江戸時代最後の城郭建築?21棟の重要文化財を持つ四国最大の城「松山城」の歴史

愛媛県松山市にある城、松山城はどんな場所にありどんな天守と建造物を持ち、また豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍と呼ばれた加藤嘉明は、どのような経緯で松山にやってきて松山城を建てたのでしょうか?さらにその後に松山に来た松平氏はどの様に松山藩を治め、松山城をどの様に管理していたか?また享保の大飢饉の時の松山藩の義農作兵衛とはどんな人物?幕末の動乱に松山藩はどう動いたか?これらについて紹介していきたいと思います。

松山城はどこにある?どんな城?

松山城はどこにある?どんな城?

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松山城は愛媛県の県庁所在地の松山の中心部の小高い山の上にあり、新幹線の止まる岡山駅からは特急「しおかぜ」で2時間50分の距離にあります。
さらにJR松山駅から市内電車で約10分、大街道の電停で降りて5分ほど歩き、そこからロープウェイに乗り(昔私がロープウェイに乗った時は案内の女性が白地に赤や紫の袴姿だったのですが、今はどうなのでしょうか?)山の上まで。
すると、立派な門と石垣を通った後には現存12天守の一つでもある松山城の天守が見えてきます。
個人的な感覚ですが、天守の大きさと敷地の広さは姫路城に匹敵するのではないでしょうか?

松山城は賤ヶ岳七本槍と言われ、関ヶ原の戦いで功をあげた加藤嘉明によって建てられ、その後伊勢桑名城主の松平定行が封ぜられ、その後9代定国のときに焼失するも12代藩主勝善(かつよし)の時復興されて、なお松山城は秋山好古・真之兄弟と正岡子規を主人公にして日露戦争の事を書いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の舞台でもありますね。

では、松山城にはどの様な建物があり、どの様な歴史を持っているのでしょうか?見ていきましょう。

四国最大と言われる松山城の建造物とは?

四国最大と言われる松山城の建造物とは?

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大手門跡から城に入り3つの門を通る

まずは松山城内の建物から説明していきましょう。

松山城は海抜 132mの勝山山頂に本丸、中腹に二之丸、ふもとに三之丸(堀の内)を置いた連郭式平山城。
敵の侵入を防ぐため、二之丸を取り囲む様にふもとから本丸にかけて、珍しい「登り石垣」があります。
ロープウェイ街からロープウェイに乗ってこられる方がほとんどだと思いますので、ロープウェイを長者が平で降りてから順番に、松山城の郭の中に残されている建物を紹介していきたいと思います。

長者が平を西に歩くと大手門跡があり、ここを入ると城の敷地内。
そこから中ノ門跡を通り「U」の字の様に屈折した登城道を歩くと重要文化財の戸無門(となしもん)です。

戸無門は本丸の大手入り口の最初に設けられた高麗門であり、昔から門に扉がないので戸無門と呼ばれ、扉を取り付けた痕跡は鏡柱にもありません。

戸無門をくぐって左手に曲がると筒井門。
築城の際に正木城から移建されたと伝えられる松山城の最大の門であり、三之丸・二之丸から本丸へと向かう、大手(正面)を固める重要な櫓門で、城中で最も重要で堅固にされています。

さらに筒井門の奥の石垣の陰には隠門(かくれもん、重要文化財)が隠されており、埋門(うずみもん)形式といわれる櫓門で、戸無門から筒井門へ迫る敵の背後を急襲するための構え。
脇戸を持たず、扉の横板張りの中には潜戸(くぐりど)が仕組まれていて、規模は小さいですが豪放な構えで、隠門続櫓(つづきやぐら、こちらも重要文化材)外部の下見板張りや、格子窓形式の突き揚げ戸などとともに、築城された当時の面影を見ることができます。

太鼓門から本丸に入り、本壇の周りの建物を見る

筒井門もしくは隠門をくぐって城の東の外壁に沿って歩くと太鼓門。
太鼓門・同南北続櫓・太鼓櫓・巽櫓(たつみやぐら)は1つの防御単位を構成し、高さ6.9mの石垣の上に一線上に並んで構築され、筒井門から本丸の南腰郭に侵入してくる敵に備えています。
石垣の西の端の太鼓櫓と太鼓門との間には24.41mの渡塀があり、鉄砲狭間16カ所、石落とし3カ所が設けられています。
本丸の入り口を守る要でしょうか。

太鼓門をくぐるとここから本丸。
本壇まで山の上とは思えないほどの広い敷地が広がっています。
私が松山城に行った時にはそこにある売店で「いよかんソフト」が売っていて美味しかったです。

その売店の横には当時の井戸も残っており、これは南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作った際に谷底に存在した泉を井戸にして残したと言い伝えられています。
井戸の直径は2m、深さ44.2mで当時の技術では通常掘ることができない深さがあります。
どうやって掘ったのでしょうね?

広い敷地内をさらに北に進んでいくと本壇なのですが、ここで敢えて紫竹門(しちくもん)を通って西の乾櫓(いぬいやぐら)の方へ向かっていきたいと思います。
どちらも重要文化財ですので。

本壇の手前に紫竹門およびその続塀があり、乾門方面から敵が侵入してくるのに対し、この門と東塀・西塀(どちらも重要文化財)が大きく仕切ることにより、本丸の搦手(裏)を防衛する重要な構えとなります。

そして紫竹門をくぐり西へ進むと乾門東続櫓、続いて乾門が見えてきます。
乾門と乾門東続櫓は慶長年間正木城から移建されたといわれ、乾一ノ門とともに、松山城の搦手(裏)にある門の中で、最も重要な構えになっています。

そして乾門をくぐらずにさらに西に進むと乾築城当初からある二重の隅櫓の乾櫓があり、本丸の乾(北西)の隅の鈍角の石垣の上に鈍角の櫓が建っていて、乾門・同東続櫓とともに搦手(裏側)を防衛する重要な構えとなっています。

城の北側を回り東の艮門に寄って本壇へ

さらに少し東に戻って北に進むと野原櫓(重要文化財)があり、本丸西北を乾櫓とともに防備するとともに、その東に存在した小筒櫓(跡)と本丸の北側を防衛するために重要な櫓であり、日本で唯一現存する望楼型(上層部と下層部の形が違っていて、具体的には入母屋造の下層上部に、物見櫓(ちいさな望楼)が乗っているような天守)の二重櫓で、天守の原型だったとも言われています。

そこから本壇の北側をぐるりと回ると城の敷地の北東の端に艮門(うしとらもん)があり、艮東続櫓とともに本壇の鬼門(北東)にあたり、不浄門ともいいます。
この方面を防備し、本丸の防衛のための出撃口としての意味も持ち、敵が大手(正面)の揚木戸門(あげきどもん)に、あるいは搦手(裏側)の乾門方面に迫った時この門から出撃し、侵入者の側面を突くための物と考えられています。

さて、いよいよ本壇に入りましょう。
紫竹門の手前まで戻り、一ノ門をくぐります。
一ノ門は天守に通じる本壇入り口を守る門で、木割も大きく豪放な構え。
形式は上方から攻撃を仕掛けるのが容易となる高麗門で、ニノ門との間は桝形という方形空間となっていて小天守・一ノ門南櫓・ニノ門南櫓・三ノ門南櫓(すべて重要文化財)の四方から攻撃できるのです。

さらに進むとニノ門で、ここまでの本壇南東の一角はすべて重要文化財となっています。
さらに北へ進み本壇の北東の角に天神櫓があります。
卯歳櫓、東隅櫓とも呼ばれていて具足櫓(その名の通り具足をしまう櫓)でしたが、後に本壇の鬼門(東北隅)に当たるため、城の安泰を祈り久松松平家の祖先神である天神(菅原道真)を祀ったのでこの名があります。

さらに仕切門(重要文化財)と内門を通り城の中庭へ。
ここで城の西側の壁となる北隅櫓・南隅櫓・十間廊下を見てみましょう。
玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓や戌亥(いぬい)小天守、南隅櫓は申酉(さるとり)天守とも呼ばれ、大天守に次ぐ格式を持つ櫓です。

十間廊下は天守の搦手(からめて、裏手)となる西側の乾門方面を防衛するための重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を繋ぐ通路でもあり、桁行が10間あることからこの名があります。

大天守の不思議と伊予国の歴史

大天守の不思議と伊予国の歴史

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筋鉄門から入った大天守の不思議

中庭からいよいよ天守閣に入ろうとする所、大天守と小天守の間に筋鉄門(すじがねもん)があります。
筋鉄門(すじがねもん)は櫓門で、天守の玄関がある中庭の防衛のために重要な門。
この門の櫓は小天守と大天守を結ぶ通路になっていて、東側の三之門(重要文化財)から侵入する敵の正面を射撃する構えとなっています。

そして松山城には大小二つの天守があり、大天守は三重三階・地下一階の層塔型の天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の城郭建築。
また、現存12天守の中で唯一築城主として「葵の御紋」が付けられています。
小天守は二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。
大天守・小天守・隅櫓を互いに廊下で結び、武備に徹したこの天守建造物群は日本の代表的な連立式城郭と言われています。

また、大天守には不思議に思われることがあり、天守には戦闘のときにこそ存在意義があるのですが、防衛の要として、一大事の時にだけ籠城し、日頃は城主やその側近らも足を踏み入れることがなく、生活の場ではないのでトイレや炊事場もありません。
床は板張りで天井板もないのが通例ですが松山城は一重、二重、三重とも天井板があり、畳の敷ける構造になっています。
さらには床の間も作られ、襖を入れる敷居さえもあります。
これは何を意味するのでしょうか?当時の城主、12代松平勝善はここを何に使おうとしたのか、定かではありません。

室町時代まで伊予国は誰が支配した?

次は松山城の歴史について見ていきましょう。
松山城のある伊予国は大化の改新の頃に成立し、平家一族が伊予国司に任じられた1161年(平時3)12月から1182年(寿永元年)3月まで平重盛ならびにその子継盛が伊予国司でした。
源頼朝が兵を挙げると河野通信(みちのぶ)が戦功をあげて伊予国内の御家人の統率権を公認されましたが、頼朝が弟の義経と不和を生じたため通信は頼朝からうとんじられ、伊予国の総守護には佐々木盛綱がなりました。

鎌倉幕府が成立し、1221年(承久3年)の承久の乱で御鳥羽・順徳の二上皇が北条氏の専横に堪えられず兵を挙げた時、この時通信の子通政・通末・通俊・孫の通秀は上皇に味方して北条勢に敵対しましたが敗戦。
奥州平泉に流され、一族百四十九人の旧領も没収されました。
しかし1271年(文永8年)と1279年(弘安2年)の二度の元寇の時に河野一族は大功を立て、再び浮穴・伊予郡は河野氏の領地となりました。

1364年(正平十19年)湯築城(ゆづきじょう、道後温泉のある辺りにあった城)に居城し河野通盛が細川頼元に滅ぼされると其の子通尭(みちたか)は各地に逃れ、名を通直と改め細川勢を攻め、そして浮穴伊予郡の平定に成功したので、この地に城主として代々居城しました。

豊臣秀吉の時代になり伊予国は誰に支配され、加藤嘉明はどんな人物だった?

豊臣秀吉の時代になり伊予国は誰に支配され、加藤嘉明はどんな人物だった?

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応仁の乱から豊臣秀吉の時代まで、誰が伊予を支配した?

1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)までの応仁の乱では新居郡高木城の河野通春は細川氏の東軍に属し、大洲城(おおずじょう)の宇都宮家綱は、温泉郡湯築城の河野通教らと共に山名氏の西軍に属しました。
1584年(天正12年)には長宗我部元親が道後湯築城の河野通直を下して伊予を平定しますが、豊臣秀吉の四国征伐を受けて小早川隆景、戸田勝隆、福島正則、栗野秀用などが伊予に入り、そして1591年(文禄2年)7月21日、文禄朝鮮役の功により伊予は加藤嘉明の支配地となりました。
伊予の歴史を紹介してきましたが、ようやく松山城を建てた加藤嘉明が出てきましたので、これからは嘉明について説明していこうと思います。

嘉明は徳川家康の家臣であった加藤教明(のりあき)の長男として生まれ、生まれた年の三河一向一揆で父が一向一揆勢に組して家康に背いて敗れ、流浪の身となり嘉明も放浪しました。
流転の後は近江国に至り父は羽柴秀吉に仕え、嘉明も加藤景泰(加藤光泰の父)に見出され秀吉に推挙されました。
秀吉は、嘉明を養子秀勝の小姓として仕えさせましたが、天正4年(1576年)の播磨攻めで、秀勝に無断で嘉明が従軍し秀吉の正室のおねの方は嘉明を即刻放逐するように訴えましたが、秀吉は嘉明の意欲を逆に評価して300石の扶持を与えて直臣とすることにしました。
嘉明は賤ヶ岳七本槍の一人でしたが、血の気の多い人だったのでしょうか?

加藤嘉明はどんな戦いを功を得て大名になった?

天正6年(1578年)3月、秀吉軍に従って三木城攻囲で初陣を飾り、4月の備中須久毛山(すくもやま?)の戦いでは、15歳にして初めて2つの首級を挙げました。
 天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が斃れると、6月13日、山崎の戦いの直前に中国大返しで戻った秀吉の軍に嘉明も加わった功によって山城国菱田村に300石加増され、さらに秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでは、福島正則、加藤清正、脇坂安治らと共に活躍し功をあげて、禄3,000石を一気に与えられ賤ヶ岳七本槍の一人に数えられました。

天正13年(1585年)3月、秀吉が関白になった際に嘉明も官位を授かり、従五位下・左馬助(じゅうごいのげ・さまのすけ)を拝領。
以後は左馬助と称しました。
同年6月の四国攻めの際には小早川隆景の与力となり、伊予国の平定に参加。
天正14年(1586年)11月2日、その行賞で、嘉明は淡路国の津名・三原郡1万5,000石を得て大名となり、志知城(志智城)主となりました。

天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐では、淡路水軍を率いて参加し功を挙げました。
文禄元年(1592年)、文禄の役では1,000名の兵を率いて出征し、嘉明は船大将・九鬼嘉隆に次いだ副将格となり淡路水軍を率いて転戦。
数多くの海戦を交え、李舜臣(りしゅんしん)指揮の朝鮮水軍とも度々戦いました。
7月にあった閑山島海戦(かんざんとうかいせん)で嘉明らは亀甲船を撃退し、これを秀吉に賞されて感状を受けています。

朝鮮出兵と関ヶ原の戦いで功を挙げた加藤嘉明

朝鮮出兵と関ヶ原の戦いで功を挙げた加藤嘉明

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加藤嘉明は朝鮮出兵でどんな活躍をした?

文禄3年(1594年)1月、明との講和交渉が始まり、嘉明ら諸将の一部は一時帰国し2月、軍功により淡路国内に1,700石の増封をされました。
翌年7月には伊予国正木(まさき、愛媛県松前町(これも「まさき」))で増封され、併せて6万石となり、また別に蔵入地4万石の管理も命じられました。
このため志知城を引き払い伊予正木城に移り、嘉明は足立重信(あだちしげのぶ)に命じ、伊予川(重信の名前にちなんで重信川と呼ばれるようになる)の改修工事をさせ城下町も拡張させました。

講和交渉は決裂し、慶長2年(1597年)3月、嘉明も再び出征、慶長の役においては1,600名(主に水軍)の兵を率いました。
同年7月、元均率いる朝鮮水軍を壊滅させた漆川梁(しっせんりょう)海戦に参加して大戦果を挙げましたが、領地が隣りで功を争っていた藤堂高虎には及びませんでした。
8月、金州に進んで南原城(なんげんじょう)を落とし、蔚山城(うるさんじょう)の戦いでは明・朝鮮軍の包囲で加藤清正が蔚山城(倭城)に篭城して食糧の欠乏に苦しみましたが、慶長3年(1598年)1月、救援軍の一員として嘉明も陸戦も行いました。
この春、虎を狩って秀吉に献上するために送り、礼状を受けていますが、日本軍は戦勝していたものの士気は上がりませんでした。
4月、明の大軍の接近を聞いた小西行長らは順天城からの撤退を主張。
嘉明が1人これに強く反対し秀吉の裁可を仰ぐことになり、秀吉は嘉明を激賞して行長を叱責しました。
5月、嘉明に3万7,000石を加増、10万石の大名にしただけでなく、さらに国主大名に取り立てると約束していましたが、その8月に秀吉が死去したため果たされませんでした。
その後、徳川家康・前田利家ら大老の協議により撤収と決まり嘉明らも帰国しました。

関ヶ原の合戦の時、嘉明と伊予の国はどうだったか?

秀吉亡き後、嘉明ら武断派と五奉行の石田三成らの文治派が対立。
慶長4年(1599年)、両派を調停していた前田利家が死去し、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明ら7将は、三成殺害を企てた後に三成を佐和山城蟄居へと追いやりました。

武断派は大老筆頭の徳川家康に従っていたので、慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝の討伐を家康が命じると、これに先鋒衆として嘉明も従軍。
この間に三成らが挙兵し、東軍(徳川方)は引き返し、嘉明は福島正則らと共に美濃国の岐阜城を落としました。
また大垣城攻めにも嘉明は参加、関ヶ原の戦い本戦でも、石田三成の本隊と戦って武功を挙げました。

他方、留守中の伊予正木では、毛利輝元の家臣・宍戸善左衛門および浪人・村上武吉(村上水軍で有名な村上武吉ですが、関ヶ原の合戦の時は伊予で反乱を起こしていたのですね)、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫ら諸将が兵2,500を率いて侵攻してきましたが、嘉明の老臣・佃十成(つくだかずなり)が兵200で三津で夜襲して撃破。
さらに河野氏残党の平岡善兵衛の立て籠もった久米如来寺を攻略し、一揆勢を鎮圧するのには手こずったものの、関ヶ原の東軍勝利の知らせが届くと、毛利勢は撤退し、一揆勢もほどなく鎮圧されました。

松山城に入った加藤嘉明と蒲生忠知の二人はそれぞれどの様に伊予を治めた?

松山城に入った加藤嘉明と蒲生忠知の二人はそれぞれどの様に伊予を治めた?

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関ヶ原以後の嘉明の所領はどう変わった?

嘉明は関ヶ原の戦いの功績により10万石の加増となり、嘉明と藤堂高虎は共に伊予で20万石の大名となって並び、領地も接して領域の確定し難い山間部がありました。
嘉明は足立重信に石手川を重信川に合流させ大きな地歩を得ると、慶長7年(1602年)、勝山城(後の松山城)の築城を開始し、城下町の整備も始め、翌年嘉明は本拠地を正木から勝山に移し、地名を松山と改名しました。

その後嘉明は江戸城修築、駿府城修築、名古屋城造営などの工事に諸将と共に従事、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では豊臣恩顧の大名のため嘉明は江戸城留守居となり、嫡男の加藤明成がかわって出陣。
一方、慶長20年(1615年)の夏の陣では嘉明が出陣し、2代将軍徳川秀忠の軍に従い、黒田長政と共に戦い武功を挙げますが、この戦いの結果、豊臣氏は滅びました。

その後福島正則が除封改易の時、嘉明は正則の身柄を預かり広島城の接収役も務めました。
家光が3代将軍になった時に従四位下に叙され、さらには侍従に任じられ、後水尾天皇の二条城行幸において警護役も務めました。

寛永4年(1627年)、松山城の工事が完成し、この時の天守は五重で偉観を誇ったと伝えられますが、この年会津の蒲生氏が減封され伊予松山藩へ転じ、嘉明が入れ替って会津藩へ移封され同時に43万5,500石に加増され、本拠を若松城に移しました。
なお三男の明利に三春3万石、女婿の松下重綱も二本松を配され、嘉明の与力とされました。
寛永8年(1631年)病を発し9月12日に江戸にて死去。

蒲生忠知は松山城で何をした?

加藤嘉明の後に松山城に入った蒲生忠知(がもうただとも)は慶長9年(1604年)、陸奥会津藩主の蒲生秀行の次男として生まれ寛永3年(1626年)、上山藩4万石の藩主となりましたが、寛永4年(1627年)、兄の忠郷が後継ぎの子がいないまま早世したため、本来ならば蒲生氏は断絶するところでしたが、母正清院(しょうせいいん)が徳川家康の娘であるということから、幕府の計らいを受けて忠知が家督を相続。
会津60万石から伊予松山24万石の減移封でしたが、信心深かった正室の影響か、治世は良好で(暴君伝説も伝わっていますが)、寺院の建築、移築を行うなどの治績を残しています。
また松山城の完成のために特に力を注ぎ、二之丸を築造しました。

寛永7年(1630年)勃発した重臣の抗争を裁き、この裁判沙汰は3年にも及び、忠知は幕府の裁定を仰いで決着を図り解決。
結果として、福西・関・岡・志賀らの老臣が流罪・追放となり、家老の蒲生郷喜(さとよし)の弟である蒲生郷舎(さといえ)も暇を出され、召し放つ事態に。

寛永11年(1634年)、参勤交代の途上、京都の藩邸で急死。
享年31。
死因は不明ですが、兄・忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われていて、そして嗣子がなかったため蒲生氏は断絶。
伊予円福寺に肖像が伝わっています。

定行から定長、定直の時の松山藩

定行から定長、定直の時の松山藩

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蒲生家に代わって松山に入ってきた松平定行はどんな人物だった?

寛永12年(1635年)、家光の命により桑名藩11万石藩主の松平定行が4万石を加増され、断絶した蒲生家に代わって伊予松山藩に移ってきました。
外様への牽制と警戒のために中四国へは初の家門(徳川将軍家の一族及び徳川家康の兄弟の家系の大名家)が入部。

同16年(1639年)には松山城の天守を5重から3重に改築し(幕府に遠慮して低くしたのでしょうか?)正保元年(1644年)、長崎探題に就任。
異国船との交渉にあたり、鎖国制度の完成に貢献。
家光が死去した後の慶安4年(1651年)、幼将軍徳川家綱を補佐するため溜之間詰(たまりのまづめ)に任ぜられます。
万治元年(1658年)、72歳で隠居。
嫡男の定頼に家督を譲り松山東野御殿へ退き、松山(しょうざん)と称し(のちに勝山と改めます)たことにより勝山公と奉称されました。
東野御殿では俳諧や茶道を楽しむなど悠々自適の生活を送り、寛文8年(1668年)、東野御殿にて卒去。
享年82。

跡を継いだ定頼は父が隠居してから家督および長崎探題職を継承し、その翌年、従五位下から四品に昇叙し、寛文元年(1661年)、河内守から隠岐守に転任。
しかし翌年正月22日、江戸松山藩邸三田中屋敷で落馬し、そのまま危篤に陥り死去。
享年56。
松山入りはわずか3回だったといいます。

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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