観光の前に知りたい!徳川家の栄枯盛衰を今に伝える「二条城」の歴史と見どころ

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光が楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は「二条城の歴史」をご紹介します。

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二条城ってこんなところ

二条城ってこんなところ

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京都には約3000の寺社と2000を超える文化財があるといわれています。
そんな京都は「日本の宝」が集結したような地です。
千年の都と称される古都京都の文化財は、1994年に世界遺産に登録されました。
今回は、その中の一つで、国宝の二条城の成り立ちをご紹介したいと思います。
二条城は、1603年に徳川家康が、京都御所の守護と上洛時の宿泊施設として造営された元離宮です。
三代将軍家光の時代に完成しました。
その後1867年に大政奉還が徳川慶喜によって発表され、江戸幕府の終焉を象徴する地としても有名なお城。
二条城は徳川初代将軍が建設し徳川時代の最後を発表した、いわば徳川家の栄枯盛衰を語る場所なんです。

石垣と城郭に外堀と内堀が巡らされ、桃山時代の武家書院造りの代表的な建物として知られる国宝の二の丸御殿や二の丸庭園は特別名勝となっており小堀遠州が作ったといわれています。
また、火事で焼失した本丸は現在京都御苑内にあった桂宮殿を移築したものです。
春には敷地内に植えられた約50品種、400本の桜が咲き乱れ、夜にはライトアップされ幻想的な雰囲気を醸し出しています。
徳川家の歴史的背景と山城とは違う明るく美しい二条城は見どころ満載の人気観光地の一つです。

二条城の始まりは二の丸御殿

二条城の始まりは二の丸御殿

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二条城は、関ケ原の合戦で勝利した徳川家康が、秀吉に代わる天下人となったことを示すために築造したお城です。
諸国大名たちに命令して造らせた二条城は1603年に完成して間もなく、家康は征夷大将軍の宣下の祝賀を4月4日から3日間に渡って二条城で行いました。
この頃は既に家康の右に出るものはおらず、軍事戦略的な城ではなく政治目的から京都御所に近い場所に造りました。
家康は当時伏見城を居城としており、京都御所近くで自らを拠点とする城が必要だったのです。
当初完成したのは二の丸御殿。
秀吉が作った聚楽第を超す豪壮で絢爛たる城郭を目指していました。
現在は江戸時代の初期の遺構が残る、唯一の場として国宝になっています。

二条城を作るためにここに住む町屋たちは立ち退きを命ぜられました。
3万平方メートルを超す敷地には、遠侍、式台、大広間、黒書院、白書院と続き、これは雁行の形で室町時代に始まり江戸時代に確立した書院造りで建設されました。
現在の本瓦葺きの屋根は当時は杮葺きでした。
また、御殿それぞれには狩野派による障壁画も豪華で見応えがあります。
家康は、大坂夏の陣や冬の陣にはこの二条城から出陣しているのです。
江戸幕府の始まりのきっかけを作ったのも、この二条城だったんですね!

徳川第三代将軍家光による城の拡張

徳川第三代将軍家光による城の拡張

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1620年には、二代将軍秀忠の娘和子が後水尾天皇に輿入れすることとなり、新たに宿泊のための御殿が建設されています。
1626年10月25日から5日間に渡って後水尾天皇の行幸を迎えることが決まり、1624年から大改修が始まります。
二条城を西に拡大し、その敷地は東西約500メートル、南北約400メートルに及びました。
本丸御殿や天守が完成し、天皇を迎えた時が二条城の一番華やいだころです。
そして有名な伏見城の天守閣もこの時に移築されています。
そして現在の二条城に一気に近づいた時でもありました。

家康時代に作られた二の丸御殿と庭園も改修改造されています。
天皇を迎えるっていうことは、昔も今も変わらず大変なことだったんですね!これには、幕府の力を誇示し、公武和合の政策を示す意味もあったようで、ある意味徳川家の威信をかけた改築だったといえます。
これに対し天皇は、「今が弥勒の世になるべし」と、豪華絢爛な城内に感銘を受け嘆賞されました。
しかも、天守閣には三度も登られ京の景色を満喫されたようです。
この後徳川家光は、左大臣の職を与えられています。

栄華を誇った二条城の陰り

栄華を誇った二条城の陰り

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1634年に秀忠が亡くなり、家光が30万7000の兵を連れて入城したのを最後に二条城に将軍が入城することはなくなりました。
ここから歴史の表舞台から姿を消してしまい、暴風雨や地震、落雷で建物は破損し老朽化が進みます。
1750年には落雷により天守閣を失い、1788年の大火では本丸御殿等も焼けてしまい見るも無残な姿に変貌しました。

二条城が廃れていくように徳川家の権威も実権も衰え混乱期に入りました。
世の中では攘夷を巡って朝廷と幕府の間で軋轢が生まれ、薩長同盟による倒幕の動きも激化する始末でした。
家康が二条城を増築してから260年余がたった1863年に14代将軍家茂が二条城に入城しました。
家茂は力ある限り和解を探り、政を進めますが力及ばず、この世を去りました。
15代将軍慶喜はとうとう万策も尽きてしまい、1867年10月13日に、二条城大広間に諸大名を集めて大政奉還を宣言しました。
なんだか、寂しい気持ちになってしまうのは私だけでしょうか?







大政奉還後の二条城

大政奉還後の二条城

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大政奉還を宣言し、将軍の地位を返上しただけでは事態は収まりませんでした。
この時、徳川家は逆賊という汚名を着せられたのです。
薩長軍は意気揚々と江戸に向けて進発しました。
江戸城の分身的存在となっていた二条城も権威は完全になくなりました。
誕生から徳川家の衰退までを共にした二条城でしたが、朝廷に取り上げられてしまいます。
この二条城には太政官代が、1871年には京都府庁が置かれました1884年には宮内省所管となり「二条離宮」と呼ばれるようになったのです。
1885年に京都府の新庁舎が完成したことにより、二の丸から庁舎が移転すると、二の丸御殿の修理が始まり1892年に完成しました。

1893年京都御所にあった桂宮家の御殿を本丸に移転し本丸御殿となりました。
なんだかここまでくると、徳川家ゆかりの地なんて全然感じなくなってきますね。
そして、二の丸御殿がまた輝く時が来ました。
大正天皇の即位の儀式が二の丸御殿で行われたのです。
二の丸御殿の付属建物もこの時に建てられました。
1939年に京都市に下賜され、ここから現在呼ばれている「元離宮二条城」と呼ばれるようになりました。
第二次世界大戦で敗戦した時は、GHQにより二の丸北側にテニスコートが作られたのです。
「屈辱!なんてことをしたんだ!アメリカめ」って感じだったのでしょう。
それから年月が経ち、1965年に庭園が造られています。

観光化された二条城

観光化された二条城

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現在二条城は年間約120万人の入場者数を誇る観光スポットとなっています。
2006年には日本の100名城の一つに選定されています。
2009年12月に二条城の発掘調査が行われ、天皇行幸の時に建てられた御殿の礎石が確認されました。
これだけではなく、家康が建てた二条城の石垣の一部も発見されたのです。
これは世紀の大発見。
だって現在の二条城は、この家康が造った二条城の上に建てられているんだから…。
実態についてもはっきりしたことは分かっていないのです。
これこそ歴史スペクタル!なんだか浪漫が広がってきます。

2011年には文化財建造物を中心に改修工事を行いました。
この時も天皇家の菊紋の下には徳川家の葵の紋があり、城内の瓦など一部で葵の紋が削り取られていることが分かりました。
これも、江戸から明治に代わる姿を見ていた歴史的生き証人である二条城ならではの光景ではないでしょうか?

徳川家の栄枯盛衰を語る豪華絢爛な二条城へ訪れてみませんか?

家康時代は現在の半分しかなかった二条城。
増改築を繰り返し現在のような豪華絢爛なものへと生まれ変わりました。
徳川家の歴史や京都での徳川の居城となった豪華な御殿、書院造りの庭園など見どころも豊富な観光スポットです。
寺社仏閣以外で唯一世界遺産の仲間入りを果たした二条城に、ぜひ訪れてみてくださいね!
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