観光の前に知りたい!誰が何のために、ここに山城を造ったの?大野城の歴史

福岡県の中西部、筑紫地域にある四王寺山(しおうじやま)という山に、日本最古の山城と言われる「大野城(おおのじょう/おおののき)」という城の跡があります。城といっても、姫路城や松本城のような天守閣や堀をしつらえた城主が暮らす城ではなく、古代山城(こだいさんじょう)と呼ばれる防衛施設。標高410mほどの小高い山は一見、日本のどこにでもあるのどかな風景を作り出していますが、山のあちこちから石垣や土器などが見つかっています。誰が、何のために、ここに山城を造ったのか。日本の城と戦のあり方に大きな影響を与えた大野城の歴史と全容にせまります。

大野城とは

歴史は古く、日本書紀にも記述あり

歴史は古く、日本書紀にも記述あり

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『日本書紀』天智天皇四年(665年)八月の条に以下のような記述が残されています。

秋八月に 達率答本(実際の記述では火へんに本)春初を遣はして 城を長門国に築かしむ。
達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣はして 大野と椽、二城を築かしむ。

665年、7世紀半ば頃の日本というと、古墳時代が終わって飛鳥時代と呼ばれる時代に入っていました。
天智天皇とは歴史の教科書にも登場する大化の改新(645年)の中心人物、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のこと。
ただし中大兄皇子は即位の式をあげないまま皇位を継承しているので、年号のみ天智となっていますが中大兄皇子は皇太子のままで政務をとりおこなっていました。
中大兄皇子が即位したのは668年(天智天皇七年)のことで、なぜ7年も即位せず皇太子のままだったのかは、未だ謎とされています。

さて、肝心の『日本書紀』の文章の内容はというと、まず長門国は現在の山口県のこと。
筑紫国は九州北部、今の福岡県のあたり。
達率~とは当時朝鮮半島にあった百済という国からやってきた人物の名前です。
大野とは大野城のこと、椽(き)とは現在の佐賀県にある基山(きざん)に残る基肄城(きいじょう / きいのき、椽城と書くこともあり)のことと考えられています。
つまり大野城は、大和政権が665年に百済人に命じて築かせた城なのです。

長門国に築いたとされる城の名前の記述はないので、残念ながらこの一文から現在の場所を特定することはできません。
しかし後者、筑紫国に築いた二つの城については、文中に記された場所(大城山、基山)から城跡が見つかっていて、場所は明確になっています。
また、この前の年の天智天皇三年(664年)には「筑紫に、大堤を築き水を貯へ、名けて水城と曰ふ」という記述も。
7世紀半ばに、大和政権はこのあたりに盛んに城や堤を築いていたようです。

日本最古の山城

大野城は日本最古の山城です。
山城とは山を利用した天然の要塞で、戦国時代末期あたりまでは全国各地に造られていました。
飛鳥時代、奈良時代に西日本を中心に造られていた山城を特に「古代山城(こだいさんじょう)」と呼んでいます。
大野城は記録上最も古い、日本で最初に築かれた古代山城なのです。

山城は居住するためのものではなく、防御専用の施設であったと考えられています。
城主は平地に住居を持っていて、戦いが始まったら山城に詰める。
そういうシステムだったようです。
つまり山城は、敵襲の恐れがある場所、敵の通り道となり得る場所に築いて、見張り台や砦の役割を担っていました。
中世以降の、力の象徴とも言うべき立派な天守閣を持つ城とは、見た目も役目も大きく異なります。

『日本書紀』の記述のとおり、大野城の跡は九州北部、四王寺山(しおうじやま)という、福岡県太宰府市と大野城市、糟屋郡宇美町にまたがる小高い山の中に残されていました。
四王寺山とは、最も高い大城山(おおきやま・大野山と表記することもあり)岩屋山・水瓶山・大原山の4つの山から成り立っていて、まわりは平地で住宅や水田。
大城山は標高410mとそれほど高い山ではありませんが、なかなかの存在感です。
大野城はこの大城山に築かれていたと考えられています。
その歴史的価値から、日本城郭協会による『日本100名城』にも選ばれており、ハイキングを兼ねて史跡めぐりを楽しむ近隣住人で日々賑わっています。

大野城の場所と地形

大野城の場所と地形

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大野城がある福岡県大野城市(おおのじょうし)の市の人口はおよそ10万人。
博多の市街地のある平野部から内陸方面に細長く伸びた平地部分の延長線上に市街地があります。
その平地部分にはJR鹿児島本線や高速道路などが通っていて、博多からの交通の便がよいことから、福岡市のベッドタウンとして近年人口が増えている街です。

九州は、標高の高い山こそありませんが、内陸部はほとんど山地で、平地は海沿いに限られています。
大野城市を縦断する鉄道や幹線道路は山間の縦長の平地部分を抜けて有明海側の平地部分へ。
東に三郡山地、西側は脊振山地が広がっています。
どちらの山地も最高点で標高1000m前後。
山を越えるのは一苦労です。
鉄道や道路のない時代から、狭間の平地は貴重な通行路であったことは容易に想像がつきます。
四王寺山は三郡山地の端に位置し、この平地部分に突き出すように盛り上がった山。
山頂から博多港や玄界灘を眺めることができ、天気のよい日は対馬まで見渡せて眺望は抜群。
地形を見ると、大城山が山城に適していることがよくわかります。

『日本書紀』では、大野と椽にそれぞれ城を築いたと書かれていました。
椽、つまり基肄城のある基山は、この縦長の平地部分の対角線上、反対側に位置しています。
基肄城も山を利用した強固な山城。
この二つの城は、あるものを守るために築かれたのです。
今からおよそ1300年前、この平地部分にはある重要な施設がありました。
大宰府(太宰府)です。







大宰府の存在

大宰府の存在

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大野城を語る上で、大宰府の存在は欠かせません。

大宰府というと、菅原道真を祀った太宰府天満宮を思い浮かべる人が多いと思いますが、もともとは、大和政権の地方行政機関のことで、朝廷にとって重要な拠点であった播磨・吉備・周防といった土地にも設けられていました。
主な目的は地方の有力豪族の国々の監視と統括。
大和政権にたてつくことがないよう、朝廷直轄の役所を設けて目を光らせていたのです。
その後、時代が進み、大和政権の力が強くなっていったことで、大宰府はその役目を終えていきます。
701年の大宝律令制定後、大宰府は廃止されましたが、その後も九州の大宰府だけはそのまま活動を続けていました。
九州の大宰府には、外交と防衛という大きな役目があったのです。
外交の先は、朝鮮半島及び中国大陸。
大変大きな使命を担っていました。

九州北部、玄界灘沿岸は、弥生時代や古墳時代から、アジア大陸との交通の要衝であり、重要な場所と考えられていました。
大和政権でも6世紀頃、那津官家(なのつのみやけ)という出先機関を置いていたと『日本書紀』にも記されています。
那津とは博多湾、宮家とは朝廷の直轄領のことです。
7世紀には、あの遣隋使小野妹子が隋の使者を連れて那津に着いているところからも、その重要性が伺えます。
おそらく、那津官家は九州の大宰府の前進であったろうと考えられていますが、那津官家がどこにあったのか、正確なところはわかっていません。
現在確認されている大宰府政庁跡は大野城の南側の麓。
那津という名称から海の近くであったと推察するなら、だいぶ内陸に移動してきたことになります。

地図を見ると、大野城から博多の入り組んだ海岸線まで距離にして10㎞あるかないかといったところ。
その先は玄界灘です。
海に出ればおよそ120㎞ほどで対馬、さらにその先50kmほどで朝鮮半島に達します。
大和政権は直轄の施設を内陸に移し、その両サイドの山に665年、山城を設けました。
その理由は?665年頃、何が起きたのか。
さかのぼってみましょう。

大野城の役割

朝鮮半島の情勢

朝鮮半島の情勢

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6世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島では高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ/しんら)の3つの国が争いを繰り返していました。
拮抗していましたが、新羅がやや、二国に圧されるような状況だったようです。
同時期、隋の後に中国統一を成し遂げた唐という大国が誕生。
東西に勢力を伸ばしつつあったため、大陸は一触即発の状態でした。
この事態は日本にとっても他人事とは言えません。
大和政権もこの状況を重く受け止め警戒を強めていたようです。

7世紀半ば、百済から攻められた新羅は唐に援軍を求めます。
唐にとっては高句麗は討伐したい存在。
新羅と同盟を結びます。
この状況は日本にも伝えられていました。
7世紀半ばといえば、日本は大化の改新の真っ只中。
外交政策でも揺れていました。

百済と日本は4世紀頃から交流があったとされています。
百済を通じて、様々な大陸文化が日本に伝わっていて、人の行き来も多かったようです。
一方、中国大陸と間にも長年の友好関係が続いており、この頃数回、遣唐使を派遣するなど外交政策がとられていました。
現状、唐に味方するということは百済との敵対を意味し、百済との友好関係を保つなら唐に攻め込まれる可能性があります。
どちらにつくべきか。
そうこうしているうちに、唐・新羅連合軍が百済の王都に攻め込み、百済を滅ぼしてしまったのです。
660年のことでした。

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