【今治城】高虎はおもてなし大名?日本3大海城の一つ「今治城」とは

今治城とはどこにあり、どんな城なのでしょうか?そしてどんな建造物があり、城主となった藤堂高虎はどのように出世していき、どのように徳川家康に接近していったのか?そして関ヶ原の合戦で高虎はどのように活躍し、今治城のある伊予の国半国を手に入れたのか?そして高虎は今治城をどんな城にしたのか?そしてその後の城主たちはどのように今治を治めたのか?ということについて見ていきたいと思います。まずは今治城がどこにあるかということから見ていきましょう。

今治城はどこ?どんな建造物がある?

今治城は瀬戸内海のどんな場所にある?どんな城?

今治城は瀬戸内海のどんな場所にある?どんな城?

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今治城は四国は愛媛県北部の、造船で有名な街・今治市にあります。
アクセスとしては、電車なら新幹線の止まる岡山駅から特急しおかぜで2時間10分ほど。

車なら、しおかぜと同じく岡山県倉敷市から瀬戸大橋を渡るルートの他に、広島県尾道市からしまなみ海道を通ってくるルートも。
また東京・大阪・神戸・広島・福山からは直通の高速バスも出ていて、大阪からはフェリーもあるようです。

今治城へは今治駅からせとうちバス「今治営業所行き」に7分乗り、「今治城前」で下車してください。

今治城は吹揚浜(ふきあげはま)に作られた本格的な海城で、日本3大海城の一つとされています。
幅広い水濠(すいごう)は瀬戸内海の延長で海水が引かれ、なんと内堀にサメがいたこともあるそう。
濠と海の接点には、軍港であり商業港でもあった船入(ふないり)が設けられていました。

今治は瀬戸内海交通の要の一つ。
九州方面から関門海峡と豊後水道を航行する船は今治の北で激しい潮流に巻き込まれます。
伊予灘から瀬戸内海に入るところで高縄半島が北に大きく出張り、広島県三原市から竹原側の中間には大三島、因島、大島が浮かぶ来島海峡(くるしまかいきょう)。

ここで船を操るには水夫(かこ)の存在が不可欠。
潮流を操るものが操縦しないと船は真っ二つに折れてしまいます。
この水先案内人の役目を務めたのが有名な三島村上水軍でした。

今治城の建造物はどんなものが残り、どう修復された?

今治城の建造物はどんなものが残り、どう修復された?

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今治城は二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りで、石垣と内堀が江戸時代のものを現在に残しています。

広大な城郭は江戸260年間保たれましたが、明治2年の廃城令の直前にほとんどの建築物が破却。
二の丸北隅の武家櫓は収蔵物とともに残されましたが、明治4年(1871年)の火災で内部に残っていた火薬に爆発炎上し破壊されました。

昭和55年(1980年)になってようやく5層6階の天守が建てられ、昭和60年(1985年)に東隅櫓が御金櫓として再建。
外観は今治藩医の半井梧庵が残した写真を元に復元されています。
平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が再建され、平成18年(2006年)に日本100名城に選定されました。
翌年には可能な限り江戸時代の史実に基づいた鉄御門(くろがねごもん)や石垣、多聞櫓5棟とともに復元され、また二の丸に藤堂高虎の像が建設されました。

石垣と内堀の一部も近代以降に回収工事が行われ、石垣については本来はなかった「反り」が施されています。
また、緊急車両を乗り入れるため一段高くなってしまった所も。
階段に手すりがあったりと少し史実と違う所もあるらしいのですが、現代に必要な設備と思われる所は仕方ないのではないでしょうか。

また天守も実際は約6年間ほどしか存在しなかった(亀山城に移築されたという説)ということですが、最上階からはしまなみ海道の来島大橋が見えるなど、瀬戸内海を眺望することができます。

藤堂高虎はどのように出世していった?家康との関係は?







高虎が主君を何度も変えたのは、どんな考えがあったから?

高虎が主君を何度も変えたのは、どんな考えがあったから?

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では、今治城を作った藤堂高虎はどんな人だったのでしょうか?高虎は浅井長政など何度も君主をかえ、「ごますり大名」や「おべっか大名」などと批判されがち。
高虎は「懸命に仕えても主君が認めてくれなければ、こちらが見限るべき」という考え方の持ち主で、それを家訓にも残すほどで、いわば「転職の達人」。
そういう言い方をすれば、現代に生きる人にも学ぶものがあるのではないでしょうか?

高虎は豊臣秀吉の弟・秀長に仕えたとき、雑賀攻めから和歌山城の縄張りを担当し、これが高虎の最初の築城。
ようやくその働きが認められ、ついに2万石を与えられましたが秀長は病没し、その子秀俊も若くして死んでいまいます。
この時複数の大名が高虎をスカウトにきますが、高虎の絶望は深く、出家して紀州の高野山に篭ってしまします。

そんな高虎を7万石で再雇用したのが秀吉。
秀吉がこれほどの高禄を与えたのは、高虎に堅固で難攻不落な築城術があったため。
ただ、秀吉に仕えていた頃から、次の天下人は徳川家康だと、高虎は見抜いていました。
高虎が家康と会ったのは、家康が天正14年(1586年)に上洛し、豊臣秀吉に服従したときのこと。

高虎は「おべっか大名」?「おもてなし大名」?

高虎は「おべっか大名」?「おもてなし大名」?

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この折高虎は秀吉の命令により家康の京都屋敷の普請を担当。
高虎は質素で武家らしい住宅を好む家康のため、なんと自費を投じて、屋敷を公家風から武家風に変更。
家康はこれを大変な喜び、高虎に名刀を贈呈したそうです。
「おべっか大名」と言うか、今風の良い言葉で言えば、「おもてなし大名」の方が良いのではないかと私は思います。

以後、高虎は秀吉の直臣でありながら家康に接近。
家康を次の天下人だということを見抜いていたのでしょうか?いや、私はそうは思いません。
単純に高虎と家康はウマが合い、でもって「ごますり大名」なんて呼ばれるからには、高虎には「おもてなし」が上手かったから、それだけではないかと思います。

慶長3年(1598年)、秀吉が没すると、家康は五大老の筆頭の立場でありながら、勝手に大名同士の縁組をしたり、論功行賞を行ったりと勝手な振る舞い。
しかし、これは政権内の反家康派をあぶり出し、彼らを倒すことで完全に政権を掌握しようと企んでいたのです。

そうした中、高虎はいち早く弟を人質として家康に差し出し、積極的に行動。
自分とウマが合う人物が天下人になれそうなので、積極的になったのではないでしょうか?

関ヶ原の戦いでの高虎の活躍は?

次のページでは『元々家康ひいきだった高虎は、関ヶ原の合戦の前にどう動いた?』を掲載!
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