「千年の都」平安京に隠された華やかな光と深い闇の歴史

「ウグイス鳴くよ(794)平安京」――日本史の勉強をしていたときにこれで平安京遷都の年号を覚えました。ヨーロッパではフランク王国の王シャルル・マーニュがローマ教皇から西ローマ皇帝の帝冠を授けられたのが、ちょうど西暦800年。この頃に大きな歴史の節目があったのですね。京都は「千年の都」と呼ばれていますが、大政奉還のあと1869年に明治天皇が皇居を京都から東京に移すまで日本の首都だったと考えると、1000年をかるく越えてしまいますね。その長い歴史のすべてをここで語ることなどできませんが、平城京から長岡京を経て平安京に遷都された経緯など、平安京の光と闇の歴史をたどってみることにしましょう。

【京都常連が徹底ガイドのおすすめ記事】
京都観光の理想的な日帰りプラン5つ
殿堂入り!京都お土産ランキング BEST30

光仁天皇が譲位して桓武天皇が誕生しました

光仁天皇が譲位して桓武天皇が誕生しました

image by PIXTA / 29594350

天武天皇の曽孫である聖武天皇の時代に平城京と天平文化はピークを迎えましたが、その直系の皇子がいなくなってしまいましたね。
娘の孝謙天皇がとりあえず皇位を継ぎましたが、天武天皇の別系統の孫である淳仁天皇に皇位を譲ったあと、重祚して称徳天皇になりました。
天皇になるためには、母親が皇族か藤原氏ということになると、称徳天皇のあとは誰も天皇になれませんね。
弓削道鏡を天皇にしようとした称徳天皇も770年に死んでしまい、皇統は天智天皇の孫に戻ったのですよ。

天智天皇の孫の白壁王が光仁天皇になりました

称徳天皇が死んだあと、天智天皇の孫である白壁王が立太子。
天智天皇の孫とはいっても、皇位を継承する可能性などなかったので、あらぬ疑いをかけられて殺されるよりも生きのびていくために酒に溺れたふりをしていたということですね。
ただ、聖武天皇の娘である井上内親王と結婚していたために、にわかに脚光を浴びて宮廷内での官位昇進のスピードが加速。
称徳天皇が死んだ時点では、左大臣の藤原永手と右大臣の吉備真備に次ぐ大納言だったのですね。

この時点で、天武天皇の孫が2人いることはいたのですが、2人とも高齢者。
それに、藤原氏の式家の百川が称徳天皇の遺言なるものを出してきて読み上げたということです。
もちろんこの遺言は偽物だったようですが、洋の東西を問わず偽の文書がその場の状況によって本物として通用してしまうことがあるのですね。
白壁王の立太子には四家に分かれていた藤原氏内部の抗争も微妙にからんでいたようで、左大臣の藤原永手は北家。
式家の百川の娘旅子は白壁王の息子である山部親王と結婚していますが、これはのちに桓武天皇になっています。
このときに皇太子になった白壁王は770年に即位して光仁天皇になったのですよ。

井上皇后が廃されて山部親王が立太子しました

井上皇后が廃されて山部親王が立太子しました

image by PIXTA / 29598489

称徳天皇の死後少し時間がかかってしまいましたが、天智天皇の孫である光仁天皇が即位して皇位継承問題は一段落。
しかし、次はどうするかがまた問題ですね。
光仁天皇は聖武天皇の娘である井上内親王と結婚していましたが、この井上内親王が皇后になったのですね。
そのあいだに皇子が生まれていれば間違いなくその皇子が次の天皇。
天智天皇にも天武天皇にもつながる皇子ですから、血統としては最高ですね。
ただ、井上内親王は伊勢神宮の斎宮をしていたために結婚が遅かったのか、光仁天皇とのあいだに酒人内親王を生んだときにはもう38歳。
皇子の誕生は望めませんね。

光仁天皇には、百済の渡来人出身の夫人がいて、その夫人からは2人の皇子が生まれています。
井上皇后はどうしてもこちらの皇子に天皇を継がせることを阻止したかったのでしょう。
光仁天皇と他の女性のあいだに生まれた他戸(おさべ)親王を自分の養子にして、これを皇太子にしたのですね。
しかし、772年、井上皇后が光仁天皇を呪詛したという罪で皇后の地位を追われたのでした。
そうすると他戸皇太子も連座して廃太子。
光仁天皇と高野新笠とのあいだに生まれた長男山部親王がその翌年に立太子。
こうして天武天皇の血統はすべて排除されたことになります。

立太子した山部親王が即位して桓武天皇になりました

773年に立太子した山部親王はこのときすでに37歳。
父親は光仁天皇ですが、母親は皇族でも藤原氏でもなかったので、天皇になれるはずはなかったのですが、いろいろ歴史を探ってみると、そういう人物こそがまた偉大な業績を歴史に残していますね。
歴代天皇のなかでも桓武天皇は平安京を造営したことで有名ですね。
そのほかにもいろいろありますが、それはあとで述べることにします。
781年に光仁天皇が譲位して山部親王は桓武天皇になりました。
光仁天皇自身は譲位したあと1年もしないうちに亡くなっています。

桓武天皇が誕生した背景には式家の藤原百川の存在がありましたが、残念ながら百川自身は桓武天皇の即位よりも前の779年に死んでいます。
百川の娘旅子と桓武天皇とのあいだには大伴親王が生まれていますが、これはのちの淳和天皇。
百川はまた異母兄の良継とうまく連携していましたが、桓武天皇は良継の娘である乙牟漏(おとむろ)とのあいだに安殿親王と神野親王を生んでいます。
安殿親王はのちの平城天皇、神野親王はのちの嵯峨天皇。
この時点では藤原氏のなかでは式家がトップだったようですね。







長岡京の造営中にいろいろな事件がありました

長岡京の造営中にいろいろな事件がありました

image by PIXTA / 25461489

近江に都を移した天智天皇から天武天皇になって都は近江から飛鳥に戻り、唐の西安にならって飛鳥地方の北に平城京が造営されましたね。
平城京はまさに天武天皇の皇統のための都。
光仁天皇自身は天智天皇の皇統とはいえ、井上皇后は天武天皇の皇統だったので、その影響力は簡単には排除できませんでした。
桓武天皇になって、いよいよ本気で平城京から新しいに遷都する必要が出てきまたのですね。
そこで選ばれたのが長岡京。

桓武天皇は長岡京の造営を命じました

桓武天皇が即位したときにはまだ新しい都は影も形もありませんから、即位の儀式は平城宮の大極殿で行われました。
皇太子は同母弟の早良(さわら)親王。
これで天皇は、天武天皇の系統から天智天皇の系統に戻ったのですが、天武天皇の血をひく者が完全にいなくなったわけではなく、天武天皇の息子の新田部親王には氷上川継という孫がいたのですよ。
すでに「親王」でも「王」でもなかったのですが、母親は聖武天皇の娘の不破内親王。
782年に氷上川継の謀反事件が起こり、『万葉集』で有名な大伴家持もその一味にされてしまったのですね。
誰も死罪にならなかったことを考えると、これはどうやらいわゆるえん罪事件でしょうね。

桓武天皇はこうして邪魔になりそうな者を排除して、みずからの政権の基盤を確固としたものにしたのですね。
次の仕事は、なにかと旧勢力の力が残っている平城京を捨てて新しい都を造営すること。
光仁天皇の喪が明けたのをきっかけに年号も延暦と改元。
782年には百川のおいの藤原種継たちを山背(やましろ)国に派遣して新しい都の造営にあたらせたのでした。
これが長岡京で、淀川の支流の桂川の岸にあるため海に出やすくなったのですよ。
783年に乙牟漏が皇后になり、784年に桓武天皇は平城京を捨てて長岡京に遷都。
桓武天皇の新しい政治のスタートでした。

藤原種継の暗殺事件が起こって早良親王は島流しになりました

藤原種継の暗殺事件が起こって早良親王は島流しになりました

image by PIXTA / 28934001

長岡京に遷都したといってもまだ完成したわけではありませんから、工事は続いていたのですよ。
そんななか、桓武天皇がしばらく長岡京を留守にしたとき、長岡京の工事の指揮をとっていた藤原種継が何者かに矢を射られて死んでしまったのですね。
桓武天皇は急いで長岡京に帰還。
不測の事態の収拾を急いだのでした。
松明の明かりがあるとはいえ暗い夜に矢を人に命中させることができるのは、よほどの弓矢の名人ですね。
こういう事件が起こると、捕らえられるのはその実行犯ではなくその裏にいる人たち。

桓武天皇が即位したとき歳の離れた弟の早良親王が皇太子になっていましたね。
ところがその後桓武天皇の皇后が安殿親王を生んでいたのですから、こちらに天皇を継がせるとしたら邪魔になるのは皇太子の早良親王。
大伴家持はすでに死んでいたのですが、早良親王をそそのかしたとされ、大伴氏の一族の者の多数が死刑にされてしまったのですよ。
早良親王は淡路島に流罪になったのですが、断食をして淡路島に行く途中で死亡。
なんとも後味の悪い事件でしたね。

次のページでは『早良親王の祟りによって平安京への遷都事業がスタートしました』を掲載!
次のページを読む >>