伏見はかつて日本の首都だった?!秀吉が隠居所として建てた壮大な近世城郭「伏見城」の歴史

山城の伏見城は、悲しい歴史を背負った城なんです。太閤となった秀吉が隠居をするための城として建てました。その後、関ケ原で石田三成によって責められ、家康軍が自刃し焼失したという城です。豊臣秀吉の死後、徳川家康が入城した伏見城の歴史ってどんなものか気になりませんか?今回は、秀吉が建てた伏見城の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

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伏見城築城のために作られた港

伏見城築城のために作られた港

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伏見は、京都、大阪、奈良、近江の中継点にあり交通の要所とされた地です。
かつて、伏見には京都で一番大きかったといわれる巨椋池(おぐらいけ)がありました。
まず、文禄3年(1594)に、城を築くための建築資材を運搬するため伏見港を開いたのです。
宇治川の城の南まで北上させるため、太閤堤や槙島堤と呼ばれる堤防を築きました。
これで、伏見城下を港町とし、伏見と大阪間に水運を開きました。

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これは、日本最大の内陸河川港へとなります。
昔から、城が建つと城下ができこの街は発展するといったことは当たり前ですが、日本最大とはやっぱり秀吉の力は強大なことが見えてきます。
しかし、川は後に起こってしまう大坂夏の陣・冬の陣において、武器や食料を運ぶために使われました。
しかも、昭和40年ごろまで使われています。

風光明媚な伏見に建てられた秀吉の隠居所

風光明媚な伏見に建てられた秀吉の隠居所

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京都盆地の南端にある伏見は、巨椋池を望む山紫水明な指月山に建てられました。
平安時代には風光明媚な地として、皇族や貴族の別荘が建てられていたようです。
家督を譲るはずだった豊臣秀次の聚楽第は、人工的な美しさがありますが、自然の美しさを求めたのでしょうか?今になっては、秀吉の気持ちは分かりませんが…。

伏見城は3回に亘って造られました。
最初に築城がはじまったのは、文禄元年(1592)のこと。
指月伏見城と呼ばれており、当初は隠居所という意味合いしかない茶会をたしなむなどの場所でした。
しかし、運命のいたずらって時に非道なものとなるんです。
文禄2年(1593)秀吉が57歳の時に、後の豊臣秀頼の誕生などにより、次第に秀吉が政治に関わるようになります。

秀吉、指月伏見城への入城と城下町の形成

秀吉、指月伏見城への入城と城下町の形成

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文禄3年(1594)に、秀吉は、指月伏見城へ入城しました。
しかし、先ほどお話ししたように、秀吉を取り巻く環境が変わってきています。
隠居所として造られた伏見城でしたが、ここを城郭へと改築したのです。
わずか5ヶ月という驚くべき速さで完成しました。
延べ25万人の人が携わったようです。
城郭としての機能が高くなり、私的な場所が他に必要になりました。
向島と呼ばれる地に向島城が造られています。

文禄3年(1594)から、城下町が急ピッチで進められました。
道路などの整備が行われ、武家屋敷や寺社などが建ち、町家などの区画整理もされました。
この時、町を囲むように外堀が造られました。
『豊公伏見城ノ図』に、関ケ原の西軍の一人だった石田三成の屋敷をはじめ大名屋敷が作られ、商工業者も集められ大きな町になったのです。







伏見大地震による城の倒壊

伏見大地震による城の倒壊

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実はこのころの京都周辺は、度々地震が起こっていました。
文禄5年(1596)に直下型地震の伏見大地震が起こったのです。
やっと、完成した城が、わずか2年で倒壊してしまいます。
この、伏見大地震の後、元号が文禄から慶長と改元されました。
慶長元年(1596)には、秀頼が元服しています。

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この大地震で倒壊した、指月伏見城の絵図は残っていません。
現在この城跡には、マンション建設などが行われています。
開発の途中で、石垣や堀、金箔が施された瓦などが出土しており、このお城が豪華だったことがだんだんわかってきました。
「秀吉の幻の城」と呼ばれた、指月伏見城が発掘により、甦った姿を見たい物ですね。

倒壊した指月伏見城の再建

倒壊した指月伏見城の再建

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秀吉は伏見大地震で倒壊した城を、指月から北東約1キロメートルにある、木幡山に伏見城を再建しています。
昼夜を問わず建設が行われ、翌慶長2年(1597年)に完成しました。
築かれた天守は独立式望楼型5重5階と推定されています。
明確なことは分かっていませんが、ここには、文禄4年(1595)に破却した、聚楽第なども移設されたようです。
しかし、残念なことに、この木幡山伏見城で慶長3年(1598)に秀吉が亡くなりました。

秀吉の遺言により、秀頼は伏見城から大阪城に城を移り、この木幡山伏見城には五大老筆頭だった徳川家康が入城しました。

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