観光する前に知っておきたい!日本最古の官寺「四天王寺」の歴史と見どころ

「四天王寺」をご存知ですか?かの有名な飛鳥時代の摂政であった聖徳太子にとてもゆかりのある寺院でもあり、本格的な日本で最古の仏教寺院と言われています。由緒正しく格式高い寺院は、京都や奈良にあるだけではないのです!四天王寺は、東京ドーム約2.3個分の敷地に建つとても立派な寺院。今回は、寺院の名前が地名そのままに反映されている大阪市天王寺区四天王寺にある聖徳太子が建立した七大寺の一つとされる「四天王寺」の歴史と見どころについて詳しくご紹介していきます。

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四天王寺とは

日本最古の官寺であり、独自の宗派

日本最古の官寺であり、独自の宗派

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日本最古の官寺と言われている四天王寺は、593年(推古天皇元年)に創建されたと伝えられています。
聖徳太子が建立したといわれている七大寺(法隆寺・広隆寺・法起寺・中宮寺・橘寺・葛木寺・四天王寺)の一つ。
山号は荒陵山(あらはかさん)、別名は、荒陵(あらはか)寺・天王寺・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)とも言われています。
そして、大陸から日本に仏教が伝来し、当時の権力者であり聖徳太子の叔父でもある蘇我馬子(そがのうまこ)が建立したとされる法興寺(現在の飛鳥寺)と並んで、本格的な仏教寺院としては四天王寺は、日本最古と言われています。

また、四天王寺は独自の宗派で「和宗」の総本山とされています。
創建当時は、日本には宗派というものが存在していませんでした。
奈良時代になると、当時の都である平城京を中心に栄えた南都六宗(法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・華厳宗・律宗)のいづれにも四天王寺は属せずに、この南都六宗の別格本山とされていました。
平安時代になると、日本仏教の2大勢力である天台宗・真言宗と深く関係していきます。
特に、最澄を始祖とする天台宗は、聖徳太子が重要視した法華経を重んじていたこともあり、四天王寺は天台宗に属していくことになります。
その後も長く戦前まで四天王寺は天台宗に属していきますが、1946年(昭和21年)に天台宗から独立します。
そして、日本仏教の祖と言われている聖徳太子が建立した寺院として、四天王寺の教えを多くの人々に広めるべく、1949年(昭和24年)聖徳太子が作ったと言われている『十七條憲法』の「和を以って貴しとなす」の「和」から「和宗」の総本山となりました。

四天王寺の歴史

『日本書記』の記載と由来

『日本書記』の記載と由来

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『日本書紀』は、593年(推古天皇元年)に”是歲、始造四天王寺於難波荒陵”とあり、「この年、始めて四天王寺を難波の荒陵の地に造り始めた」と記載が残っています。
これが、四天王寺の創建と伝えられています。

四天王寺は、そもそも聖徳太子が戦勝を四天王に祈願したことが始まりと伝えられています。
当時、第31代用明天皇が病気で亡くなり、皇位継承争いが起こります。
そこに2大有力豪族であった神道派の物部守屋(もののべもりや)と仏教派の蘇我馬子(そがのうまこ)を巻き込み、武力衝突に発展してしまいました。
この二人は、それぞれ当時の政治を担う大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)である親の代から対立をしていました。
天皇の外戚でもあった蘇我馬子は、自営に参加した氏族や皇族たちとともに、物部守屋を孤立化させていき、守屋の自宅である渋川(現在の大阪府布施市)を攻め込みます。
しかし、物部氏は代々天皇家に仕えたきた軍事氏族でしたので、戦のプロでもあり、三度戦って三度とも蘇我馬子の連合軍を退けたといわれています。
この物部守屋との戦に、当時14歳であった聖徳太子も参戦していました。
蘇我馬子ら味方が不利なのを察し、聖徳太子は白膠木(ヌルデ)で四天王の像を彫り、それを自身の頭に縛り付け「もしこの物部氏との戦いに勝利したならば、四天王を安置する寺を建てよう」と祈願したと伝えられいます。
祈願したことによってなのか、この戦いに蘇我馬子の連合軍は勝利を納めることになります。
そして、聖徳太子は約束通り難波に四天王寺を建立したのがこの寺院の由来とされています。

平安時代以降の四天王寺

平安時代になると、日本仏教の始祖として聖徳太子は多くの人々に信仰されます。
そのため四天王寺も太子信仰の聖地となりました。
また、四天王寺の西門が、西方極楽浄土の入り口であるという浄土信仰の聖地とも言われるようになり、多くの信者を集めることとなります。
現在も四天王寺に残されている聖徳太子の自筆とされている『四天王寺縁起』(国宝)もこうした信仰を集める大きな要因にもなりました。
(実際は、平安時代中期の書写と言われています。)

平安時代末期には、当時の上皇・法皇が四天王寺を度々訪れることもあり、四天王寺は隆盛を極めたました。
鎌倉時代後期には、南朝政権を樹立した後醍醐天皇においては、「四天王寺縁起」を自筆で書写し巻末に手印まで捺しました。
これは「後醍醐天皇宸翰本縁起」(国宝)として四天王寺に保存されています。
また、仏教の宗派として有名な天台宗の開祖最澄や真言宗の開祖空海、浄土真宗の開祖親鸞、時宗の開祖一遍なども、四天王寺に一定の期間篭って祈願したと伝えられています。
とても由緒ある寺院なのです。

とても由緒ある寺院ですが、しかし四天王寺は、法隆寺のように多くの貴重な美術工芸品はありません。
平安時代以降、度重なる災害にあってしまい流失や焼亡、そして再建を繰り返してきたからです。
記録に残っているだけでも836年(承和2年)の落雷、960年(天徳4年)の火災、1576年(天正4年)には、織田信長による石山本願寺攻めの兵火によって焼失、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣でも焼失してしまいます。
その後も1801年(享和元年)の落雷により焼失、1812年(文化9年)に再建されるのど、何度も焼失と再建をくり返してきました。

近代以降の四天王寺

近代になると、四天王寺は明治政府による神仏分離令やそれに伴う廃仏毀釈により、所属していた神社が離されたり、寺領を失ったりと厳しい状況となってしまいます。
しかし、聖徳太子ゆかりの寺として、厚い庶民信仰は続いており、諸行事などは以前と変わらず続けられました。

昭和になると1934年(昭和9年)京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした室戸台風によって五重塔が倒壊し、金堂は破損、仁王門も壊滅され、四天王寺の境内全域が大変な被害を受けてしまいます。
1940年(昭和15年)に五重塔は再建されますが、今度は1945円(昭和20年)の大阪大空襲により、境内のほぼすべてが灰となってしまいました。

四天王寺は、様々な人の信仰によち1963年(昭和38年)には、飛鳥建築の様式を再現した中心伽藍が再建され、1979年(昭和54年)には経堂・絵堂など以前と同じように境内が再興されていきました。
このように創建から何度も焼失・再建とを繰り返している寺院は他に例を見ません。
そして、四天王寺は和宗の総本山として、聖徳太子の日本仏教の精神を引き継ぎ現代も人々の信仰を集めています。
また、四天王寺は寺院のみでなく、中高一貫教育の仏教系学校法人四天王寺学園を経営したり、社会福祉法人四天王寺福祉事業団を経営し、社会福祉活動などを行っています。

『四天王寺式伽藍配置』と見どころ

LUAN

Writer:

二児の母。自他共に認める「歴女」。寺社仏閣巡りが趣味。大学時代は、巫女バイトに励み神社の驚愕の裏側を知る。主人の仕事で、ニューヨーク、カリフォルニアに5年間住むことになる。ナショナルパークなどの世界遺産の素晴らしさを実感。ライターという仕事を通して、歴史や世界遺産の素晴らしさを多くの方と共有できれば幸いです。

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