【名古屋じゃないよ】名護屋城の歴史と見どころ

佐賀県唐津市にある名護屋城(なごやじょう)。平成18年には日本100名城の87番目に選定されているお城です。名古屋と名護屋で名前の読み方が同じお城ってちょっと気になりませんか?今回は、佐賀県にある名城名護屋城の歴史に触れてみたいと思います。

九州の名護屋城ってどんなところ?

九州の名護屋城ってどんなところ?

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名護屋城は実は、大阪城に次ぐ壮大な大きさを誇るお城だったとか。
しかも、豊臣秀吉の命によってわずか8ヶ月で築城された、広さ17万平方メートルを誇る魅惑の城です。
現在は、石垣など城跡しか残っていません。
名護屋城跡を中心に半径3キロメートルの範囲に広がる遺跡群は、全国から参集した大名の陣屋が130以上も建てられていたという世界史上類を見ない広域な遺跡群なんですよ。

しかも秀吉が清朝を脅かしたという朝鮮出兵に際しての拠点として築かれた、歴史上において大切な存在だったことも見えてきます。
現在は名護屋城跡と23ヶ所の陣跡が、国の特別史跡に指定されています。
幻の巨大都市備前名護屋城は実は、天下人秀吉の居城だったんですよ。
1日かけても巡れないといわれる、唐津市と玄海町に広がる国の特別史跡「名護屋城」の歴史はどんなものなんでしょうね。
少しだけ、お付き合いくださいね。

名護屋城築城への背景

名護屋城築城への背景

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名護屋城は、佐賀県玄界灘に突き出した波戸岬にある城です。
天正13年(1585年)に中国地方の毛利輝元、天正15年(1587年)に豊臣秀吉は九州平定(薩摩の島津義久)をすると、天正18年(1590年)には、奥州の伊達政宗、関東の北条氏を制し、織田信長も夢見た天下統一を成し遂げました。
長く続いた戦国時代が終焉を迎え、秀吉は朝廷との関係を強め、内大臣、関白、太政大臣(太閤)までに昇進したのです。

せっかく平和な世の中が訪れると思われたのもつかの間。
秀吉は国内だけでは満足せず、7年にも及ぶ大陸への『文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)』を起こそうと計画を練ったのです。
これを実行するための拠点とする居城が必要と考えた秀吉は、新たな城を備前に造りました。
これが名護屋城です。

なぜ、名護屋城はこの地に建てられた?

なぜ、名護屋城はこの地に建てられた?

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愛知県の名古屋城と比べるような書き方をしていますが、この名護屋城を建てようと秀吉が決意した理由の一つに、この地が秀吉の出身地名古屋(なごや)と同じ地名だったためだったとか。
偶然の奇跡は良い運を招くと思ったのでしょうか?それと、この城を建てる山の名前が勝男山と縁起がいいことも起因しているようです。
秀吉は備前名護屋に前線基地としての築城を、九州の大名たちに命令しました。

当時この地の領主だった波多親(はたちかし)は、この地に城を築くのは不向きと反対し、秀吉の不興を買いました。
しかし秀吉の性格を考えると、これと決めたものを曲げるなんて考えられません。
この名護屋に城が建てられました。

築城期間はナント8ヶ月

築城期間はナント8ヶ月

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名護屋城築城が具体的になったのは、朝鮮出兵の前年の天正19年(1591年)でした。
8月23日には石田正澄による書状が、肥後相良長毎宛に届けられています。
10月上旬には、全国の諸大名たちが名護屋に到着し、城普請に取り掛かりました。
築城に際しては、縄張りを黒田孝高(大河ドラマの主役となった黒田官兵衛)、黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高らが普請奉行を命ぜられました。
九州の諸大名を中心に、突貫工事で約8ヶ月の速さで造り上げたと伝わっています。
しかし、17ヘクタールにも及ぶしっかりした城を短期間に造るのは無理だと、諸説もあります。
完成は翌年3月でした。

この築城を命ぜられた大名たちには、1592年の3月には渡海・出陣が命ぜられていたようです。
しかし、当主の秀吉は京都聚楽第を3月26日に出発。
名護屋に到着したのは、4月25日でした。
これを見るとなんだか秀吉って本当に朝鮮出兵する気あったの?って気がします。
だって、当の言い出しっぺが、出兵の日に間に合わないなんて。
でも完成した名護屋城は、大阪城に次ぐ壮大なお城なんです。
九州の大名たちは「どうだ!」って感じだったでしょうね。
朝鮮出兵のため用意された兵は総計30万7985人だったとか。
『松浦古事記』によれば、20万5570の兵が高麗へ、名護屋在人は10万2415人だったようです。







名護屋城はこんなに凄いお城だった

名護屋城はこんなに凄いお城だった

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天守閣が5層7階建ての本丸、二の丸、三の丸、水の手曲輪(くるわ)を備えていました。
他にも、能舞台跡、茶室跡、庭園跡や飛び石群など、多種多様な遺構・遺物が発掘調査で発見されています。
秀吉らしく、金箔瓦が出土しており、これは天守に葺かれていたもののようです。

また、城の周囲には陣屋群があり、大名たちの生活状況などが見えるほど保存状態がよく残されています。
現在までには、徳川家康(別陣)、細川忠興、前田利家、木下延俊などが確認されました。
桃山時代の遺跡であり、年代もきちんと確認できることから重要な遺跡とされているんです。
豊臣秀吉の城であること、他とは比べ物にならないほどの規模を有した諸大名の陣跡群などが重要な価値があるとして、現在も発掘調査が進められています。

出兵後の名護屋城

出兵後の名護屋城

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西国の大名の兵を中心に総勢15万8000の兵が、4月1日に小西行長と宗義智率いる一陣が朝鮮半島へ出兵しました。
彼らは、名護屋を出発し、壹岐・対馬を経て4月12日に第一軍が釜山に上陸しています。
ここから、文禄の役が始まったのです。
4月25日に名護屋城に入った秀吉は、7月22日の大政所の危篤以外はここに滞在しました。
ここで秀吉は、朝鮮にいる諸将たちに指示を出しながら、曲輪の中に取り入れた茶室で茶会を楽しんだり、瓜畑で仮装大会を催したりしたのです。
しかも茶会を開いた茶室は、驚くべきことに大阪城から金の茶室を移設しています。

西国軍が出兵した後には、東国の兵がこの名護屋に駐屯していたのです。
人数も10万もいたため、水源が足りず水不足が原因で喧嘩が絶えませんでした。
文禄2年(1593年)4月に講和交渉が開始されるも破談。
慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島に上陸させ慶長の役が始まりました。
ここでもこの名護屋城は大活躍。
現地への食糧や武器などの補給や連絡の中継地として使われたのです。
たった8ヶ月で造られたお城がこんなに活躍するなんて…。
凄いことですね。
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が伏見城にて亡くなりました。
ここで全軍が撤収しています。
これにより、この朝鮮出兵で頑張ってきた名護屋城は役目を終えました。
なんとも寂しい気がしてきますね。

文禄・慶長の役終了後の名護屋城

文禄・慶長の役終了後の名護屋城

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秀吉が朝鮮出兵中に、名護屋城に滞在したのは1年2ヶ月でした。
この後は、名護屋城は寺沢広高が収めています。
関ケ原の戦いの後に、寺沢広高は唐津城築城を始めました。
これは慶長7年(1602年)のことです。
驚くことに、この城を造るにあたり、名護屋城を解体し資材を使用して造ったといわれています。
どうして、彼が名護屋城を解体したのか。
それがいつだったのかは分かっていません。
朝鮮との関係修復を意図したものという考え方もあるようです。
時代の流れですかね。

名護屋城周囲の陣跡は118ヶ所確認されています。
現在遺構として残っている65ヶ所の内、特別史跡は23ヶ所です。

次のページでは『かつて秀吉の欲望により約8ヶ月で造られたといわれる名護屋城に訪れてみませんか?』を掲載!
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