京都の中では若い神社の一つの平安神宮には、こんな歴史が残されていた!

京都では、平安神宮を中心に「京都五社巡り」という観光があり、北の上加茂神社、東の八坂神社、西の松尾大社、南の城南宮の5社が対象です。御朱印を持ってまわる人も多く人気となっています。明治時代に創建された、京都の新しい神社として有名な平安神宮にはどんな歴史があるか気になりませんか?今回は、平安神宮の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

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平安神宮の始まり

平安神宮の始まり

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平安神宮ってあまりにも有名で、京都にある17の世界遺産の一つと思われる方も多いと思います。
でも、残念なことに平安神宮は入っていません。
なぜなら、創建の歴史が浅いんです。
でも、入口にある大鳥居や広大な敷地に聳える巨大な漆塗りの社殿、景勝地に選ばれるほど美しい日本庭園があることでも有名なスポットとなっています。

この平安神宮が建てられたのは、明治28年(1895年)とごく最近のこと。
明治28年4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された第4回内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部を復元しようと計画されたのです。
ここには、平安京遷都のおり天皇だった「遷都のおや神様」で第50代桓武天皇を祭神として創建しています。

平安神宮が建てられた理由

平安神宮が建てられた理由

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実は、平安神宮を建てたのは京都の人々でした。
幕末の戦乱で市街地は荒廃してしまったのです。
その衰退ぶりは目を覆うほどで、明治維新によって首都が東京へ移されたことも、京都の人々にとっては心を打ちひしがれるほど辛いことでした。
しかし、京都の人々はこんな状況下でも京都を救うために何かができると立ち上がりました。
京都復興への市民の情熱が、この美しい平安神宮を造り上げたのです。

京都は平安神宮だけでなく、復興事業には、教育や文化、産業、生活など全てにおいて新しい京都が造りだされました。
しかし、古き良き時代を思い起こさせるものを維持したいという人々の心が活かされ、昔の京都を模したものが造られています。
しかも、京都の人々の思いが全国の人々へと繋がり、京都を始まり全国民の思いが詰まったのが平安神宮です。
心が温かくなるような、創建の事実ですね。

平安神宮への人々の思い

平安神宮への人々の思い

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千年以上も栄え続けた京都の雅な姿を後世に伝えるためにはどうしたらよいのかを人々は考えました。
桓武天皇の神社を建てることを念頭に人々の間で運動が起こったのです。
ここから京都の人々が立ち直るためには、日本古来の宗教である神社の存在が一番との思いが強かったのではないでしょうか。
創建には、四海平安への祈りが込められたようです。

実は、平安遷都1100年の万博会は、東京に都が移されたことによる京都の人たちの危機感を知事が感じ取り、活気づかせるために行われたものでした。
1074年も政治と経済の中心都市だった京都では、人口も減り深刻な状態でした。
人口は減っても、復興への思いは強かったようです。

創建される平安神宮

創建される平安神宮

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京都の人々の思いはこれまで以上に熱くなりました。
絶対に自分たちの力で復興してやるという思いで一杯だったのです。
建設費用も政府のお金は使わず建てられました。
その人々の声が広まり、京都の人々を中心に全国民から寄付が集まりました。
平安京の朝堂院などの建物は、8分の5ほどの規模で再現されています。
本当は、大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されていたのですが、残念ですが用地買収がうまくいきませんでした。
でも、京都の人はめげません。
場所は違っても復興の意味があると飛躍したのです。

現在は、中心地となっていますが、当時は郊外だった岡崎に復元されました。
この時は現在の社殿のうち、大極殿(だいごくでん)、応天門(おうてんもん)、蒼龍楼(そうりゅうろう)、白虎楼(びゃっころう)、歩廊、龍尾壇(りゅうびだん)が造営されています。
博覧会開催の前の3月15日には、東京の皇居皇霊殿から桓武天皇の分霊の鏡を安置するための、鎮座祭が行われました。
これでめでたく平安神宮が完成したのです。
しかも社号も「平安神宮」と決まりました。
実は当初は平安神社との名前が付けられる予定だったようです。
古代から皇室と深い繋がりを持つ神社や天皇を祭神とする神社という意味を持つ神宮という名が付けられるなんて嬉しい限りですね。







平安神宮の増改築

平安神宮の増改築

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昭和15年(1940年)には、皇紀2600年の行事が行われました。
この時、平安京で過ごした最後の天皇「第121代孝明天皇」が平安神宮の祭神に加えられることになったのです。
この孝明天皇ご鎮座されたおり、本殿、祝詞殿、内拝殿、翼舎、神楽殿、額殿、内外歩廊斎館、社務所が増改築されています。
先に造られていた社殿も大修理が成されました。
この時から平安神宮では、平安京の創始者の桓武天皇と平安京最後の孝明天皇の二本柱を祀ることになりました。

平安神宮の放火による消失

平安神宮の放火による消失

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残念なことに昭和51年(1976年)1月6日に、放火による火災が発生したのです。
午前3時35分という未明のことでした。
本殿はもちろん内拝殿など9棟が炎上し焼失しました。
外拝殿の大極殿は被害に遭わずに済みました。
これは、新左翼活動家の加藤三郎による放火で、放火テロ事件とされています。
「民百姓に塗炭の苦しみを与えるような平安京を造営し、蝦夷も侵略した」、「桓武天皇を祀ることは神への冒涜」とのことによる犯行でした。

自動火災報知機を付ける義務がまだなかったころで、夜中に起こった放火だったため発見が遅く大部分が焼けてしまったのです。
しかし、創建が新しかった平安神宮は、このころまだ文化財指定を受けていませんでした。
残念なことに文化財指定を受けていないということは、いくら神宮という名前で格が高くても国からの補助金をもらうことはできませんでした。
でも、国民の思いは強かったのです。
全国から募金が集まり、3年後に本殿や内拝殿が再建されました。
創建も再建も寄付で建てられるという心温まる平安神宮ってなんだか愛着が湧いてきませんか?そんな、国民の善意で造られた平安神宮を放火するなんて犯人が許せないと思いませんか?

明治の名造園家が20年もかけて造った庭園

明治の名造園家が20年もかけて造った庭園

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平安神宮神苑は、明治を代表する日本庭園とされています。
社殿を取り囲むように池泉回遊式となっており、東西南北4つの庭から造られています。
総面積は1万坪もあり、明治を代表する造園家の小川治兵衛らが20年以上かけて造りました。
この造園に際しては、平安京千年の造園技法の粋を終結させたもの。
この名園は、昭和50年12月には国の名勝に指定されたのです。

四季を通じて美しい花々が咲き誇る名園は、風光明媚な趣と神々しい風景を織りなしており、訪れる人々の心をほっと和ませてくれます。
中でも注目すべき観光スポットは、蒼龍池にある臥龍橋です。
ここに使われている石柱たちは、ナント豊臣秀吉が造ったもので、三条・五条大橋の橋脚に使われていたものだとか。
この臥龍橋には、「龍の背にのって池に映る空の雲間を舞うかのような気分を味わっていただく」との、作庭者小川治兵衛の意図が織り込まれています。
池に咲き誇る蓮の花と石柱を配した景観は言葉を失うほど壮麗です。
ぜひ、訪れてみてくださいね。

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