【地下水がポイント?】観光前に知りたい、京都「錦市場」の歴史

都市のストレスを嫌い、山奥での絵画隠遁生活へ

都市のストレスを嫌い、山奥での絵画隠遁生活へ

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「藤景我が画の記」(とうけいわがえのき、「景和」は若冲の字(あざな))で大典は若冲の無欲を賞賛し、「都や田舎で金持ちになり、奢った暮らしをしている人々のことのようになりたいとは一度も望むことはなかった」といいます。
当時そういった成功者が多かったことも表わし、そのほとんどは庶民の生活物資の流通を扱う商人。
若冲の生家はそれらの勢力に近かったですが、利益と損失の可能性が双方とも増大するような商業の発展は若冲をはじめ都市の商人や生活者たちにかなりのストレスを与えたことでしょう。
発展している街中って人が多くてうるさいですもんね。
丹波の山の中だと静かで、絵を描くような人には良い場所でしょうか。
とにかく、若冲の若い頃からの隠遁(いんとん)の志は、そんな心労からの逃避だったかもしれません。

父の死後、若冲は青物問屋の主人として17年を生き、宝暦5年(1755年)、40歳で家業を次弟に譲り、本格的に「自然」を描く絵画に専念するようになります。
40歳から自分のやりたいことを始めるのって、今の人にも希望が持てる話なのではないでしょうか。
私も「山奥に隠遁して好きなことをひたすらやりたい」という思いはあります。

若冲の画法と代表作はどんなもの?

若冲はどのようにオリジナルの画法にたどり着いた?

若冲はどのようにオリジナルの画法にたどり着いた?

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若冲は「絵画に没頭し、30年が1日のように過ぎていった」(藤景和が画の記)と1760年ごろに書かれているので、彼が絵を描き始めたのは10代半ば頃ということになります。
その修行の過程を大典は次のように述べています。

「若冲は狩野派の技をなす者に絵を習い、その技法に通じてしまい、ある時考えた。
『これは狩野派の技法で自分はこれをやっていても狩野派の技法を超えはしない。
これを捨てて宋・元の絵画を学ぼう』と宋・元の技法を学んだ。
真似して描いたものは1000点におよび、また考えた。
『模写は人の後についていく行為であり、結局宋・元の画人と肩を並べることはできない。
それに彼らはものを描いているのだろう。
彼らが描くものを自分が描くのでは、自分とものとは一つの層を隔てていることになる。
それなら自分で直接物を描く方がマシだ。

自分は何を対象にしても、中国の故事人物は存在しない。
しかし、日本の人物を描くのは耐えられず、実際に見る風景も絵にあるほどのものに遭遇したことはない。
やむなく動植物とうことになるが、孔雀(くじゃく)・カワセミ・オウム・錦鶏鳥(きんけいちょう)などはいつも見るわけにはいかない。
ただ鶏(にわとり)は村で飼われているし、その羽毛の色彩も美しい。
自分はこれから始めよう』と。

そして鶏数十羽を庭に飼い、その形状を観察し写生すること数年。
その後、対象は草木・鳥獣・虫魚の類に及び、それらの形と神髄を極めつくし、心に思うままに手が書き出せるようになった」。

元からある絵を真似して描いているのでは、自分のオリジナルというか、そういう絵は出来ないと感じたのでしょうね。
また、身近にある題材を探してそれについて描いていくことにオリジナルを突き詰めるということが出来たのですね。
私は絵画はあまりよく分からないのですが「絵の技術はこういう風に上達していくのだな」と感じました。
後で鉛筆を持って何か適当に書いてみようかと思わせるエピソードです。







若冲の代表作・動植綵絵とは?

若冲の作品に動植綵絵(どうしょくさいえ)というものがあり、これは文字通りの意味だと、動植物を描く彩色の絵ということになります。
若冲が宝暦8年(1758年)頃からほぼ10年近くをかけて完成させた彩色の花鳥画30幅の連作であり、彼はこれを「釈迦三尊像」(しゃかさんそんぞう)3幅とともに相国寺(しょうこくじ)に寄進。

明和2年(1765年)に24幅を納めたときの寄進状には「私は絵画に全力を尽くし、常に優れた花木を描き、鳥や虫の形状を描き尽くそうと望んでいます。
題材を多く集め、一家の枝となすに至りました。

また、かつて張思恭(ちょうしきょう)の描く釈迦文殊普賢像(しゃかもんじゅふげんぞう)を見た所、巧妙無比なのに感心し、模倣したいと思いました。
そしてついに三尊三幅を写し、動植綵絵24編を作ったのです。
すべて相国寺に喜捨し、寺の荘厳具の助けとなって永久に伝わればと思います。
私自身もこの地になきがらを埋めたく、いささかの費用を投じ、香火の縁を結びたいと思います。
ともにお納めくださいますよう、よろしくお願いします」とあり、古代中国からある花鳥画の歴史を辿ってみても描写の密度と独自性において匹敵するものがない大作だと言われています。

私も見た感じ、動物の活き活きとした姿を鮮やかに描いたような作品が多くて面白いです。
この動植綵絵は現在では東京都千代田区の皇居東御園内の宮内庁三の丸尚蔵館にあるらしいのですが、常設はしてないらしいのでご注意を。

また、若冲は水墨画や版画にも挑戦しているのですが、これはまた機会があれば、ということにしたいと思います。

地下水が決め手で平安時代からある錦市場も、若冲の動植綵絵もどちらも絶品

錦市場は平安時代から存在し、ここから地下水が湧き出ていたことがここに市が立った決め手。
魚や鳥が御所に届けられる往復の道の途上にあったため、ここにできたと言われています。
明治時代や昭和期にピンチもありましたが衰退と復活を繰り返し、京まで残っています。

また錦市場で生まれた伊藤若冲は都市のストレスを嫌って丹波で隠遁。
錦市場がメインのタイトルなのにこれは私はなんとも言えませんが、若冲は動植物が活き活きとした姿を描き、その代表作の動植綵絵はぜひ一度目にして欲しいと思います。

本当はもっと若冲について触れたかったのですが、それはまたの機会があれば。
では、今回も最後まで読んでくれてありがとうございます。

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