西南戦争ってどんな戦争だったの?九州南部全域を巻き込んだ、近代最後で最大の内乱

明治維新以降、士族たちの生活は一変しました。佐賀の乱や神風連の乱、萩の乱に続いて起こった西南戦争って、いったいどんなものだったのでしょう。西南戦争は、近代最後で最大の内乱となり、「日本軍」が最初に経験した本格的な戦争でした。武力を使わない自由民権運動に繋がっていった、不平士族の乱の終焉といわれる「西南戦争」について、調べてみました。少しだけお付き合いくださいね。

西南戦争って?

西南戦争って?

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西郷隆盛が開いた私学校の生徒を中心とした、旧薩摩藩の不平士族たち約3万人が、維新の功労者といえる西郷隆盛を指導者として蜂起した、明治政府に対する内乱です。
明治10(1877)年2月19日~9月24日の約8ヶ月にも及ぶ西南戦争は、司馬遼太郎氏の小説『翔ぶが琶ごと』でも、知られています。

熊本城での攻防など、この戦争での戦死者は両軍合わせて14,000人。
その4分の1が激戦地となった田原坂での犠牲者でした。
江戸が終わりを告げると共に、武士が日本から姿を消しました。
権力のある大名たちは、苦しい生活を脱出し借金も帳消しとなり職も得ましたが、その陰で泣いた下級武士たちの反乱には、どんな大義があったのでしょうか?

敗北により鹿児島へと帰ってしまう西郷隆盛

敗北により鹿児島へと帰ってしまう西郷隆盛

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西郷隆盛は、明治元(1868)年の新政府発足直後は、参議として中心的な存在でした。
しかし、明治6(1873)年に新政府では、対朝鮮の外交政策を巡る対立が起ってしまいます。
国交の再開を申し入れるものの朝鮮は拒否。
当時留守政府の首脳の一人だった、西郷隆盛は、「遣韓論」というべき行動に出て、開国を勧める交渉をするため、遣韓使節として自ら朝鮮に赴くことになりました。

天皇へ報告に行き承認を得るはずが、その役目を担う三条実美が心労で倒れ、岩倉具視が引き継いだのです。
しかし、岩倉具視は天皇に、「西郷の朝鮮派遣は無理だ」と述べ、無期延期となってしまいました。
これに激怒した西郷隆盛は、参議を辞職し鹿児島に引き籠ってしまいました。
そして、武力を持って朝鮮を開国させる征韓論(せいかんろん)賛成派の政策は、反対派の岩倉具視によって阻止されてしまいました。

西南戦争が起った要因

西南戦争が起った要因

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西郷隆盛が、鹿児島に帰った頃、冒頭で書きました内乱が各地で起こります。
それらに触発されるかのように、旧薩摩不平士族の不満も爆発しました。
それはそうですよね、武士が命を懸けてやり抜いた明治維新の先には、「武士はクビ!」とお払い箱となってしまったのです。
今でいえば、無職の「 プー太郎」ですものね。
しかも、お金はもちろん、土地も手に職もないとすれば、再就職もなかなか…。

思想的にも待遇にも不満を持っていた、不平士族の燻っていた不満が一気に爆発したといえます。
簡単にいえば、江戸時代まで武士に与えられていた特権を全て奪われ、それが政府への不満となり爆発したということだと思います。

4つの派閥に分かれていた鹿児島

4つの派閥に分かれていた鹿児島

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鹿児島は都から遠隔地にあったため、鎌倉時代からずっと、島津家が治めており絶大な信頼関係があったのです。
この頃旧薩摩藩士は、4つの派閥に分かれていたとか。

島津公の政権時代に戻してほしいと願う派閥、岩倉具視や大隈重信らなど征韓論後も政府に属した、政治家や軍人、警察官などの大久保利通を慕う派閥、西郷隆盛を慕う新しいものの中にも武士道を残したいという派閥やどこにも属さない派閥です。
西郷隆盛が開校した私学校の人々も含む、西郷隆盛の派閥が最大でした。

私学校はなぜ作られた?

私学校はなぜ作られた?

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西郷隆盛が退官後、明治7(1874)年に鹿児島で設立した学校です。
篠原国幹の銃隊学校と、村田新八の砲隊学校の2つがあり、鹿児島県内に136校の分校がありました。
旧藩から県庁に引き継がれた時の積立金で、設立しています。

実は、旧薩摩藩だけでなく西郷を慕っていた士族たちが鹿児島に集まっており、このまま放っておけば、いつ暴動が起こるかわからない状態だったようです。
若者や不平士族たちに、漢文などの教育や軍事訓練を行い統制しようと考えていました。
皮肉にも、彼らによって西南戦争が引き起こされてしまったのです。
この私学校は、後に県の史跡となっています。
石垣には多くの銃弾跡が残っており、激戦の様子を伝えています。

西南戦争の勃発

西南戦争の勃発

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先ほどお話しした私学校は、新政府からの締め付けなどもあり、次第に西郷隆盛を党首とする政治結社へと成長しました。
しかし、これは新政府から、彼らに新しい役割を与えてやってほしいとの思いもあったようです。
この結社は、行政や警察などの役割に手を出すようになり、新政府との衝突も頻繁に起こりました。

ある日、私学校の生徒たちが、政府から送り込まれた密偵から、西郷隆盛の暗殺計画を聞き出し西郷に報告。
西郷は、これに激怒し、陸軍の火薬庫や造船所を襲撃します。
密偵は、大久保利通の策略で、西郷の方から戦いの火ぶたを切らせるための挑発でした。
しかし、密偵ではなく、視察に訪れただけとの、連絡の行き違いだったとの説もあります。

西郷は幹部たちと共に、私学校本校に入ります。
翌日私学校の幹部や分校の校長ら200人超が集合し、戦争への話し合いが行われたのです。
この時に熊本城に拠点を置き陸路で東上する作戦が決まりました。
明治10(1877)年2月15日に、約23,000人の薩摩郡が私学校を後にして西南戦争へとなだれ込みます。
この日は、鹿児島では珍しく、60年ぶりの大雪が降っていました。

熊本城を包囲する薩軍

熊本城を包囲する薩軍

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総指揮官は、もちろん西郷隆盛。
ですが、西郷は2月17日に鹿児島を遅れて出発しています。
先に出発していた薩軍は、2月21日に熊本城を包囲しました。
どうして、熊本城?政府軍は、熊本城に立て籠もっていたからです。
政府は征討の勅を、2月19日に出しています。
政府軍は戦う気満々だったんでしょうね。

西郷らは2月25日に官位を剥奪され、薩軍は「賊軍」になっています。
西郷隆盛が鹿児島を出発して、4日で征討令を出すなんてあまりにも早いと思いませんか?政府軍は、電信などの近代的な通信設備を使っていたといわれています。
なんか、ずるいですよね。

明治政府は、総司令官に有栖川宮熾仁親王を、参軍には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将が任命しています。
薩軍が3万に対して、政府軍は7万の兵だったとか。
しかも、薩軍のほとんどは平民主体の寄せ集め。
中には訓練もそこそこで、実際に戦争経験のないものも多かったとか。
どう見ても、勝ち目は無さそうですよね。
熊本城を襲撃するも政府軍の反撃を受けてしまいます。
熊本鎮台司令長官谷干城率いる、熊本城はなかなか落とせませんでした。

ピーターラビット

Writer:

世界遺産ブームをきっかけに歴史に目覚めてから、国や城、庭園などの成り立ちに魅了された主婦です。何だろう?と思ったことを調べて、皆さんにお伝えすることで気持ちを共有できたら幸せだな~と感じながら仕事をしています。ちょっとマニアックな歴史記事ですが、軽い気持ちで触れてみてくださいね!

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