観光の前に知りたい「武雄温泉」の昔と今、周辺の歴史的スポット

豊臣秀吉と『温泉定書』

豊臣秀吉と『温泉定書』

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小田原の北条氏を倒して天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、中国・明王朝の征服に乗り出します。
そして1592年(天正20年)、16万の大軍を朝鮮半島に送り込むのです(文禄・慶長の役)。

全国から多くの兵が玄界灘を臨む肥前名護屋城に集められ、出兵していくわけですが、その際、負傷した兵士の疲れを癒す場として指定されたのが武雄温泉でした。
有馬温泉に何度も足を運んだり、北条討伐の際には箱根に足を伸ばして湯治をするなど、秀吉の温泉好きは有名です。
神功皇后が朝鮮出兵の際に立ち寄ったという伝承を持つ武雄の地が、明王朝征服の足がかりとして朝鮮出兵を目論む秀吉軍の湯治場となったのも、何かのめぐり合わせかもしれません。

しかし、今までの戦と違い、船で繰り出さなければならない戦いに、秀吉軍は苦戦を強いられます。
思うようにならない戦況に、武雄で湯治をしていた兵たちの間にも苛立ちが募り、たびたびトラブルを起こすようになってしまうのです。

これに眉をひそめた秀吉はおふれを出して、湯治を行う兵たちを厳しく取り締まることにしました。
これが『温泉定書』です。
内容はというと、地元の人を困らせてはいけない、お湯に入るなら宿賃として5文払うこと、建物のまわりや敷地内の樹木を勝手に伐採してはならない、という三箇条。
こんなおふれが出るとは、兵たちは相当荒れていたのでしょう。
この『温泉定書』は現在でも武雄市が所蔵・保管しており、武雄市の重要文化財となっています。

このようにして豊臣秀吉のお墨付きを得た武雄温泉は、その後、多くの湯治客で賑わうようになっていくのです。

あの有名人も訪れた武雄温泉

江戸時代には、長崎へ続く街道の宿場町としても賑わいました。
そのため、多くの著名人が旅の疲れを癒すために武雄温泉に滞在しています。

江戸中期には佐賀藩主の氏族で武雄の領主の鍋島氏専用の総大理石の風呂「殿様湯」が作られました。
何せ殿様専用の風呂場なので、当時は中の様子などわからなかったようですが、かのドイツ人医師シーボルトが武雄を訪れた際、鍋島氏から特別に許されて殿様湯に入っており、その様子が『江戸参府紀行』に記されています。

鍋島氏専用の殿様湯は現在、貸切湯として利用することが可能。
殿様気分を楽しむことができると、大変人気なのだそうです。

また、武雄温泉は宮本武蔵ゆかりの地としても知られています。
楼門の近くにある湯元荘東洋館は400年の歴史を持つ老舗旅館で、もともとここは、脇本陣(本陣だけでは泊まりきれない場合などに利用する予備施設)が置かれていた平戸屋という宿。
宮本武蔵は巌流島の決闘の後、この宿を利用したと言われています。
また、島原の乱の後にもここで湯治をしていて、『五輪の書』の構想を練っていたのだそうです。
東洋館のロビーには、武蔵が使ったとされる井戸が今も大切に残されています。

古くから、疲れを癒す湯として知られていた武雄温泉は、この他にも、伊達政宗や吉田松陰、伊能忠敬といった偉人たちが立ち寄ったという記録が残っているのだそうです。

武雄温泉を発展させた実業家

武雄温泉を発展させた実業家

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武雄温泉発展の歴史を知るために欠かせない人物がもうひとり。
前述の宮原忠直です。
宮原は明治初期の頃の鍋島氏の家臣の家柄。
大変な秀才だったそうで、九州鉄道会社に入社し鉄道マンとして働いた後、武雄まで鉄道が開通したのを機に独立。
後に日本逓送(ていそう)株式会社を設立し、九州運送業界を牽引する大実業家となるのです。

一方で宮原家は、武雄温泉の組長を務めるなど、昔から武雄温泉と深い関わりを持っていたそうで、その縁で宮原も武雄温泉組(後の武雄温泉株式会社)の組長となります。
宮原は数年かけて専門家による地質調査を行い新泉脈を発見するなどして武雄温泉のさらなる発展に尽力。
県会議員を務めていた時期には、「武雄温泉を竜宮城にする」という構想を打ち出します。

このとき建物の設計を発注した先が、日本の近代建築の第一人者、辰野金吾の設計事務所でした。
辰野金吾は佐賀県の唐津出身で、日本銀行本店や東京駅の駅舎など数々の近代建築物を手がけた人物として知られています。
宮原の依頼を受けて設計されたのが、楼門と武雄温泉新館です。

宮原はこの他にも、様々な娯楽施設の建設を計画していたようで、その設計図が残されています。
楼門も3つ建てる予定だったようですが、建設の段階で様々な変更があり、現在のような形になったと思われます。
しかし、もしこの構想が実現していたら?武雄温泉はとんでもない規模の温泉テーマパークになっていたことでしょう。







武雄温泉のおすすめスポット

まるで竜宮城!武雄温泉のシンボル「楼門」

まるで竜宮城!武雄温泉のシンボル「楼門」

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武雄温泉の中心となるのが楼門。
その不思議なデザインは、訪れた人たちの心を捉えて離しません。
前の章でも何度も触れましたが、ここで改めて、詳しくご紹介してまいりましょう。

武雄温泉の入り口にそびえ立つ朱塗りの楼門は、2005年(平成17年)に国の重要文化財に指定され、2013年(平成25年)に補修工事が行われたこともあって、朱はより赤く、漆喰部分はより白く、よりいっそう鮮やかになりました。
竜宮城を彷彿とさせるその形、天平式楼門と呼ばれ、釘を1本も使用せず木を大事にした建築物なのです。

完成は1915年(大正4年)。
設計したのは前述のとおり辰野葛西建築事務所で、あの東京駅の駅舎とほぼ同時期のもの。
同じ佐賀県出身の辰野金吾はこの依頼を快く引き受けたと言われています。

デザインの奇抜さ・美しさもさることながら、特筆すべきはその大きさ。
高さ12.5m、横幅6.8m、奥行き4.9m、間近に立ってみると、写真で見るよりかなり大きく感じます。

楼門の二階部分は部屋になっているそうですが、2013年の修復工事の際、ここで大きな発見がありました。
東京駅丸の内駅舎の謎を解く鍵が見つかったのです。

丸の内駅舎には南北2つのドームがあり、内側から見上げると天井が八角形になっています。
柱や壁に美しい装飾の数々が施されているのですが、その中に十二支のレリーフが。
でも、十二支揃っておらず、丑・寅・辰・巳・未・申・戌・亥の8つだけ。
卯・酉・午・子がないのはなぜ。
なぜこんな中途半端なことを?長いこと謎だったのだそうです。

そしてその4つは何と、遠く離れた武雄の地に潜んでいました。
楼門の2階の天井に、この4つの干支が刻まれていたのです。
ほぼ同時期に設計された、まったく異なるタイプの2つの建築物を2つ合わせると干支が揃うとは!設計者の真意はわかりませんが、辰野金吾の遊び心だったのでは?との見方もあるそうです。

武雄温泉新館を見学しよう

楼門をくぐると、公衆浴場や貸切風呂、売店などの施設が円を描くように配置されていますが、真っ先に目に飛び込んでくるのが正面にあるレトロな木造建築。
楼門と同じく国の重要文化財に指定されている武雄温泉新館です。
こちらも同じく辰野金吾の設計事務所によるもので、瓦屋根に朱の柱と白い漆喰が印象的な和風建築となっています。

建てられたのは1914年(大正3年)。
横幅(桁行正面)14間(およそ25.5m)、奥行(梁間)3間(およそ5.5m)の二階建て。
正面は豪華な玄関車寄せとなっていて、一階は左右に男女大浴場。
二階には和室が5室あったそうです。

桜やつつじなど花の季節になると、あたりの景色もより一層華やかに。
見上げていると、本当に竜宮城に迷い込んだような気分になります。
こちらも楼門と同様、写真で見るよりずっと大きく感じられ、迫力満点です。

木造建築がゆえに老朽化が進み、平成12年から2年ほどかけて修復が施されました。
現在は、温泉施設としては利用されていませんが、中を見学することができます。
当時大変貴重だった、マジョリカタイルや陶板デザインタイルといった珍しい資材を使った内装は、建築ファンならずとも一見の価値ありです。

次のページでは『美味しいもの満載の楼門朝市』を掲載!
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