東大寺の大仏を生んだ天平文化の都、平城京の歴史

百人一首に「あをによし寧楽(なら)の都は咲く花の……」という小野朝臣の歌がありますね。「寧楽」は今では「奈良」と書きますが、京都より古い日本の古都奈良には、東大寺があり春日大社があり興福寺があり、その周囲の公園には「野生の」鹿が住んでいるのですよ。「ナラ」とは古代の朝鮮の言葉で「新しい村」。京都とは違って今はもうその大部分が地中に埋もれていますが、唐の都にならって平城京という壮大な都が造営されたのですね。平城京の時代を天平文化の時代とも呼びますが、いったいこの都にどんな歴史があり、どんな文化が花を咲かせたのでしようか。

【京都常連が徹底ガイドのおすすめ記事】
京都観光の理想的な日帰りプラン5つ
殿堂入り!京都お土産ランキング BEST30

壬申の乱を経て藤原宮が誕生しました

壬申の乱を経て藤原宮が誕生しました

image by PIXTA / 21612864

日本の古代史はロマンに満ちあふれています。
卑弥呼が近畿にいたのか九州にいたのかをめぐって古くから論争されてきましたが、最近話題になっているのは、聖徳太子はいなかったという新説です。
また、大化の改新をした中大兄皇子は天智天皇になりますが、その後継者をめぐって弟の大海人皇子と息子の大友皇子とが争って、大海人皇子が天武天皇になりましたね。
これを壬申の乱といいますが、弟である天武天皇のほうが天智天皇より年齢が上だった、などという説までがあるのですよ。
そのことで説明のつく事実がいくつかあるのも確かですから、古代史のロマンは尽きることがありませんね。

天智天皇の近江京から飛鳥に宮廷が戻りました

中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼして天皇家に政治の実権を取り戻した一連の事件を大化の改新というのはご存じですね。
「大化の改新は645年」と日本史の授業で暗記しましたが、その後中大兄皇子はなかなか天皇にはならず、ようやく667年に近江大津宮に遷都してその翌年に天智天皇として即位しました。
それまでは奈良盆地の南の飛鳥地方に天皇の宮がいくつかあったのですが、天智天皇は一気に大津に都を移して畿内の豪族の影響力を排除しようとしたのですよ。

天智天皇は唐の律令体制にならって日本もそのような国家にしようとしたのですが、その志を十分に果たせないまま、672年に崩御。
天智天皇の息子である大友皇子が即位することになっていて、それ以前に皇太子になったこともある弟の大海人皇子は吉野にこもっていました。
そしてこの2人の皇子のあいだで戦いが起こりましたね。
これが壬申の乱。
大海人皇子がこの戦いに勝利して、673年に即位。
これが天武天皇ですね。
これによって都もまた飛鳥に戻ったのでした。

天武天皇の飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都

天武天皇の都は奈良盆地の南から少し山に入った飛鳥浄御原宮でした。
天武天皇も天智天皇と同じように律令体制を確立することを目指したのですね。
また、天武天皇は天智天皇の娘たちとも結婚したのですが、この時代は現在のような一夫一婦制ではなく、何人もの「妻」をもつことが許されていたのですよ。
ただし、その「妻」の身分が大切で、天皇家か藤原氏の娘でないかぎりその「妻」の生んだ子どもは天皇になれなかったわけです。
天武天皇には、草壁皇子・大津皇子・舎人(とねり)皇子・新田部皇子・高市(たけち)皇子・忍壁(おさかべ)皇子という息子がいましたが、草壁皇子と大津皇子の母親はそれぞれ天智天皇の娘で、大津皇子はとくに祖父である天智天皇に可愛がられたということでした。

草壁皇子に天皇の位を継がせるために、大津皇子は謀反の疑いをかけられて686年に死亡。
しかし、その草壁皇子も689年に死んでしまったのですね。
草壁皇子には、天智天皇の娘とのあいだにできた軽皇子(かるのみこ)がいたのですね。
686年に天武天皇が崩御したときその皇后が持統天皇として即位していたのですが、持統天皇は孫に皇位を譲れる日が来るまで女性天皇でいる必要がありました。
持統天皇は天智天皇の娘でもありましたから政治手腕はあったようで、694年に都を藤原京に遷都。
これが日本で最初の本格的な宮廷都市なのですね。

藤原京で白鳳文化の花が咲きました

藤原京で白鳳文化の花が咲きました

image by PIXTA / 26249612

それまで天皇が代わるたびに宮を移してきたのは、「宮」というのがその天皇の屋敷のようなものだったからです。
藤原京はその「宮」を中心にして、東西南北に碁盤の目のように道路が走る大きな都市。
710年に平城京に遷都しますからほんのわずかな期間でしたが、この時代を白鳳文化の時代と呼ばれています。
日本が律令制国家としての基礎を固めた重要な時代なのですね。






天武天皇の孫の軽皇子が文武天皇になりました

天武天皇の孫である軽皇子の成長を見守るため、その母親が持統天皇になりましたが、天皇の名前というのは諡(おくりな)といって、死後に送られるものなのですよ。
ですから、天智天皇も天武天皇も持統天皇も、生きているあいだはそういう天皇名で呼ばれていたのではありません。
死後に贈られる名前ですから、「持統」という名前には、天武天皇の直系を守ったという意味が含まれていたと考えられますね。

持統天皇自身も天智天皇の娘ですし、天武天皇と持統天皇とのあいだにできた草壁皇子は多数いる天皇の息子たちのうちでも「正統」な皇子。
その草壁皇子と天智天皇の娘とのあいだにできた軽皇子もまた「正統」な皇子。
持統天皇の歌として伝えられ、百人一首にも入っている「夏になった天香久山(あまのかぐやま)に衣が干されている」という意味の有名な歌。
この山と耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)を合わせて大和三山といいますが、藤原京はちょうどこの場所にあったのですね。
そして697年、持統天皇は退位して、孫の軽皇子が無事に文武天皇として即位。
藤原京はそのために造営したものと言っていいでしょうね。

文武天皇によって大宝律令が施行されました

文武天皇になって5年目の701年、年号も「大宝」に改元されて30年ぶりに遣唐使を派遣したのですよ。
そして、律令国家の基礎である大宝令を施行。
翌年には律を加えた大宝律令を全国に広め、これによって大和を中心として九州から東北あたりまでを領土とする統一国家ができたことになりますね。
その一方でそれを見届けた持統天皇が死に、火葬にされたのでした。
これ以後遺体は火葬にすることが一般的になったのですが、持統天皇の遺灰は天武天皇陵に合祀されました。

704年に遣唐使が帰国。
朝廷の官僚組織も少し手直しされましたが、例えば大納言の数を減らしてあらたに中納言を設置したり、官吏の任期を6年から4年にしたり、租庸調という税制のうち庸を半分にしたりしました。
天皇を頂点とする律令国家がこうして着実に完成に向かっていたわけです。
ところが、707年に文武天皇が崩御。
藤原不比等の娘である宮子とのあいだに首皇子(おびとのみこ)という息子がいたのですが、天皇を継ぐにはまだ幼すぎたのですね。
そこでまた女性天皇ということになり、文武天皇の母親が元明天皇として即位。
持統天皇と同じように天智天皇が父親で、この二人はいわゆる腹違いの姉妹ということになります。

藤原京から平城京に遷都しました

藤原京から平城京に遷都しました

image by PIXTA / 17054877

30年ぶりの遣唐使が帰国して、唐の都の長安のことなどが報告され、都市計画をして造営された藤原京が長安とは違っていることが確認されたのですね。
藤原京は天皇のいる藤原宮が都市の中央にありますが、長安では皇帝のいる宮城が都市の北にあり、そこから四角い都市の南にある明徳門に向かって、南北に朱雀大街が走っています。
藤原京は大和三山に囲まれたところに藤原宮があるため、このような都市計画をするのは最初から無理でした。
そこで、奈良盆地の北に平城京が造営され、遷都することになったのですよ。
次のページでは『和同開珎が鋳造され新都造営の詔(みことのり)が出されました』を掲載!
次のページを読む >>