日本屈指の巨大天守閣は圧巻!白亜に輝く名城「島原城」を訪ねて

長崎県南東部、有明海に大きく突き出した島原半島にある島原城。もともとあった建物は明治維新の際に解体されてしまいましたが、1960年代に入ってから古い資料をもとに復元され、その日本屈指の高さを誇る白亜の天守は観光スポットとしても大変人気があります。周囲を取り囲む石垣も堀も実に壮麗で見応え抜群。そんな島原城の魅力と城下のオススメスポットをたっぷりご紹介いたします。

島原城の歴史

松倉重政と島原城

松倉重政と島原城

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島原半島一帯は戦国時代、肥前有馬氏という氏族が入り込んできて幅を利かせていました。
現在の島原の市街地より南、半島の南端部分の小高い山の上に築かれた日野江城(ひのえじょう)という城があり、有馬氏はここを居城としていたようです。
江戸時代に入ると、日野江城はそのまま、島原藩の藩庁として機能することになります。

しかし間もなくして、有馬氏が身内のゴタゴタなどから別藩への移動を願い出たため、1616年(元和2年)、徳川家臣の松倉重政(まつくらしげまさ)が藩主として島原にやってきました。
松倉重政は関ヶ原の戦いで徳川方に味方して手柄を立てたことで、大和五条藩(奈良県)に1万石を与えられて藩主をしていましたが、大坂夏の陣でも功績を上げ、4万3000石で島原藩に移ってくることになった人物。
城や街づくりには定評があったといいます。

日野江城を手狭に感じた松倉重政は、藩入りしてまもなく、島原城の築城を開始。
1624年(寛永元年)には城を完成させます。

総石垣に巨大な堀、独立式層塔型5重5階の荘厳な天守、櫓が49棟。
4万3000石の外様大名にしてはかなり豪華な造りの城と思われます。
ただでさえ相当な出費だったと思われますが、これに加えて松倉重政は、徳川幕府への中世を証明するべく、江戸城の改修費用も負担していました。
重なる出費に、島原の領民は大変苦労したと伝わっています。

島原の乱と島原城

島原の乱と島原城

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そんな松倉家の締め付けに、ついに領民たちが決起。
1637年(寛永14年)、島原の乱が勃発します。
乱の指導者の中には、かつて島原を治めていた有馬氏の家臣の姿もあったのだそうです。

時を同じくして島原および周辺諸国では、藩によるキリシタンの弾圧が激しさを増しており、これに反発する動きも活発化していました。
過酷な取立てに宗教弾圧と、庶民の怒りは頂点に達し、大規模な一揆へと発展していったのです。

一揆の勢いは留まるところを知らず、危険を感じた島原藩が島原城に篭城すると、領民たちが一気に押し寄せ、城下は火の海と化したといいます。
島原の騒動を受けて天草でも一揆が始まり、天草四郎を中心に反乱が激化。
一揆は半年以上続きましたが、幕府が鎮圧に乗り出し、大軍による包囲や兵糧攻めを受けて食料や弾薬が底を尽き、一揆軍は陥落。
島原の乱は終息します。

過酷な取立てが乱を引き起こしたとして、松倉家は処断。
天草を治めていた寺沢家も責任を問われて領地没収となります。
さらにこの一揆の影響で、幕府はキリスト教布教のために来ていたポルトガルとの国交断絶を決定。
やがて鎖国が始まります。

松倉家が処断された後、1638年に藩主として島原にやってきたのが、武蔵岩槻藩(埼玉県)だった高力忠房(こうりきただふさ)でした。
忠房は徳川家光から大変信頼されていたそうで、この人物に島原の乱の後の復興や長崎の警備、周辺の外様大名たちの監視などを任せるに至ったようです。

幕末~現代の島原城

幕末~現代の島原城

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島原は雲仙岳のお膝元。
火山地帯のため土地が痩せていて、作物が思うように育たなかったことも、島原の乱につながっていったと思われます。
収穫高の少ない地域を治めるのは一筋縄ではいかないこと。
そんなこともあって、以後の島原城には、松平氏、戸田氏と徳川譜代の大名が入り政務を執り行いました。

1792年(寛政4年)雲仙普賢岳が噴火し、島原一帯は大きな地震に見舞われます。
山は大きく崩れ、津波が町を襲い、大量の土砂が島原城下を通って有明海に流れ込みました。
対岸の熊本にまで影響が及んだという「寛政の大地変(島原大変)」。
亡くなった人の数は1万5000人にもなったといいます。
城下は土砂で埋まり大変な被害が及びましたが、島原城は倒壊することなく残ったのだそうです。

様々な苦難を乗り越えつつ時を過ごしてきた島原城にも、時代の波が押し寄せます。
幕末から明治へ。
1874年(明治7年)、廃城令により、島原城は廃城処分となります。
土地は民間に払い下げられ、天守をはじめ建物は全て取り壊されることに。
城内は畑や学校などに利用されていきました。

それから100年ほど後、1960年代に入ってから、島原城を復元しようという声が高まります。
1964年(昭和39年)には5重5階、資料に基づいて忠実に造形を再現しつつ現代の建築技術を駆使した鉄筋コンクリート構造の天守が誕生。
島原の新しいシンボルが誕生しました。







島原城の見どころ

大迫力!白亜の天守閣

大迫力!白亜の天守閣

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島原駅を出て正面の道をまっすぐ進むとすぐ、島原城の大きなお堀と石垣にぶち当たります。
駅とは反対側に入口があるため、

お堀沿いの位置をぐるりと半周。
大きな天守閣は外回りの通りからもよく見ることができます。

島原城の入口は、城によくありがちな石段ではなく上り坂の車道。
S字にカーブした坂道を上がっていくと目の前が急に開けて、目の前にドン!と天守閣が現れます。
本丸の中は駐車場になっていて、まるで駐車場の中に天守が建っているかのような、かなり唐突な印象。
もちろん江戸の頃は、アスファルトでもないし駐車場でもなく、何か他の建物が建っていたのかもしれませんが、広く開けたところに建っているので、天守がより一層大きく感じられます。

天守は5層構造。
土台部分に石垣(天守台)があって、石段を上がって天守の中に入ります。
5層の一番下部分が大きく、一番上部分が小さく、ピラミッドのように裾広がりな形状をしていて、下から見上げるとかなりの迫力。
青い空によく映えます。

天守閣の中は展示スペースに。
1階はキリシタン史料、2階と3階には島原藩の所蔵品や庶民の生活に関するものを展示。
5階が最上階で、展望フロアになっています。

展望フロアからの眺望は文句なしの絶景。
天守台も含めると島原城の天守は33mほどの高さになるそうで、その分、柵が高く創られていますが、5階に上がった人はみんな、柵の隙間からカメラを突き出して、写真撮影に余念がありません。
島原の街はもちろんのこと、海の向こう側に熊本を望むこともできるのです。

城内をぶらり散策

城内をぶらり散策

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島原城内には、天守以外にも様々な施設が建てられています。
敷地も結構広いので、ぶらぶら散策するのも楽しいです。

まずは天守閣の目の前にある売店を覗いて、お土産をチェックしましょう。
中には軽食をいただけるスペースもあるので、座って一休み。
うどんやおにぎりといったメニューと共に、島原スイーツ”かんざらし”をいただくこともできます。

売店の並びにある建物は「観光復興記念館」。
1991年(平成3年)前後の雲仙普賢岳の噴火活動に関する展示や記録映像を見ることができます。

「観光復興記念館」の先は少し高くなっていて、小道が続く梅園になっていました。
中には築城主・松倉重政を祀った「松倉重政の祠」がひっそりと建っています。

城内は道が入り組んでいてちょっとした迷路のよう。
奥には菖蒲園もあるため、花の季節に合わせて訪れると、城内散策も一層楽しくなりそうです。

天守閣の裏側の、ちょっと入ったところに復元された櫓の中は「西望記念館」となってします。
北村西望(きたむらせいぼう)という島原出身の彫刻家の記念館。
長崎市平和公園の『平和祈念像』を造ったことで知られる、日本を代表する芸術家のひとりです。
躍動的で力強い作品がずらりと70点余り。
屋外にも大作がいくつか展示されているので、くまなく散策してもれなく鑑賞したいところです。

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