まるで平安の絵巻物!1600年続く京都「上賀茂神社」の歴史

古都京都にある上賀茂神社と聞いて、どんなことを思い浮かべますか?
少し京都に詳しい方なら「葵祭」というお祭りを聞いたことがあるのではないでしょうか。

葵祭の見どころである色鮮やかな平安装束をまとった人々の行列は見ていても圧巻。
その葵祭を取り仕切るのが上賀茂神社なのです。
今回は華やかなお祭りを中心に、古い歴史をもつ上賀茂神社の伝承や境内の造り、京都の中での位置づけ、伝統を受け継ぎ伝える一族についてご紹介をしていきます

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上賀茂神社の御祭神の神話

上賀茂神社の御祭神の神話

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御祭神・賀茂別雷大神

まず最初に上賀茂神社の御祭神についてみていきましょう。

上賀茂神社の名前で親しまれていますが、こちらは通称で正式名称は「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」といいます。
名前の通り、お祀りしているのは「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ」になります。
雷の文字が入っているので、雷神と思われがちですが、これは雷を分けるほどの大きな力を持つ神ということだそうです。

古事記によると賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)が石川の瀬見の小川(賀茂川)で身を清めていました。
すると、上流から丹塗矢(赤く塗られた矢)が流れてきました。
これを持ち帰って寝所に祀って一夜を過ごしたところ、賀茂玉依比売命に子が宿り男の子を出産します。

時が経ちその御子が元服します。
玉依比売の父親の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祝いを開き、数多の神々を祝いの席に招待します。
その祝いの席で建角身命はこれだけの神様がいるならば、この子の父親もいるのではないかと思い、御子に「あなたの父親にこの盃を捧げなさい」と盃を渡します。

すると、御子は「私の父は天におられます」と屋根に上り盃を空へ放り投げ、雷とともに御子自身も天に昇って行ってしまいました。

御祭神のご降臨

悲しみに暮れる祖父・建角身命と玉依比売は毎日のように御子に会いたいと願って過ごします。

するとある日、玉依比売の夢枕に御子が現れて「私に会いたいと願うなら、馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓の蘰(かずら)を作り、厳しく飾って私を待っていてくだされば会いにまいります」と言われました。
玉依比売がその言葉の通り神迎の祭を行ったところ、御子が瀬見の小川の山に天から神としてご降臨されたと言われます。

この天から神として降臨してきた御子が賀茂別雷大神です。

この大神が降臨された山は今では「神山(こうやま)」と言われ、上賀茂神社のご神体として祀られています。
神社にはご神体とされるものが祀られていますが、その多くは鏡であったり剣といった古来の高価なものであることが多いのです。
しかし、古来から信仰されている神社にはご神体が自然物であることが多く、ご神木や泉など自然の恵みや脅威に神を見出した日本らしい信仰の表れでもあります。
中には奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)のように山一帯がご神体とする珍しい神社もあります。
この上賀茂神社もそんな古来からの信仰形態を持つ神社なのです。

上賀茂神社の境内には見どころがたくさん

上賀茂神社の境内には見どころがたくさん

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開放的な一の鳥居の参道

御祭神の御由緒が分かったところで、次は本殿に向かう参道を歩いてみましょう。

大きな鳥居を正面に見るとその背景に大きな空とちょっと遠くに緑豊かな神山を臨むことができます。
大体の神社では鳥居の向こうに延びる参道の脇には木々が並んでいることが多く、鳥居のあちらとこちらでは空気感が一層異なるような印象を受けるものです。

それがこの上賀茂神社ではなく、鳥居をくぐるととても視野が広がり空を大きく感じることができます。

それは鳥居をくぐるとすぐ脇には木々がなく、参道沿い左手には芝生の植えてある長方形の広場があり、右手には同様に芝生に覆われて豊かな桜が植わっている公園のような空間が広がっており、その向こう側には「ならの小川」の流れがあって視界を遮る高いものが何もないからなのです。

左手側の芝生の空間は、徒然草にも載っている5月5日に行われる「賀茂競馬会神事」で使われる広場で、ところどころに桜と楓の木がぽつりと植えてあります。
その桜に向かって鞭を打って掛ける速さを競う神事のためにしつらえられた空間なのです。
そのまま参道を進むとその神事のための芝生の端に神馬舎があり、神馬が座す建物があります。
賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)の神事にはご降臨の際に馬を走らせたことから馬にちなんだものがものが多く、神事に臨む馬は神馬として大切にされています。

あの盛り塩の風習はここから?

第二の鳥居を超えると左奥に行幸(天皇がお参りすること)や祭祀に奉仕する未婚の皇族女性の斎王(または斎院)が座す場所として設えられた細殿があります。

その前には対になって砂を円錐状に盛った「立砂(たてすな)」があり、その形は神山を模したと言われています。
細殿に向かって左の立砂には3本の松の葉が、右の立砂には2本の松の葉がたてられており、それは陰陽道の考え方で奇数と偶数が合わさって神の出現を乞う意味を表しています。

また、今のような本殿が建てられる678年以前の祭場の名残であり、上賀茂神社の象徴でもあります。

立砂は神の依り代でもあることから、この砂には厄を払い清める力があると考えられるようになります。
上賀茂神社の砂を持ち帰り土地を清めるために撒くようになり、塩と同じように用いる風習が広まりました。
現在でも家を建築する人などが砂を求めることがあるそうです。
そして、この厄を払い清める立砂の円錐の形が盛り塩の形となって広く民衆に広がったともいわれています。

この立砂を経て、手水舎で身を清めた後は神域との境でもあるならの小川を越えて進むと左手に朱塗りの楼門が現れ、その門をくぐり中門の階段を上ると、中門越しに本殿と権殿を拝することができます。

上賀茂神社の摂社と末社

上賀茂神社の摂社と末社

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上賀茂神社の大きさはとても広大

やっと本殿にお参りすることができましたね。
でも、これで上賀茂神社の御参りが終わったと思ってはいけません。

通常、大きな神社にはその本殿以外に、摂社または末社と呼ばれるご祭神に縁のある社があるもので、上賀茂神社には本殿以外に24の社があります。
これら全部の社も含めて上賀茂神社と呼ぶのです。

鳥居の中にある本殿近くのお社を回るだけでも2時間はかかります。
境内外のお社は西は賀茂川を越えて大宮通の西側にある久我神社、南は京都府立植物園にある半木神社、北は上賀茂神社のちょうど東へ行ったところにある大田神社とその範囲は大変広いものになります。
南の半木神社から上賀茂神社までは歩いて30分くらいの距離ですので、すべての社をお参りするには半日以上はかかるほどの広さです。

その昔はもっと範囲が広く、北は鞍馬山にある貴船神社から東は下鴨神社までを含む一帯が、「賀茂社」と呼ばれていました。
時代がさがるにつれてそれぞれの社が独立していったのです。

広くゆかりのある摂社たちには家内安全や若返り、子育ての神様など身近な神様から建築業守護や下の病の神様までバラエティ豊か。
24社すべてはご紹介できませんので、その中でも押さえておきたい2つの摂社をご紹介しましょう。

本殿以外のお社もチェックしましょう

まずは第一摂社でとても有名な「片山御子神社(かたやまみこじんじゃ)」、通称「片岡社」をご紹介します。
この社は本殿前の楼門を出て左前にある片岡橋を渡った先にあり、ご祭神は賀茂別雷大神の母神である玉依比売になります。

本殿で行われる神事が始まる前には必ず母神を祀るこの片山御子神社に報告の参拝がされます。
そのことからこの社は古来から重要な摂社とされており、行幸の際には本殿と合わせてこの社にも参拝されることもあったほどです。
1591年には朝廷より最も高い神様の位である「正一位」という神階が奉授されています。

また御祭神の玉依比売は平安のむかしより恋愛成就・子授け・安産の神様として著名であり、源氏物語の作者である紫式部も度々参拝をしていたほど広く知られていました。
今でも恋愛成就を願う方々に人気のお社です。

続いては上賀茂神社より東に位置する大田神社をご紹介します。

この古社は別名「恩多社」とも記され、鎮座された時代は不詳ではありますが、賀茂における最古の社と言われています。
賀茂県主が移住してくる以前より農民から長寿福徳の神として信仰が寄せられていたようです。
御祭神の「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」は天岩戸の前でお神楽を舞った神で、その御神徳を慕って芸能上達を願い参拝する人が絶えません。

また、境内東側の沢地を大田の沢といい、野生のカキツバタが群生していることで有名です。
その美しい紫色の花については平安時代の歌人がその美しさを歌に詠んだことからも、古来から沢一帯に今と同じく咲き誇っていたことが想像できます。

賀茂県主と下鴨神社との関係

賀茂県主と下鴨神社との関係

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天皇家との縁が深い賀茂県主

古来からある上賀茂神社にかかわってきた人々はどんな方たちだったのでしょうか。

今までご紹介したなかで何度も「賀茂」という文字が出てきましたね。
その名前は上賀茂神社のある地域を治めていた豪族の名前です。

この一族は大変古い歴史を持つ一族で、天皇家と同じくらいの歴史があると言われています。
一族の始まりははっきりとはしませんが、公式には賀茂別雷大神の祖父である建角身命から続く一族とされています。
建角身命には玉依比売ともう一人子があり、兄である玉依比古(たまよりひこ)の代々の子孫が賀茂県主となり賀茂別雷大神を祭りました。

また、建角身命は初代天皇である神武天皇の神武東征で、八咫烏(やたがらす)となり、その東征の方向を示し勝利に導いたとされます。

実際のところはわかりませんが、天孫の時代から天皇家のために尽くした一族であると考えることができますね。
平安遷都の際には山城国(現在の京都南部一帯)の豪族であった賀茂氏と秦氏が協力があったことで遷都が実現したとも言われ、京都と天皇家に縁が深い一族であることがうかがい知れます。

この一族は時代とともに細かく分家していきますが、基本的には賀茂社の神職またはそれに従ずる職についており、明治維新により神職の世襲が禁止されるまでは賀茂氏を祖とする県主が上賀茂神社と下鴨神社を管理取り仕切っていました。
世襲が禁止されてからはほとんどはその他の職に就くことが多くなりましたが、それでも今日でも賀茂県主の家系の方が賀茂社にご奉仕されています。
大変結束の固い一族だと言われており、現在も賀茂県主の一族はその歴史ある氏を残すため一般財団法人を起こし、同族でつながりを保っています。

下鴨神社との関係

下鴨神社も上賀茂神社と同様に通称で、正式名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」といい、名前の通り御祭神は賀茂別雷大神の祖父・賀茂建角身命と母・賀茂玉依比売になります。
その昔は上賀茂神社と下鴨神社は一つの神社で「賀茂社」と呼ばれていましたが、奈良時代に分社しました。

奈良時代より昔から賀茂氏の祭ではたくさんの人が集まり、武器や馬で弓を射たりして民衆が参加していたため、脅威を感じた朝廷が賀茂社の規模を分断し勢力を抑制するために分社させられたともいわれています。

そもそもは上賀茂神社が本殿でのちに下鴨神社ができたのですが、下鴨神社には親神が祀られていることから、祭の勅使や行幸の際には下鴨神社より発し、上賀茂神社に入ることになっています。
また、昔から両社を記載するときには「賀茂下上二社」とし、下が先に記載されていました。

しかし現在までも両社とも位は同じとされ、意識的には一つの社として扱われています。

819年には嵯峨天皇より伊勢神宮の祭祀と同格の扱いとなり、朝廷の最高神として双方とも扱われ、手厚い保護を受けるようになります。

神事 賀茂祭(葵祭):1

神事 賀茂祭(葵祭):1

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賀茂祭(葵祭)の始まり

私たちの間で葵祭と親しんでいる5月15日に行われるこの京都のお祭りは元は「賀茂祭」と呼ばれており、上賀茂神社と下鴨神社がまだ一つだったころからの神事になります。

石清水祭、春日祭とともに天皇の御使が遣わされる勅祭の一つであり、祇園祭・時代祭と合わせて京都三大祭りの一つでもあります。

祭の起源は御祭神・賀茂別雷大神が神山に降臨する際に行った、馬を駆けさせ葵楓の蔓で飾った祭がベースになります。
567年、欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に風水害が続き、農作物が実らなくなることが続きました。
この原因を占わしたところ、賀茂の神々の祟りであるとわかり、賀茂社に使いを送り、神々を治めるための祭を散り行いました。
すると、風雨が治まり、五穀豊穣・天下泰平となったため、以降毎年国家行事として4月の吉日に執り行われるようになりました。

平安の時代から親しまれ、「祭」といえば賀茂祭のことを指すほどの大きな祭でした。
源氏物語でもその行列を見ようと牛車の場所取りでもめ事が起こるシーンがあるほど、誰もがその祭を楽しみにしていたのです。

そんな祭も戦乱が激しくなり応仁の乱で祭は一旦途絶えます。
そして1694年の江戸時代に再興され、1870年の明治時代はじめまで執り行われました。
1884年に明治天皇より復興せよとの命がくだり、新暦の5月15日に開催日を変えて再び復興します。
第二次世界大戦により再び中止とされますが、1958年に無事に復興し現代につながります。

賀茂祭(葵祭)にかけてはならぬもの

この祭に欠けてはならないものが3つ。
「葵」と「馬」と「賀茂一族」です。

ご降臨の際に行った祭がベースですので、必ず神事には馬の神事があります。
上賀茂神社では5月5日に行われる「賀茂競馬(かもくらべうま)」です。
堀河天皇の時代の1093年に五穀豊穣祈願のため、宮中で行われていた競馬が奉納されたことから始まる神事。
この騎手である乗尻(のりじり)は代々賀茂の一族が務めており、現在もその習慣は残っています。
乗尻は左方と右方に分かれ、2頭ずつで走り比べ勝敗を競います。

そして葵楓の蔓はこの祭が「葵祭」呼ばれる由縁です。

上賀茂神社の地域に自生していた二葉葵を用いて御殿はもちろん、奉仕する人々とその道具すべてを飾ります。
その装いの姿から、江戸時代に行列復興以降は「葵祭」と言われるようになったのです。

また、「葵」を昔は「あふひ」と読みました。
めぐり逢う日という意味があります。
賀茂祭にこの二葉葵を使うのはこの縁を結ぶ葵を飾り、神とめぐり逢うことを象徴しているかのようです。

そして「葵」と言えば有名な家紋で「三葉葵」の紋があります。
水戸黄門でおなじみの三葉葵の御紋は徳川家の家紋になります。
徳川家は賀茂社の氏子である松平を祖とし信仰篤く、葵を家紋にしたと言われています。
その縁から江戸時代の1610年から250年間、上賀茂神社の境内に自生する葵を徳川家に献上する習わしがありました。

現代になり、500人を超える賀茂祭の行列は華やかで雅やかだった時代を今に見ることができるのですが、1万枚以上の葵の葉を使うことも事実です。

最近ではこの自然群に生えていた二葉葵がなくなりつつあり、賀茂祭にとってその保全は課題のひとつ。
今は地域の協力などで二葉葵を育てるプロジェクトが発足しています。

神事 賀茂祭(葵祭):その2

神事 賀茂祭(葵祭):その2

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賀茂祭(葵祭)の斎院(斎王)

賀茂祭の見どころで有名なのは平安装束をまとった人々の行列です。
この神事の本来の主役は勅使なのですが、どうしても華やかな女性に目が行ってしまいますね。

行列の中でもっとも華やかな女性である「斎王代(さいおうだい)」が生まれたきっかけは嵯峨天皇が平城上皇と対立した際に賀茂社を訪れ、自らが勝利したら皇女を社に仕えさせると祈願を掛けたことから始まります。
嵯峨天皇は810年の薬子の変で勝利した後、伊勢神宮に仕える斎王(斎宮)に倣い、娘の内親王を賀茂斎院としました。

現在では斎王といわれていますが、当時は伊勢に仕える未婚の皇族女性との区別のため斎院とされています。

この制度は平安末期1212年に承久の乱のため途絶えることになり、現代まで復活はしませんでしたが、未婚の皇族女性の代わりとして現代は「斎王代」の女性が行列に華を添えています。

この斎王代の選出方法は非公開ではありますが、古来より京都に縁があり、かつ資産家の女性が選ばれる傾向があります。
その理由として京都の祭へ参加する費用は自己負担のため、衣装装束の用意やメンテナンス・お付添いの方への心付け等の費用を負担できるお家でないと努めることが実質的にできないためと言われています。

賀茂祭(葵祭)のスケジュール

さあいよいよ賀茂祭をみていきましょう。

賀茂祭の最大の見せ場である5月15日の華やかな行列「路頭の儀(ろとうのぎ)」のまえに、実はさまざまな神事があるのです。

4月には斎王代が発表され、5月1日は賀茂競馬足汰式(くらべまえあしぞろえしき)で競馬の馬を確認する儀式が上賀茂神社で行われます。

そして5月3日に下鴨神社で流鏑馬神事(やぶさめしんじ)が行われ、5月4日に上賀茂神社と下鴨神社双方で斎王代以下女人列御禊神事(さいおうだいみそぎしんじ)が。

後の5月5日に賀茂競馬(上賀茂)・弓を使って沿道を清める歩射神事(ぶしゃしんじ)(下鴨)がそれぞれ執り行われます。

5月12日には下鴨神社で前祭として御蔭神社から神霊を迎える神事・御蔭祭(みかげまつり)を行い、5月15日の神事につながっていきます。

5月15日は御所を出た勅使の行列は下鴨神社に到着し、社頭の儀(しゃとうのぎ)として御祭文を奏上し、御幣物を奉納。
そして神馬が引き回されて「東遊(あずまあそび」の舞が奉納されます。

この勅使の行列が賀茂社へ歩いていく神事は「路頭の儀」と言われ、馬36頭・牛4頭・牛車2基・輿1台とともに総勢500名以上が平安装束の装いで歩いていきます。
その姿は昔の絵巻物が現代によみがえったかのような華やかさで、観光客からも人気の神事です。

そして再び行列は上賀茂神社へ向かい、到着すると同様の社頭の儀を行います

それ以降は献茶祭が執り行われて終わります。

古来からの風習を伝える神事

古来からの風習を伝える神事

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