶらげきょ)』や『妻飾(つまかざり)』のといった金色の装飾具に施された『菊紋』の華やかさと相まって、成熟された武士文化に溢れた意匠を楽しむことができますよ。

「南禅寺」といえば荘厳な「三門」

「南禅寺」といえば荘厳な「三門」

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安土桃山時代の伝説の大泥棒「石川五右衛門(いしかわごえもん)」(生年不詳~1594年)を題材とした歌舞伎の『楼門五三桐』という演目で、南禅寺の三門の上で満開の桜と夕日を背景に煙管を吹かしながら「石川五右衛門」が粋に『絶景かな絶景かな』から始まる台詞を廻すシーンがあります。

その台詞でもあるようにこの三門から見える景色は『値千金』の絶景で、京都の街並みはもちろんモミジの名所で知られる「西山連峰」を一望することができ、まさに『絶景かな』と感嘆すること間違いなし。

そんな『三門』は仏教の教えで三つの煩悩を現す『空(物事にこだわらない)』『無想(他と比較差別しない)』『無願(ない物ねだりをしない)』の門があり、三門を抜けることで『解脱=悟り』を得てして仏の世界(仏国土)へ行けるという教えを表現しているもので、『山門(さんもん)』もしくは『三解脱門(さんげだつもん)』とも呼ばれています。

南禅寺の三門は開山から4年、1295年に和歌や琵琶の名手として知られる「西園寺実兼(さいおんじ さねかね)」(1249年~1322年)の寄進によって建てられたものです。
しかしこの後に起こった幕府を巻き込んでの寺院同士の争いである『南禅寺楼門事件』で1369年に土台の石まで壊されてしまい、新しく新三門を立て直しますが1447年の火事で焼失しました。

現在の三門は戦国時代から江戸時代にかけての猛将「藤堂高虎(とうどうたかとら)」(1556年~1630年)が徳川と豊臣最後の戦いである1615年の『大坂夏の陣』の戦没者を弔うために寄進し再建されたもので、この完成を祝って1628年に「佐久間勝之(さくまかつゆき)」が贈った高さ6mmある日本三大灯籠の一つと言われる石灯篭が門前右側にあります。

伝統的な禅宗建築の力強く無骨なほどの重厚さで見るものを圧倒する列柱群と楼閣内部の今なお極彩色を放つ優美な天人と鳳凰が舞う狩野探幽筆の天井画、緻密な彫刻で圧倒的な存在感を放つ『宝冠釈迦座像(ほうかんしゃかざぞう)』と『十六羅漢像(じゅうろくらかんぞう)』は見るものに驚きと感動を与えてくれます。

何度も燃え再建された「南禅院」と「法堂」

何度も燃え再建された「南禅院」と「法堂」

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南禅寺の法堂の南側にある南禅院は1287年に創建されましたが、1393年以降に火事や応仁の乱などで当時の物は焼失し、現在の南禅院の建物は『生類憐みの令』で有名な5代将軍の「徳川綱吉(とくがわつなよし)」(1626年~1709年)の母である「桂昌院(けいしょういん)」(1627年~1705年)が1703年に寄進し再建されたものです。

総ヒノキの入母屋造りで柿の木などでできたコケラ葺きの伝統的な建築様式で、南禅院の襖絵には江戸時代の絵師「狩野常信(かのうつねのぶ)」号で養朴(1636年~1713年)と息子の「狩野周信(かのうちかのぶ)」号は如川が描いた水墨画を望むことができます。

庭は鎌倉時代に作庭されてから現在まで残る数少ない名勝地です。
池を中心とした池泉回遊式回廊が特徴的な南禅院の庭は池泉庭園特有の自然の美を生かした華やかさと幽愁の趣が混在した、幽玄の無想を感じさせる雰囲気を感じられます。

その中に佇むお堂には現存する最古の天皇の肖像彫刻である「木造亀山法皇坐像」が安置されていますが、一般公開はされておりません。
しかし庭からお堂の中を伺うことはできるので、のんびりと散策しながら拝観するのがおすすめです。

南禅院と同様に禅宗寺院の特徴である法堂も『応仁・文明の乱』(1467年~1477年)の火災によって創建当時の建物は燃えてしまい、その後の再建や大改築をされましたが明治時代の1893年の火災で焼失しています。

現在の法堂は1909年に再建されたもので、中では本尊の『釈迦如来』『文殊菩薩』『普賢菩薩』の三尊像が安置され、参拝者を厳かに見つめ、天井には明治から大正にかけて活躍した四条派の日本画家である「今尾景年(いまおけいねん)」(1845年~1924年)が描いた息を飲むほどの迫力を醸し出す雲龍図が見下ろしています。







国宝の重厚さを感じさせる「南禅寺の方丈」

国宝の重厚さを感じさせる「南禅寺の方丈」

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南禅寺が誇る国宝の『方丈』は主に禅宗寺院に多く見られる古典的な建築様式のことを言い、本尊などの仏像を祭る『仏間』、住職の住まいである『書院』、お勤めをする場所の『室中』、一般の参拝者の応接室『礼の間』と檀家用の応接室の『檀那の間』、師匠から弟子へ教えを説き伝える『衣鉢の間』の六部屋が基本となった建物で用途や建物の規模によって部屋数は変わり、建てやすく壊しやすいのが特徴の伝統建築です。

南禅寺の方丈は十部屋からなる『大方丈』と四部屋の『小方丈』の二つからなり、大方丈は1611年に天生年間(1573年~1593年)に御所の内裏にあった清涼殿を下賜されて移築して再建したものと言われ、安土桃山時代の狩野派の絵師が描いた豪奢な障壁画がそのまま利用されていましたが、現在では経年によって痛んで退色したりした物を収蔵庫へ保管し、デジタル技術で江戸中期頃の色を復元した複製の障壁画が公開されています。

小方丈は京都市伏見区にあった伏見城の遺構を使ったものと言われ、寛永年間(1624年~1644年)の建築物で、天才と言われた「狩野探幽(かのうたんゆう)」(1602年~1674年)の『水呑の虎』をはじめとした障壁画『群虎図』などの優美にして余白を生かした端麗瀟洒な水墨画を見ることができ、この二つの方丈を合わせて1953年に国宝に指定され、方丈を囲む庭園と合わせて人気の観光スポットです。

また方丈の隣りにある本坊にある『滝の間』では、庭を眺めながら一杯500円で美味しいお抹茶と南禅寺特製のお菓子で、ゆったりとした極上のひと時を過ごすことができます。

禅の心が息づく風流な枯山水の庭

禅の心が息づく風流な枯山水の庭

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南禅寺では方丈庭園など禅の侘び寂びの心が生きる名勝指定の庭を楽しむことができます。

方丈庭園などの庭を作った「小堀遠州(こぼりえんしゅう)」(1579年~1647年)は徳川幕府の城や庭の造営修繕の管理から木工などの仕事をメインに行う『作事奉行』の役職を持つ大名で、作庭だけでなく建築や書画、茶の湯の名手としても知られる、天才プロデューサーで代表作として世界遺産の二条城二の丸庭園や高台寺の庭園などを手掛けています。

その作庭の特徴として巨石の並ぶ庭の中に様々な形の切り石などの直線的な意匠を用いて、茶の湯や和歌、書画に造形が深い小堀遠州らしい『綺麗な寂び』と言われる茶道の美学が生きた高い美意識とチャレンジ精神があるものです。

南禅寺の大方丈には小様々な大きさの六つの石が遠近感生み、まるで虎の親子が川を渡るように見えることから通称『虎の子渡し庭』の白砂と大日山の四季の色を借景した鮮やかなコントラストが美しい枯山水があり、そこから続く小方丈には別名『如心庭』と呼ばれる「柴山全慶(しばやまぜんけい)」(1894年~1974年)作庭の『心』を象った巨石が並ぶ解脱を象徴とした枯山水がある禅庭園が望めます。

また勅使門の手前右側にある塔頭『金地院』の『鶴亀の庭』も「小堀遠州」の手によるもので、特別名勝に指定された江戸初期の代表的な枯山水庭園です。

その最大の特徴として『遥拝石』という長方形の平らな巨石がまるで道のように並ぶ造りで、常緑樹を背景にした鶴島の石と落葉樹を背景にした亀島の石がある石庭は、徳川幕府の基礎を作った重鎮である「以心崇伝(いしんすうでん)」(1569年~1633年)が「徳川家光(とくがわいえみつ)」(1604年~1651年)ために作らせた庭と言われ、『鶴』『亀』『蓬莱』を表して徳川家の安寧と安泰を願ったものと言われています。

和のお寺の中に佇む西洋建築「疏水」

和のお寺の中に佇む西洋建築「疏水」

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南禅院に至る手前に突如として現れるレンガ作りの巨大な建造物が『琵琶湖疏水水路閣(びわこそすいすいろかく)』は、明治維新後に琵琶湖の水を京都市内へと流す水路の一部で1885年から1999年まで行われた、国を挙げての一大治水プロジェクトの史跡です。

取水地である琵琶湖から鴨川、大阪湾まで水を運ぶこの疎水は現在でも京都市内へ豊かな水を運ぶ上水道の水路であり、水力発電や観光資源として現在も様々な用途で利用されています。

そんな疎水の一部が南禅寺の横を通っており、現在は廃止された『蹴上インクランク』へと繋がっており、国の産業遺産の史跡として大切に保存され、この琵琶湖疎水を取水地から終点まで追いかけるファンもいるほど大切に守られているのです。

文明開化の足音が響く明治時代初期に日本初の水力発電所を設計した「田辺朔郎(たなべさくろう)」(1861年~1944年)が設計と監督を務めたもので、古代ローマの水道橋を参考にして歴史ある南禅寺の景観にマッチするように配慮された、レトロモダなデザイン。

古びた赤レンガと花崗岩で作られたアーチ型の橋脚が印象的な疎水の水路閣は、和の風景の中に溶け込んだノスタルジックな風情と郷愁を感じさせてくれる水路閣は、多くのドラマやCM、映画などに使われる人気スポットです。

京都市営地下鉄の蹴上駅から続く水路閣を辿りながらの散策もおすすめですよ。

ほっこり心が満たされたら絶品湯豆腐でお腹もほっこりに

ほっこり心が満たされたら絶品湯豆腐でお腹もほっこりに

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観光の目玉と言えば何と言っても美味しいご当地グルメ。

京都と言えば京野菜をふんだんに使った上品な京懐石や精進料理ですが、南禅寺に来たら絶対に押さえたいのが『湯豆腐』です。

優しい昆布の風味が香るお出汁で程よい火加減で茹でられたお豆腐を、ポン酢などでつるりと頂く南禅寺発祥のグルメ『湯豆腐』についてご紹介します。

湯豆腐発祥の地「南禅寺」

南禅寺のグルメといえば『湯豆腐』が有名ですが、この理由はご存知でしたか。

そもそも豆腐は諸説はありますが奈良時代の頃に中国から伝わってきた料理で、貴族や武家などの特権階級の人や動物性の食材を食べてはいけない仏教の僧侶が精進料理に利用されるようになりました。

現代の豆腐とは違い当時はまだにがりで固めることをせず、大豆をふやかして石臼ですり火を通したままボロボロのそぼろ状態のいわゆる『生呉(なまご)』をお粥に混ぜて食べていたそうです。

その後室町時代の頃になり石臼が広く普及したことで豆腐の量産ができるようになり、江戸時代に入ると食文化の発展と共に庶民へと広く浸透していき、その過程で現在のような豆腐になったと言われています。

そんな時代の中で寺社仏閣への参拝が流行するようになると門前町では様々な精進料理が振舞われるようになり、特に京都は豊かな水と美味しい豆腐が有名だった事と江戸時代初期の頃では豆腐は特別な日に食べる縁起物とされていたので、特別な行事であったお寺参りの際に食していました。

もともと硬い豆腐を使ったおでんのようなメニューがあり、そこから寒い冬に凍えた身体を温める鍋物として湯豆腐が開発されと考えられています。

残念ながらその発祥のお店については詳細な情報が残っておらずいつ誰が最初に作ったかは不明ですが、南禅寺三門近くにある『奥丹(おくたん)』は、現存する最古の湯豆腐のお店として現在も江戸から続く老舗の味を楽しむことができます。

南禅寺周辺にある老舗の湯豆腐店

1635年に創業された現存する最古の湯豆腐屋さん『奥丹』は、お店の地下にある専用の工房で職人さんが京都の美味しい地下水を使って手作りで作る大豆の旨味と香りが楽しめる上品な口当たりの豆腐を使った湯豆腐や創業時から愛される精進料理が楽しめるお店です。

また客室からは360年の歴史が積もった自然豊かな四季折々の美しい庭園が鑑賞でき、湯豆腐だけでなく様々な極上豆腐料理が楽しめます。

続いて南禅寺の隣りにあり湯豆腐のお店としても観光地としても人気の『順正(じゅんせい)』は、江戸時代の蘭方医「新宮涼庭(しんぐうりょうてい)」(1787年~1854年)が1839年作った『順正書院』という医学校の建物をそのまま使っている、静謐な佇まいの登録有形文化財のお店です。

お医者さんを育てる学校だった頃の面影を残したお庭と斬新なデザインの石門を鑑賞できる順正は、国産大豆を使った濃厚な大豆の香りが楽しめる湯豆腐と湯葉、そして旬の食材を使った京懐石が味わえます。

このほかにも南禅寺周辺には歴史深く美味しい名店が揃っているので、お気に入りを探してお店を巡るのもおすすめですよ。

芯まで「南禅寺」を満喫できる宿泊コース

芯まで「南禅寺」を満喫できる宿泊コース

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南禅寺の駐車場隣りにある『南禅寺会館』は、南禅寺のお檀家さんだけでなく一般参拝者の宿坊体験ができる閑静な雰囲気の施設です。

近代的な清潔感のある建物は大きな窓から明るい陽ざしが差し込むロビーが印象的。
畳敷きの和室とシンプルな洋室があり、宿泊に必要なアメニティが揃っているので最低限の荷物で利用でき、施設内に大浴場があり旅の疲れを癒すことができます。

旅館ではないのでルームサービスや接客はありませんが、その分気軽に宿泊を楽しむことができるのも魅力。
素泊まりか一泊二食と朝食のみのプランを選べて京都観光の宿泊にもおすすめです。

料金も良心的で中学生以上で一般料金6600円から、小学生は一般料金から500円引き、朝食は精進料理で880円、夕食は2625円からで楽しめます。

施設内では無線LANがあるのでお部屋で寛ぎながら翌日のプランを立てるのも楽しいですね。

宿泊特典で「禅」の心に触れる

南禅寺会館に宿泊した人の特典として、国宝の方丈庭園で朝のお勤め『朝課』や『坐禅会』に参加することが可能です。

毎週月曜日や決まった日にちは残念ながら休会しますが、それ以外では希望すれば南禅寺のは修行僧の方々と一緒に通常では入ることができない部屋で体験する『朝課』や、龍淵閣での『坐禅会』では普段では聞けない法話を聞いてから坐禅を組んでじっくりと自分を見つめる、禅の世界を気軽に体感することができておすすめ。

また方丈庭園や三門の拝観が無料になり、じっくりゆったり南禅寺の歴史と文化に触れてより豊かな時間を味わえるので、通常の観光とは違う非日常の時間を楽しむことができます。

この他にも写経会や南禅寺近くの光雲寺や圓光寺での坐禅会の体験も別料金で体験できるので、ぜひ南禅寺に行った際には体験してみてください。

南禅寺へのアクセスと拝観時間、料金について

バスと地下鉄、自動車の三種類のアクセス方法がありとても便利です。

バスの場合は京都市営バスで東天王町または南禅寺・永観堂道で下車して徒歩10分。
地下鉄は東西線「蹴上」駅から徒歩10分です。

拝観時間は季節によって異なり、一般拝観ができない年末の12月28日~12月31日を除く12月1日~2月28日は8時40分~16時30分、3月1日~11月30日は8時40分~午後5時までとなっています。

拝観志納金は三門と方丈庭園が一般500円、高校生400円、小中学生300円、南禅院が一般300円、高校生250円、小中学生150円となりどこも未就学児は無料です。

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