日本随一の美を誇る「桂離宮」の歴史ってどんなもの?

20世紀を代表するドイツの建築家のブルーノ・タウトが、「それは実に涙ぐましいまで美しい」と絶賛したという桂離宮。日本庭園として最高の名園ともいわれる、日本の美を凝縮したような別荘です。美しいと誰もが口を揃えて絶賛する桂離宮の歴史って気になりませんか?今回は、桂離宮の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

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桂離宮の始まり

桂離宮の始まり

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桂川がすぐ隣に流れる西岸に、平安朝の雅な雰囲気に思いを馳せて江戸時代初期に造られたのがこの桂離宮です。
桂離宮を造営したのは宮廷きっての文化人として知られる、八条宮智仁(としひと)と智忠(としただ)でした。
桂離宮の建築が始まって以来400年間一度も火災に遭っていないとか。
現在、京都には17の社寺や城が、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されており、今後追加予定なのが桂離宮と修学院離宮とされています。
そういう面でも桂離宮は、ゆっくり観光し美しさを味わいたいスポットです。

智仁親王は、豊臣秀吉が嫡男に恵まれず猶子に出されましたが、秀吉に実子ができ猶子を解かれました。
この時に秀吉から3000石を受け取り、それを元手に八条宮家を興しました。
桂離宮は、「古書院」「中書院」「新御殿」に分かれており、元和元年(1615年)ごろに造られた「瓜畠のかろき茶屋」といわれる建物が古書院の始まりでした。
寛永元年(1624年)に庭と共に完成しています。
桂川から水を引き細流れや大池を造りました。
次いで、築山を築いています。
人口の自然景観の中に御殿や茶屋を配置しており、自然と建物の調和した美しさにはうっとりさせられます。
智仁親王は、風流を大変好んだ人物で、平安貴族が桂で舟遊びや宴をしていた様子を思い浮かべながら建てたといわれています。
寛永6年(1629年)4月6日に智仁親王は、崩御しています。
後継ぎの智忠親王はたったの9歳だったので、この離宮はあっという間に荒れ放題になりました。

智忠親王の結婚によりますます美しくなる桂離宮

智忠親王の結婚によりますます美しくなる桂離宮

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寛永18年(1641年)ごろから智忠親王により、父智仁親王が建てた古書院の一部を改築し中書院を増築しました。
彼は、結構イケメンで才能に長けた人物でした。
運が良かったのか、寛永19年(1642年)の24歳の時に、加賀二百万石の藩主前田利常の娘と結婚しました。
彼女の母は、徳川秀忠の娘珠子で、後水尾上皇皇妃和子の姪でもありました。
なので、嫁入り道具も豪華で、経済面だけでなく政治においても後ろ盾を得て、宮廷の中でもかなり裕福な存在となっています。

実は、中書院はこの結婚に際し、御殿の増築が行われたものです。
障壁画を著名な画家の狩野探幽、尚信、安信の3兄弟が担当しています。
庭においてもこの時大改築を行いました。
将軍家と前田家から財政援助があるんだから、別邸作りでも金銭面に困ることはありませんでした。
慶安2年(1649年)に庭園内に5つの茶屋も設置したのです。
この時、鳳林承章らを招いて宴会を催しています。
鳳林承章は『隔蓂記』に舟遊びの様子を書き記しています。
桂離宮はどこまで豪華になっていくんでしょうね。
2回目には5つの茶屋を全て壊し、松琴亭・月波楼・賞花亭・園林堂を設営したようです。
寛文2年(1662年)智忠親王が亡くなります。
享年44歳でした。

どこまでも雅に造営される桂離宮

どこまでも雅に造営される桂離宮

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承応3年(1654年)に、後水尾上皇皇子幸宮が、智忠親王の養嗣子となっていました。
その関係もあり、寛文3年(1663年)に後水尾(ごみずのお)上皇の桂御幸に際し、楽器の間や新御殿、雁行を増築し、庭園も整備され改修しています。
古書院、中書院、楽器の間、新御殿と雁行する書院群は、この時に造られたもので、裏側にある旧市役所は中書院造営時に造られたままだそうです。

現在の桂離宮の建造物は、池の周囲に書院群があり、その周囲に茶屋が点在しています。
古書院や中書院、新御殿は、入母屋造りで柿葺き(こけらぶき)の屋根で、書院造りを基礎としています。
しかし、数奇造りの箇所も見られ、建物自体も堂々とした雅な美しさを誇っています。

八条宮家断絶と桂離宮

八条宮家断絶と桂離宮

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6代文仁親王、7代家仁親王、8代公仁親王によって別荘として使われていた桂離宮ですが、その後はほとんど使われることがありませんでした。
公卿や武家に見物としてよく使われており、この時既に名園として有名でした。
現在見られる桂離宮は、7代の家仁親王時代に手直しされ、現在まで大切に維持管理されてきたものです。
また、この庭園内を散策すると、江戸時代初期において公家たちが遊んでいた様子を垣間見ることもできます。

八条宮家は嗣子に恵まれていません。
そのため、宮号も常磐井宮(ときわいのみや)、京極宮(きょうごくのみや)と変わっており、文化年期に桂宮に改称しました。
明治14年(1881年)に淑子(すみこ)内親王を最後に途絶えてしまいました。
なんだか栄枯盛衰を見るようでもの悲しさを感じます。

本邸の今出川屋敷は二条城本丸に移築されました。
桂離宮は桂宮家の別荘として造営されたもので、このまま廃墟になることに危惧した京都府知事が、皇室の資産とするよう内申しました。
これが認められたことにより、明治16年(1883年)には、桂別業が「桂離宮」と改名され宮内庁の管轄下となりました。







修理の工事で明らかになり始めた桂離宮の歴史

修理の工事で明らかになり始めた桂離宮の歴史

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いつからこの地が八条宮家のものになったかなど未だ謎が多い桂離宮ですが、昭和51~57年にかけて行われた修理工事では、造営の歴史背景が克明になっています。
最初に建てられたのは古書院です。
高貴な女性の建物に使われていたものを利用した違い棚を持つ中書院が次に建てられました。
更に楽器の間が増築され、新御殿は別の建物を壊した古材を使っていることもこの時に発見されています。

桂離宮の中心的建物の、古書院、中書院、楽器の間、新御殿は、少しずつ後退しながら連続しています。
ずらしながら接続した形態を雁が飛ぶ隊形に似ているということで雁行型と呼んでいるそうです。
この4つの建物を総称して書院群と呼んでいます。
この工法を使って建物が建てられたのには理由があります。
建物と建物をただ連ねただけだと自慢の庭が見える部屋が少なくなるからだとか。
せっかく別荘に来たなら美しい庭園に癒やされたいですよね。

日本随一の名庭園

日本随一の名庭園

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庭園は、約7万平方メートルの回遊式庭園になっており、どの書院からも庭を楽しめるよう工夫がされています。
池の造りは海や川を真似て作っているのが特徴で、水辺は独特のカーブをつけたり、直線の美しさを見せたり、庭石も切り出して変化をつけたり、自然のままの石の美しさを楽しんだりできるよう意識して造られています。
建物からだけではなく、庭を散策する人が十分に楽しめる工夫がされているのも魅力なんですよ。

中央にある庭には大小3つの中島がある池があり、池で舟遊びもできるように造りました。
茶屋には船着き場が設けられています。
なんだか、桂離宮に訪れて、平安時代の貴族の気分で舟遊びしてみたいものですね。
また、京都に残っていた天皇家の離宮の多くは神社やお寺などに建て替えられ、かつての優雅な姿からは程遠いものとなっています。
そういう意味でも、桂離宮や修学院離宮などは、皇家ゆかりの別荘の様子を偲べるものとして貴重な存在といえるのではないでしょうか。

江戸初期の皇家の別荘に訪れて、風雅な魅力に溢れた桂離宮を散策してみませんか?

桂離宮に訪れるなら、秋の紅葉時期は一段と華やかです。
訪れる人のほとんどが、手入れが行き届いた庭園を見て「ここは格別」と称賛しています。
砂利道や飛び石を苔などの植物に配慮しながらの散策も楽しいものです。
自然と建物が美しく融合した宮廷の名園に陶酔してみてはいかがでしょう。
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