観光の前に知りたい!浄土宗総本山の京都・知恩院、その歴史と見どころ

「知恩院」(ちおんいん)。京都にある「南無阿弥陀仏」のお念仏で有名な浄土宗の総本山です。そして、大晦日の”ゆく年くる年”に鳴り響く除夜の鐘でも、有名な知恩院。この知恩院には、国内最大の三門や御影堂があり、とても歴史深い由緒ある寺院です。今回は、紅葉も美しいこの知恩院の成り立ちや見どころ、伝説などについてご紹介します。

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知恩院とは

浄土宗総本山。浄土宗とは?

知恩院は、浄土宗の総本山です。
浄土宗は、法然上人(ほうねんしょうにん)が開いた宗派。
ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を一心に唱えれば、”必ず阿弥陀仏の救済をうけることができ、平和で幸せな毎日を送り、死んだ後は浄土に生まれることができる。
”という教えを世に広めました。

この浄土宗の特徴は、他の宗派は「信じる人の心の中にこそ仏さまは存在する」・「自身の心の持ち用によってこの世が浄土となる」といったような自分自身の心の在り方から、仏や浄土などに向き合う傾向がある中で、一心に念仏を唱えて帰依する阿弥陀仏は、己の心の外に存在する救済者であり、亡くなる時には阿弥陀仏が自らお迎えにきて、その後の浄土の世界では、往生した人がその素晴らしい世界を観ることができ、縁のある亡き者と再び巡り会える世界が存在すると説いている点です。

当時の仏教の中ではこの新しい教えは、なかなか理解されず浸透しませんでした。
しかし、長い年月をかけて、大衆にわかりやすいこの教えは、貴族が中心だった仏教をより多くの人々に浸透させ、日本中に広まり、皇室・貴族・武士をはじめとして、広く一般の民衆にいたるまで、信仰されることなります。

京都で有名な知恩院とは?

知恩院は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山。
仏教の寺院に付ける称号である山号は華頂山(かちょうざん)と言います。
正式名称は、華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)という長い名です。
本尊は、創立者である法然上人像と浄土宗の中心仏である阿弥陀如来(あみだにょらい)。
境内にはとても広大で、国宝となっている御影堂・三門や重要文化財の勢至堂・集会堂、そして文化財指定建造物の大方丈・小方丈・経蔵・唐門・大鐘楼などが建ち並んでいるとても見どころが多い寺院です。
また、四季折々の風景が楽しめることでも参拝者が一年中多く、特に紅葉は素晴らしいと評判。

この知恩院は、浄土宗の宗祖・法然(ほうねん)が後半生を過ごして亡くなられたゆかりの土地に建てられており、現在のように大きな寺院となったのは、江戸時代以降。
この知恩院は、徳川将軍家から一般庶民まで信仰を広く集めて栄え、現在でも京都の人々から、「ちよいんさん」・「ちおいんさん」と呼ばれ親しまれています。

知恩院と法然 その歴史とは?

知恩院は、浄土宗を開いた法然が、現在の知恩院にある勢至堂の付近に営んだ草庵を起源とします。

法然は、平安時代末期の1133年(長承2年)に美作国(現在の岡山県)に生まれました。
13歳になると比叡山に上り、15歳で出家します。
18歳で法然房源空と改名し、1175年(承安5年)43歳の時に中国の唐時代の高僧である善導の著作『観経疏』を読んで、ただひたすら念仏だけを唱える「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意するのです。
法然の「専修念仏」とは、どのような者でもいかなる者でも、阿弥陀如来(あみだにょらい)の名を一心に唱え続ければ、誰でもが極楽往生できるとする思想。
しかし、この思想は、以前からある仏教界から激しく拒絶され、攻撃の的となってしまいました。
法然は、1207年(建永2年)には讃岐国(現在の香川県)に流罪となり、4年後の1211年(建暦元年)には罪を許され京の都に戻りますが、翌年に80歳で亡くなります。

法然の住まいは、現在の知恩院の勢至堂付近にあったとされており、当時の地名から「吉水御坊」・「大谷禅坊」などと称されていました。
この場所は、法然の専修念仏の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除いて、浄土宗を開宗した43歳から生涯を終えた80歳までの間、長きに渡って浄土宗の中心地となりました。
ここに法然の廟(死者を祀る施設)が造られ、法然の弟子たちが守っていましたが、1227年(嘉禄3年)に延暦寺の衆徒により破壊されてしまいます。
しかし、1234年(文暦元年)に法然の弟子にあたる勢観房源智が、この地に廟を再興して、時の天皇であった四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されることになります。
その後も応仁の乱など戦火や火災などで焼失してしまいますが、そのたびに様々な人の手により再興されてきました。

現存の国宝である三門・御影堂(本堂)などをはじめとする壮大な伽藍(寺院の主要建物の総称)が建設されるのは、江戸時代に入ってからです。
徳川家康は浄土宗徒であったため、1608年(慶長13年)から知恩院の寺地を拡大していき、諸堂の造営をおこなっていきました。
この造営は江戸幕府の2代将軍である徳川秀忠にも引き継がれ、現存の三門は1621年(元和7年)に建設されました。
1633年の火災で、三門・経蔵・勢至堂を残し全焼してしまいましたが、3代将軍の徳川家光により再建が進められ、1641年(寛永18年)までにほぼすべての伽藍が完成しました。

将軍家である徳川家は、知恩院の造営に大変力を入れました。
それは、徳川家康からはじめる徳川家が浄土宗徒であったことや、知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が徳川家の宴席であったこと。
また、二条城とともに知恩院が、京都における徳川家の拠点とするため、京都御所を見下ろし位置にあるため、徳川家の威勢を誇示し公家をはじめとした朝廷を牽制するための政治的な背景もあったと言われています。

知恩院の見どころ

三門(さんもん)

日本3大門の一つに数えられている国宝の門。
1621年に第2代将軍徳川秀忠の命により建立されました。

構造は入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)という構造で、高さ約24メートル・横幅約50メートル・屋根瓦約7万枚という壮大な門。
その構造や規模においては、日本に現存の木造建築として最大級の二重門です。
この門の外に掲げられている「華頂山」の額は、大きさが畳二畳分以上もある大きさなので、一度実物をぜひ見てて下さい。
とても圧巻ですよ。

一般には、寺院の門は「山門」と書きます。
しかし、知恩院の門は「三門」と書きます。
不思議ですよね?これは、「空門」(くうもん))・「無相門」(むそうもん)・「無願門」(むがんもん)という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす三解脱門(さんげだつもん)という意味を持っていると言われているためです。

この三門の上層部(楼上)内部は、仏堂となっています。
そのお堂の中央に宝冠釈迦牟尼仏像(ほうかんしゃかむにぶつぞう)・脇壇には十六羅漢像(じゅうろくらかんぞう)が安置されています。
天井や柱、壁などには上半身が人で下半身が鳥の姿をしており、極楽浄土で妙声をもって法を説くと言われている迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女・飛龍などが極彩色で描かれています。
また、後で詳しくご紹介しますが、”知恩院七不思議”の一つである白木の棺がここにあり、三門の造営の命を受けた時の造営奉行であった五味金右衛門(ごみきんえもん)とその妻の木像が安置されています。

楼上内部は、通常は非公開です。
しかし、特別公開の期間が設けられており、その際には七不思議のひとつである白木の棺や、天井から柱まで全体に施された華麗な極彩色の絵画を実際にその目で見ることが可能となります。

御影堂(みえいどう)

御影堂(みえいどう)

image by PIXTA / 5769102

御影堂は、知恩院の本堂であり国宝に指定されているお堂です。
先ほどご説明した壮大な三門をくぐると、かなり急な石段が目の前にそびえます。
その階段を上った先の台地に南面して建っているのが、御影堂です。

1639年(寛永16年)3代将軍徳川家光によって建立されました。
浄土宗の宗祖法然の像を安置していることから、御影堂(みえいどう)と呼ばれています。
また、知恩院で最大の堂でもあるので大殿(だいでん)とも呼ばれています。
構造は、三門と同じく入母屋造本瓦葺き、間口約44.8メートル・奥行約34.5メートルの壮大な建築物です。
建築様式は、外観は保守的な和様を基調としていますが、内部には唐様の要素を取り入れています。

宗祖法然の木像を安置してお堂。
徳川幕府の造営により近世以降の本格的で大規模な仏教建築の代表例とされており、日本の宗教文化に多大な影響を与えている浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いです。
2002年に三門とともに国宝に指定されました。

御影堂の正面右手上部の軒下には、”知恩院七不思議”の一つと言われている「忘れ傘」があります。
また、外縁と本殿を区切る大扉の落とし金もきめ細かい趣向が凝らされており、防火のためか、河童・亀など水に関係する意匠が多く見られます。
他にも、屋根上にある二枚の葺き残しの瓦など、お堂内部だけでなく、外部にも見どころの多いお堂となっています。

しかし、現在は残念なことに、平成24年から平成30年までは、大修理を行っておりこの御影堂の中に入ることができません。
囲いされているために外壁も見ることができません。

集会堂(しゅうえどう)

集会堂(しゅうえどう)は、御影堂の北側に隣接しているお堂で、重要文化財に指定されています。
昔は「衆会堂」とも呼ばれており、1935年(寛永12年)に建立されました。
千畳敷と言われている広いお堂で、1872年(明治5年)には、京都博覧会の会場ともなりました。
長く僧侶の修行の場とされてきたお堂です。

現在は、御影堂の大修理が行われているため、集会堂には、御影堂のご本尊である法然上人像が安置されています。
仏様を安置している箱である厨子が、常に開いているので、御影堂に安置しているよりも、より近くで法然上人像を拝むことができます。

経蔵(きょうぞう)

経蔵は、御影堂の南東に建っている重要文化財に指定されている建物です。
この建物の建築様式は、唐様と和様を取り入れており、型にはまらない造形美があり、外側は静かな佇まいですが、内部は対照的に鮮やかな色彩で、天井や柱・壁面に江戸時代に有名だったの狩野派の絵画が描かれています。

三門と同じ1621年(元和7年)に建立され、2代将軍徳川秀忠の寄進による『宋版大蔵経六千巻』を安置する輪蔵が備えられています。
輪蔵とは、経典を納めて、中心に柱を通して回転式にしたもの経庫。
この経庫の中には、大蔵経が納められていて、この輪蔵を一回転させると、ここにある大蔵経を全て唱えたことと同じくらいの功徳があるといわれています。

通常は、内部は非公開ですが、特別公開を行うこともあるので興味のある方は、知恩院に問い合わせてみて下さいね。

阿弥陀堂(あみだどう)

御影堂の西側に建つのが阿弥陀堂です。
その昔は、勢至堂の前に建立されていましたが、1710年(宝永7年)に現在の位置に移築され、荒廃が進んだために1910年(明治43年)に再建された比較的新しい建物。

ご本尊は、浄土宗の中心仏である阿弥陀如来座像(あみだにょらいざぞう)。
高さが約2.7メートルある大きな仏像。
堂正面には、室町時代の後奈良天皇の直筆で「大谷寺」という勅額が掲げられています。
現在では、この阿弥陀堂は、出家をする際の得度式や各種道場に用いられているそうです。







方丈(ほうじょう)

知恩院には、2つの方丈があり、大方丈(おおほうじょう)と小方丈(こほうじょう)と言われています。
1641年(寛永18年)に建築され、京都市内随一の名書院とも言われています。

大方丈は、二条城の書院造りと同じ形式で、54畳もある「鶴の間」を中心に、上中下段の間・松の間・梅の間・柳の間・鷺の間・菊の間・竹の間や武者隠しの部屋などがあり、狩野一派の筆による金箔・彩色の襖絵に彩られた豪華な造りとなっています。

小方丈(こほうじょう)は6室あり、大方丈と同様に襖には狩野派の絵が描かれていますが、大方丈とは対照的に淡彩で落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

方丈庭園もあり、春は桜・夏は新緑・秋は紅葉・冬には雪景色といった四季折々の美しい風景を楽しむことができます。

大鐘楼(だいしょうろう)

大鐘楼は重要文化財に指定されており、知恩院の釣鐘は、「京都方広寺」「奈良東大寺」と並ぶ大鐘として有名です。
高さ約3.3メートル・直径約2.8メートル・重さ約70トン。
1636年(寛永13年)に鋳造されました。

この大鐘が鳴らされるのは、年3回のみ。
1月の成人式、4月に行われる法然上人の御忌大会と大晦日の除夜の鐘。
とりわけ除夜の鐘は、大晦日の”ゆく年くる年”に鳴り響く除夜の鐘で有名ですね。

勢至堂 (せいしどう)

勢至堂の地は、知恩院発祥の地でもあります。
法然上人がご終焉を迎えられるまで「専修念仏」の教えを広められた場所です。
堂内正面に掲げられている額には、阿弥陀堂にもあった室町時代の後奈良天皇の直筆で「知恩教院」と書かれており、知恩院の名の起源となっています。

現在の勢至堂は1530年(享禄3年)に再建されたものですが、知恩院の建物の中で、現存する最古の建物となっています。

ご本尊は、御影堂に安置されている法然上人のご尊像でしたが、御影堂は建立されそちらに移されたので、勢至菩薩像(重要文化財)をご本尊としています。
これが勢至堂といわれる由縁となっています。

知恩院の七不思議

京都や奈良など、古い都の寺院には様々な七不思議が残されています。
特に、この知恩院の七不思議はとても有名で、実際に私たちも目で見ることができるものが数多くあります。
以下に詳しくご紹介します。

其の1 鴬張りの廊下(うぐいすばりのろうか)

御影堂からその裏手の小方丈(こほうじょう)にまで続く廊下。
長さが約550メートルもあるこの廊下は、歩くと鶯の「ホーケキョ」と鳴く声に似たような音が床から鳴り響きます。

これは、外部からの侵入者を知るための警報装置としての役割があったとされています。
不思議なことに、音が出ないようにそっーと静かに歩けば歩くほど音は出る仕組みになっています。
同じような廊下は二条城にもありますね。
別名、「忍び返し」とも言われています。

其の2 白木の棺

三門の楼上には、「開けずの棺」と呼ばれる白木の棺が2つ安置されています。
その中には、将軍家より命を受けて三門を建てた大工の棟梁である五味金右衛門(ごみきんえもん)とその妻の木像が納められています。

五味金右衛門は、立派な門を造ることを決心して、自分たちの像を造り、素晴らしい三門を造りました。
しかし、工事の建築予算が超過したため、五味金右衛門夫妻はその責任をとって自刃したと言われています。
そのため、この夫婦の菩提を弔う意味を込めて、白木の棺に夫婦の像を納めて現在の場所に置かれたと伝えられています。
特別公開の際には見ることができます。

其の3 忘れ傘(わすれがさ)

御影堂正面の軒裏をよく見ると、傘の柄を見ることができます。
この傘には、二つ伝説があります。

一つは、江戸初期の名工である左甚五郎が魔除けのために置いたという説。
もう一つは、御影堂の建設をしたことにより、住処を失った白ぎつねが、当時の知恩院の僧侶に新しい住処を作ってもらったお礼として、この傘を置いていき知恩院を守ることを約束したとういう説です。

全く違う伝説ですが、傘は雨が降るときに使用するものなので、水と深い関係があります。
そのため、傘を置くことは火災から守るもの・火除けとして信じられてきました。

其の4 抜け雀(ぬけすずめ)

大方丈の菊の間には、江戸時代前期の有名な画家・狩野信政が描いたと伝えられる襖絵があります。
現在では、菊に似た白い花と川が描かれているだけの襖絵ですが、当初は襖の真ん中に雀が数羽描かれていたと伝えられています。
その雀があまりに見事だったため、雀は生命を授かって、絵から抜け飛び去って行ってしまったと言われています。
それほどまでに狩野信政が素晴らしい絵を描いたのでしょうね。

其の5 三方正面真向の猫(さんぽうしょめんまむこのねこ)

大方丈の廊下の杉戸に描かれているのは、狩野信政が描いたとされる親子の猫の絵です。
この描かれた親猫は、どの方向から眺めても、眺めている人を正面から睨んでいるように見えることから、“三方正面真向”と呼ばれています。

親猫が子猫を大切に愛む姿が見事に表現されており、親が子を思う心を仏様が私たちを常に見守って下さる慈悲の心を表していると言われています。

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