大坂の陣ってなにがあったの?徳川家康が天下をとる産みの苦しみ

「織田信長」の天下統一の夢を継いだ「豊臣秀吉」。その時代は「安土桃山時代」と呼ばれています。

時代からすると、信長による政権が始まった1573年から豊臣氏が滅亡する1615年という32年間しかありません。意外と短かったのですね。

その豊臣氏が滅亡するのは、豊臣秀吉が亡くなってからでした。次の天下を望む「徳川家康」との戦は「関ヶ原」の一度では終わらずに「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」という大きな戦いとなりました。天下分け目の「関ヶ原」をおさらいしながら、大阪城を中心とした「冬の陣」と「夏の陣」。徳川家康がいかに苦労して天下を取ったのか!というこの3つの戦いをこれから追っていきましょう。


関ヶ原までのおさらい

関ヶ原までのおさらい

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戦国時代は、織田信長・豊臣秀吉というリレーによって終わりをつげました。

なぜ豊臣秀吉が天下統一して争いがなくなったのに、別に室町幕府の足利家のように子供に継がしてもよかったんじゃない?という疑問が浮かびます。
そこまでして徳川家康は天下取りたかったのかな?という率直な疑問が一番にきますよね。

本題の大坂の陣に至るまでの経過を、さらっとおさらいしてみましょう。

織田信長と家康

織田信長と家康

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織田信長は1534年5月12日生まれの戦国大名。
若い頃は「うつけ(馬鹿)」と呼ばれるほどの変人だったと言われていますが、父の「信秀」が亡くなって家督を継ぎます。
弟との跡継ぎ争いの後「駿河(今の静岡県)」に大勢力をもっていた「今川義元(いまがわよしもと)」が領国である「尾張(今の愛知県)」に攻め込んで来た時に「桶狭間の戦い」で打ち破って名をあげました。
その時に今川の人質だった「徳川家康」は独立して、織田信長と盟約を結びます。
実は家康が子供の時に、今川に人質に連れて行かれる途中襲われて織田家にしばらく避難していたことがあり、盟友になるのはスムーズだったといわれています。

その後、義父の「斎藤道三(さいとうどうさん)」を殺した義兄「斎藤龍興(さいとうたつおき)」を討ち取り勢力を伸ばします。
そして室町幕府十五代将軍「足利義昭 (あしかがよしあき)」擁して上洛しました。
「浅井・朝倉」の連合軍をおとして、結託していた「比叡山」を焼き討ちします。
そして幕府将軍として信長を従えようとしてもならず挙兵した義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしました。

浄土真宗の「石山本願寺」と和睦して、「武田信玄」亡き後の武田を「長篠の戦い」で毀り、いよいよ中国地方の毛利を攻めれば「天下布武(武力で天下を統一すると意味だといわれていましたが、本当の意味は天下泰平という平和な世を作るというもの)の寸前に、京の本能寺で腹心の部下だった「明智光秀(あけちみつひで)」の夜襲にあい「本能寺」で亡くなってしまいました。
これを「本能寺の変」といいます。

この時にたいした兵を連れていなかった家康は、明智光秀の兵に対抗することを避けて、大阪の堺から「伊賀越え」して領地に逃げ帰りました。

豊臣秀吉と家康

豊臣秀吉と家康

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信長が亡くなった時に、毛利と戦っていた豊臣秀吉は即座に毛利と和睦して10日で一気に京都に戻ります。
これを「中国大返し」といわれています。
その勢いで明智光秀を「山崎の戦い」で打ち破り織田信長の後継者として名乗りを上げます。
それに反対する「柴田勝家(しばたかついえ)」を討ち滅ぼし、その勢いで四国地方・九州地方・関東地方・奥州地方を平定して天下を統一し「関白」となります。

各大名が家来になるために秀吉の元に挨拶に行くのに、家康はなかなか上洛しませんでした。
しびれを切らした秀吉が攻め込もうとした時に地震が起きて命拾いしたという話があります。
その後も上洛しない家康に、秀吉は妹を嫁がせ、さらに母親も人質として送り込みます。
そこでようやく家康は秀吉の元に行き家来になりました。

秀吉は、信長の夢だったという「明(今の中国)」を攻めるために「朝鮮半島」に出兵します。
そして2度目の出兵の時に病気で亡くなりました。

家康の野望と、石田三成の義がぶつかった関ヶ原の戦い!

家康の野望と、石田三成の義がぶつかった関ヶ原の戦い!

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秀吉には織田信長の姪「淀君(よどぎみ)」との間に生まれた「豊臣秀頼(とよとみひでより)」という幼い子供がいました。

その子供が成人して関白になるまでの後継人として「五大老」と「五奉行」を制定します。
それは秀吉が家康の力を恐れて、それを押さえるために作ったものでした。
五大老の筆頭は秀吉の親友だった「前田利家(まえだとしいえ)」でしたが、秀吉が亡くなった翌年に病気で亡くなってしまいました。
それ以後の家康は他の大名達からの人望もあり独走態勢にはいります。
そこで五奉行のひとりである「石田三成(いしだみつなり)」は、秀吉の遺志を継ぐために家康とぶつかります。

まるで天下人のような振舞いをはじめた家康に、五大老のひとり「上杉景勝(うえすぎかげかつ)」は領地に引きこもり、上洛をうながされても「兵糧を集めているので時間がかかる」などと言い断ってきました。
怒った家康は上杉征伐を決めて出立します。
これは上杉景勝の家老の「直江兼続(なおえかねつぐ)」と石田三成の計画で、両方から挟み撃ちにするという作戦だといわれています。
しかし家康は一枚上手でそれを見越していたともいわれています。

家康は軍議を開いて「どっちにつくか」と問います。
軍の中には秀吉の古くからの家来達も多かったために内部から襲われないためともいわれています。
しかし朝鮮出兵などで石田三成に反感をもっていた大名や武将達は家康の味方をすることを誓います。
そして家康の小姓から大名になった「井伊直政(いいなおまさ)」と秀吉の軍師だった「黒田官兵衛(くろだかんべえ)」を使い、石田三成の味方になっている大名達を家康の味方につけてしまいました。

外国の戦略研究者に、この関ヶ原の人数や布陣を見せて「どちらが勝つと思いますか?」と聞くと、ほぼ全員石田三成軍が勝つと言われるそうです。
実際に戦いは石田三成側の優勢に運んでいたのですが、秀吉の親戚の「小早川秀秋(こばやかわひであき)」の裏切りによって総崩れとなり、何日もかかるだろうと思われていた戦いは6時間ほどで終ってしまったのでした。

そして石田三成をはじめとする生き残った武将たちは処刑されて、豊臣秀頼は65万石の一大名となってしまったのでした。

家康の陰謀

家康の陰謀

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関ヶ原の合戦で勝った家康は、武家の最高位である「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」となり、事実上天下人となりました。

しかし、淀君と秀頼母子はもちろん、家康の家来となっていても秀吉の古くからの家来にとって秀頼は特別な想いがある大名は、家康が今は天下を差配しているが秀頼が成人したら渡すのだろうと思っていたのも少なくなかったようです。
これは家康にとっては面白いことではありません。
そして成長した秀頼に対面した時に、かつての信長のようなオーラがあり頭を下げてしまったという逸話が残っていたりして、これは「豊臣家を潰さなければならない」という決心になったのでした。

それはなぜかと言えば、自分は年老いて、秀頼は若い。
息子の「徳川秀忠(とくがわひでただ)」が、もし自分が死んだ後に戦いになったら、どれだけの大名が秀忠に味方するのかという心配もあったのでしょう。
最後の戦いに向けて家康の策略がはじまりました。

豊臣を追いつめる「鐘銘事件 (しょうめいじけん)」

豊臣を追いつめる「鐘銘事件 (しょうめいじけん)」

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まず家康は、関ヶ原で味方をしてくれた大名達に手厚く恩を言い恩賞を与え、巧みに豊臣家から心が離れていくように懐柔していきました。
豊臣家にも安心させるために孫娘の「千姫」を、秀吉の遺言だからと秀頼に嫁がせます。

征夷大将軍就任から2年後、高齢を理由に息子の秀忠に将軍の座を譲ります。
これによって将軍は世襲制で豊臣に政権を返す気はないと暗に全国に示したのでした。
これは豊臣にとっても大名たちにとってもショックなことでした。

そして豊臣家の豊かな財力を削ることをはじめます。
まず「太閤(秀吉)の菩提を弔うために」と、各地の有名な寺の修復や再建などを命じて工事をさせていきました。
重なる出費の末に事件は起こりました。
京都の方広寺にある大仏殿の鐘銘をめぐる事件です。

この大仏は秀吉が作らせたものですが、1596年「慶長の地震」で壊れてしまい再建されていませんでした。
これは是非とも再建しなければとそそのかし、ようやく完成して開眼供養が近づいてきた時に、家康はその鐘の文に難癖をつけます。
内容は「国家が安泰でありますように」という祈願文だったのですが「国家安康」は家康の名前を分断させている「君臣豊楽」は豊臣が豊かになりますようにという呪いの言葉だと言い出して供養の中止を命じたのでした。

驚いた豊臣方は幾度となく弁明をしますが聞き届けられず「大阪城からの退去」など難題を押しつけてきたのでした。
窮地に追い込まれた豊臣方は大名達に助けを求めます。
まさしく家康の思うつぼにはまってしまったのでした。

家康最後の仕上げの「大坂の陣」

家康最後の仕上げの「大坂の陣」

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徳川を恐れて、追い詰められた豊臣を助けてくれる大名は誰もいませんでした。
そこで、関ヶ原の合戦で主家をなくした武将などにも助けを求めることになったのでした。
すると「家を再興したい」「大名となりたい」「死に場所はここだ」というような「牢人(ろうにん)」達が10万集まりました。

中心となったのは「真田信繁(さなだのぶしげ・幸村は後の講談などでの呼び名)」「長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)」「明石全登(あかしぜんと)」「毛利勝永(もうりかつなが)」「後藤基次(ごとうもとつぐ)」という後に「大坂城五人衆」と呼ばれる武将たちでした。

決着がつかなかった「冬の陣」

決着がつかなかった「冬の陣」

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1614年極寒の冬。
家康が全国の大名たちを動員させて30万という大軍で大坂城を取り囲みました。

豊臣方は大坂城の堅固なつくりに加えて、真田信繁が三の丸南側にある玉造口に「真田丸」という出城を築き、押し寄せてくる徳川軍を鉄砲で打ち払いました。
その時に血気にはやった井伊軍が押し寄せて大打撃を受けています。
ほかの部隊も鴫野(しぎの)、今福、伯労ヶ淵(ばくろうがふち)で善戦しました。

思いの他の長期戦になり、業を煮やした家康は最新鋭の砲弾を長距離飛ばせる大砲を取り寄せて、大坂城に撃ち込みました。
これが淀君の寝所近くに命中したため淀君は恐れおののき、家康に和議を求めます。
幾度かの話し合いの末1614年12月に和議が成立しました。

極寒の中で、これよりますます大坂城を拠点とする豊臣方が優勢となっていく中での和議でしたが、家康は淀君の恐怖心を利用して話を優位に進め、敵意がないことを示すためと「総構(そうがまえ)の堀をつぶす」という条件を出します。
豊臣方はその条件をのみました。

家康のチェックメイト!滅びの道をゆく豊臣

家康のチェックメイト!滅びの道をゆく豊臣

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しかし、それは家康の罠でした。
堀を潰す工事をはじめたらこっちのものと、抗議を押し切って、総構だけでなく、内堀を除く二の丸と三の丸の堀まですべて埋めてしまったのでした。
出城でにらみをきかせていた真田丸も同様に取り壊されました。

これで堅固な守りを誇った大坂城は「見苦しい姿」と言われるほど情けない状態となってしまいます。
これはいよいよもって滅ぼしにかかってきたと覚悟した豊臣方は、武器、弾薬、兵糧(ひょうろう)を集め出しました。

これを見ていた家康は、いよいよ最後の仕上げとばかりに、秀頼の「大阪城を出て、大和(奈良県)か伊勢(三重県)への国替(くにがえ)」や、冬の陣が終わっても大坂城にいる「牢人たちの追放」を言ってきました「承知しなければ恭順の気持ちはないだろう」と挑発してきたのですね。
そしてその挑発に乗ってしまったのでした。

「夏の陣」崩れゆく豊臣の陣営

「夏の陣」崩れゆく豊臣の陣営

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1615年4月18日に家康は京都に到着。
その後秀忠到着。

5月5日、家康、秀忠の本隊は京街道を進み、奈良方面で集結していた別働隊は大和路を進み大坂城を目ざす。

同日、後藤基次、真田信繁らは大和方面の軍を迎え討つために国分(こくぶ)、道明寺(どうみょうじ)へ出撃。
木村重成(きむらしげなり)と長宗我部盛親たちは京街道から東高野街道(ひがしこうやかいどう)を進む家康と秀忠のいる本隊を討つために八尾(やお)、若江(わかえ)へ出撃。

5月6日、ともに激戦となる。
この日、後藤又兵衛と木村重成は討ち死。

5月7日、大阪南方面に陣取った真田信繁は、家康本隊を横から合図と共に奇襲するために布陣していた。
しかし合図を待たずに毛利軍が鉄砲を発射してしまったために失敗。
そこで「この戦いは終りだ」と言い残して、家康本陣に攻め込み、あと一歩というところまで迫まった(家康は自刃を覚悟したといわれている)が支援の部隊が来たために断念し離脱。
四天王寺近く(天王寺公園北)の安井神社で討ち取られる。

同日、明石全登は大軍に包囲されたものの、その包囲網を斬りひらいて戦線を離脱。
その後行方不明。

同日、長宗我部盛親は敗北が決したことから再起を図って逃亡。
11日に京都八幡(京都府八幡市)の男山に潜んでいるところを捕らえられて、15日妻子たちと共に斬首。

豊臣家最後の日

豊臣家最後の日

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5月7日午後3時頃、豊臣軍は名だたる武将から一兵卒まで多数の犠牲をだして壊滅しました。

五人衆の最後のひとりである毛利勝永は、真田軍と共に家康本陣まで迫りましたが、真田軍の壊滅を見て離脱。
全軍を指揮して大坂城本丸に総退却させました。
しかし、すでに堀もなにもなくなって裸同然の大坂城に、雪崩のように攻めてくる徳川軍を止める術は全くありません。

深夜、徳川方に寝返ろうとした大名が大坂城に火を放ちました。
犯人は逃げようとしたところ見つかり、お城の豪に突き落とされて死んだと、長崎のオランダ商館の関係者が書き残してます。

5月8日、秀頼の妻であり家康の孫である千姫が助命嘆願に家康の元に行きますが、聞き届かれませんでした。

同日、秀頼は身を隠していた「籾蔵(もみぐら)」の中で、毛利勝永に介錯され自刃。
淀君達残った武将や仕えていた者たちも自刃して果てました。
勝永はその後、息子・勝家、弟と共に蘆田矢倉(山里丸)で自刃したといわれています。

ついに、家康は悲願の豊臣を滅亡させたのでした。

家康にとっての天下布武

徳川家康にとっての天下を取るということは、まるっきり悪いことだという意識はなかったといわれています。
信長から秀吉へと権力が移り、最後は自分の番だ!という意識が強かったのでしょう。
家康にとっての戦国時代はつらいものでした。
だからこそ「天下布武」の本当の意味である「天下を戦争のない平和な世界にする」という気持ちも強かったといえます。
この大坂の陣は、家康の最後の渾身の戦いだったといっても過言ではありません。
なぜならば、この戦いの次の年に家康は亡くなってしまったのでした。

この家康が心血を注いで作り上げた「江戸幕府」は、300年という長い泰平の世を作ったのでした。

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3度のご飯より歴史が好きです。歴女というのが今メジャーなようですが、どちらかというと私は歴史ヲタクという泥臭い感じがします。

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