観光の前に知りたい!日本三大水城である「高松城」の歴史と見どころ

日本三大海城の一つであり海がすぐそばにある高松城。海城ならではの城の作りや伝統があるのですが、それはどんなものでしょうか?さらに高松城と藩を統治していた人々はどんな人達でどんな風に藩を治め、また藩を治めるに当たって騒動も起こりましたがそれはどんなものだったでしょうか?また高松藩にゆかりのある人としてエレキテルを発明したあの人や時代劇でお馴染みのあの人なんかも出てきます。それでは高松城がどんな城か、見ていきましょう。

高松城はどんな城?

玉藻城と呼ばれる高松城はどんな城?

高松城はJR高松駅から徒歩3分という立地にあり、その高松駅までは新幹線の止まる岡山駅からは快速マリンライナーに乗って1時間の距離。

高松城は「玉藻城」(たまもじょう)とも呼ばれていて、その城跡の公園は玉藻公園と呼ばれています。
なぜ玉藻城と呼ばれているのかというと、万葉集で柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにちなみ、高松城の周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれたことに由来するとされています。
近世の海城としては最初にして最大の城で、その規模は「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」とうたわれているほどで、日本三大水城(他に愛媛県の今治城、大分県の中津城)の筆頭で、月見櫓などのある塀と堀を越えればすぐそこは海で、フェリー乗り場などがあります。

豊臣秀吉の四国制圧の後、生駒親正により築かれた城ですが、現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀(みつくに)の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものです。

では、その高松城のある玉藻公園内にはどんな建物があるのでしょうか?見ていきましょう。

東入り口から入った所にある旭橋・旭門・艮櫓はどんな建物?

まずは東入口を入った所から順に説明していきます。
かつて城の南側の桜の馬場の南中程に大手門がありましたが、寛文11年(1671年)頃、三の丸に藩主の居城である旧披雲閣が建てられたため、これを廃して新たに東に旭橋を架け、それを渡って旭門から出入りする様になりました。
旭橋を入った所にある巨石を積み重ねて作られた桝方(ますがた)は、攻め込んだ敵を包囲したり、攻め出す時に中に兵士を並べてその大体の数を知るためのもの。
桝方の北面には埋門(うずみもん)があり、南側には太鼓御門がありました。

旭門をくぐって桝方を通って城の南東隅には昭和25年8月29日に重要文化財に指定された艮櫓(うしとらやぐら)があり、これは元々東の丸の北東の隅に(現在の県民ホール敷地内)にあった櫓で、北東の方角を丑寅(うしとら)ということからこの名前があります。
完成は延宝5年(1677年)といわれ、月見櫓と同時期に作られました。
三層三階・入母屋造(いりもやつくり)・本瓦葺で、形は月見櫓と似ていますが、初層に大きな千鳥破風(ちどりはふ)があるのが特徴です。
昭和40年に当時の所有者であった旧国鉄から高松市が譲り受けて、2ヶ年の歳月をかけて、東の丸より旧太鼓櫓跡に移築復元されました。

東入口から入城し艮櫓から披雲閣へ

桜の馬場から桜御門跡を抜けて陳列館へ

艮櫓から西に行った所に桜の馬場があり、ここは馬の教練をしたところで、かつては2倍ほどの広さがあり、現在は桜の木が植えられており、春は花見の人で賑わいます。
馬に乗った人がたくさんいる馬場の昔の風景を想像すると楽しいですね。

桜の馬場から北に向かうと桜御門跡があり、これは三の丸入り口の櫓門(やぐらもん)で昭和20年(1945年)の高松空襲で焼失しました。
石垣には火災によって赤く焼けた痕跡や、地面に残る礎石には柱に使用された金具がサビた跡が茶色く残り、往時の痕跡を偲ぶことができます。

桜御門跡から東に向かうと陳列館があり、高松城や歴代の藩主等に関連する文化財や資料、模型、古写真等を展示しています。
国宝詩懐紙藤原佐理書(複製、しかいしふじわらのすけまさのしょ)、高松城天守閣鯱(しゃちほこ、複製)、高松城・城下町模型、取り壊し前の高松城天守閣写真を含む明治時代の高松城周辺を撮影した写真(平成17年、英国ケンブリッジ大学図書館)、天守台発掘調査写真パネル等が展示されています。

城と城下町の模型なんかは昔の城下町の姿がわかるので私は好きなのですが、ついついこういう展示は見逃してしまう傾向にあって(櫓などの建造物を見るのに夢中になってしまって)、以前行った時には気づかなかったのでまた足を運ぼうかなと思っています。

披雲閣と披雲閣庭園はどの様なものか?

陳列館の横には平成24年7月9日に重要文化財に指定された披雲閣があり、延床面積は1,887㎡で、松平藩時代にも現在の場所に同じ名前の広大な建物(現在の約2倍)がありました。
藩の政庁兼藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化により取り壊され、その後3ヶ年の歳月と当時のお金で15余万円の巨費を投じて、大正6年(1917年)に現在の披雲閣が完成しました。

披雲閣の建物の中には142畳敷の大書院をはじめ、槇(まき)の間、松の間、蘇鉄の間など雅致(がち)を生かした各部屋があり、波の間には、昭和天皇・皇后両陛下が宿泊されました。
第二次世界大戦後のしばらくの間占領軍に接収されていましたが、高松市が譲り受けてから後は、貸会場として会議、茶会、華展などに利用され、市民に親しまれています。

披雲閣のそばの披雲閣庭園は昭和25年8月29日に高松市の指定名所にされ、この庭は大正6年(1917年)頃作られた枯山水の庭で、江戸時代の三尊石や重さ11トンと言われる手水鉢、後の昭和天皇・皇后両陛下が大正時代にお手植えされた松などがあります。

水城としての高松城はどの様なものか?

海を眺められた月見櫓

海を眺められた月見櫓

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披雲閣から少し北に向かうと昭和25年8月29日に重要文化財に指定された月見櫓・水手御門・渡櫓があり、月見櫓は北の隅櫓として延宝4年(1676年)に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので「着見櫓」とも言われています。
総塗籠造りの三層三階・入母屋造り・本瓦葺で、初層は千鳥破風、二層は唐破風と屋根の形を大正させて、また各階の白壁に上下二本の黒塗長押(くろぬりなげし、柱を水平方向に繋ぐもの)を巡らせて変化を持たせています。
月見櫓に連なる薬医門(やくいもん)様式の水手御門はいわば海の大手門です。

月見櫓から東に向かい披雲閣庭園の横を通って行くと水門があり、この城は堀が海と繋がっているので、干潮による水位調節のため水門が設けられています。
堀にはタイやチヌなど海の魚がいて、エサやり体験が楽しめます。

水門の上を通り二の丸跡に入り南に向かうと本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋である鞘橋(さやばし)があり、当初は欄干橋でしたが、江戸時代の中期末頃には屋根付きの橋になっていた様です。

堀に囲まれた天守閣跡と、水城ならではの泳法とは?

鞘橋を渡ると天守台があり、生駒市時代の天守は絵図や古文書によると三層だったとされていて、松平氏時代の寛文10年(1670年)に改築された天守は三層五階(3層4階+地下1階)の唐造りで四国最大の規模を誇っていましたが、明治17年(1884年)老朽化を理由に取り壊されました。
平成17年から天守台の修復工事が行われ、発掘調査の結果地下1階部分から58個の礎石が当時のまま現れました。
平成25年修復工事も完了し、今後も天守閣の復元に期待がかかっています。

天守閣は前述の水門から引き入れた海水の堀で囲まれており、防備の良い天守であると共に、外からその姿を見やすい天守だったんだろう、そして水を上手く利用していてさらに広く大きな城だったのだと感じます。

松平家には泳法が伝わっており、高松藩祖松平頼重は高松城に入府すると「讃岐の国は海辺の国なれば水練は武道の一班たるべし」と藩士に命じ水練の指導をさせ、頼重自らも入府の年に場内の内堀で泳いだとの記録があります。

高松藩の水術は水戸藩の水府流(すいふりゅう)を源流とし、「高松御当所流」と呼ばれましたが、やがて「水任流」(すいにんりゅう)が正式名称とされ、昭和53年4月に松平家第13代松平頼明(よりひろ)氏を会長とした水任流保存会が結成され、毎年6月第1日曜日に英公(初代頼明)を偲んで追悼遊泳祭を行っています。
また、松平頼明氏が水任流保存会を結成して日本泳法の保存に努め、水任流は昭和54年高松市無形文化財第1号に指定されたことの偉業を称え、二の丸北側に水任流保存会初代会長松平頼明氏顕彰碑が建てられています。

高松城の歴史、初代藩主生駒親正はどんな人物?







高松藩の初代藩主生駒親正はどんな人物?

高松藩の初代藩主生駒親正はどんな人物?

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それでは次に高松城のある高松藩の歴史を見ていきましょう。
高松藩は初代藩主である生駒親正(いこまちかまさ)が天正15年に豊臣秀吉から讃岐一国17万6千石を与えられて国主として入府したことに始まります。

生駒親正は生駒親重(ちかしげ)の子として美濃国可児郡(かにぐん)土田(現在の岐阜県可児市土田)に生まれ、永禄9年(1566年)、織田信長の美濃攻めの時にその臣下となりその後は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、金ヶ崎の戦い、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国の雑賀攻めなどに参加しました。
天正10年(1582年)の信長死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍。
姫路城主の頃の秀吉に仕えていた天正6年(1578年)の約1000石からはじまり、着々と知行を増やし、文禄4年(1595年)には讃岐国で17万1,800石を与えられました。

これより以前に、親正は讃岐の前国主の十河存保(そごうまさやす)の子の千松丸を預かって養育し、天正15年に親正が秀吉の前に千松丸を連れて参上した際、「存保ほどのものの子にわずか3千石か」との秀吉の発言により、じきに元の2万石復活かと遺臣らは取沙汰していましたが、千松丸は15歳で元服を迎える年に病死しました。
そのため生駒氏による毒殺ではないかと噂され、一説には、生駒氏に敵対するものが生駒を陥れるために行った謀略との説もありますが、その後も親正は十河氏復活の芽を摘むため三好氏に連なる者を徹底的に弾圧しました。

生駒親正と一正はどんな武功を立てた?

親正は秀吉の晩年には三中老(他に中村一氏や堀尾吉晴)に任じられて豊臣政権に参与しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、子の一正(かずまさ)は東軍に与し、親正は在国していていましたが西軍に与して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣しました。
理由として西軍決起時に大阪にいたため西軍に付かざるを得なかった、どちらが敗れても生駒氏が存続できるよう画策した、などの説があります。
戦後に剃髪し高野山に入山。
西軍に与した責任を取るためとされてきましたが、高野山入りは関ヶ原で戦闘が行われる以前であり、東軍寄りの行動の責任を問われたためとする説もあります。
その後、一正が東軍に与した事を買われて生駒氏の所領は安堵され、ほどなくして讃岐に戻り、慶長8年(1603年)に高松城にて死去しました。

跡を継いだ長男の一正は信長の時に紀伊雑賀攻めで活躍し、秀吉の時に朝鮮出兵の蔚山城の戦いで活躍、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父・親正の代わりに会津の上杉攻めに出兵し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げました。

慶長15年(1610年)に死去し法泉寺に葬られ、家督は長男の正俊が継ぎ、大阪の陣では友軍として活躍しましたが、元和7年(1621年)に死去。
家督は長男の高俊が襲封しましたが、幼少のため外祖父の藤堂高虎の後見を受けることになりました。

生駒騒動の勃発

生駒騒動はどのようにして起こったのか?

生駒騒動はどのようにして起こったのか?

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高俊は寛永3年(1626年)、従四位下壱岐守(いきのかみ)に叙任され、さらに幕府の老中首席土井利勝の娘と婚約しました(寛永10年(1633年)に輿入れ)。
高俊の外祖父藤堂高虎は生駒家一門の家老の生駒将監(しょうげん)・帯刀(たてわき)父子の力を抑えるため、生駒家で家臣になって日が浅い前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせました。

寛永7年(1630年)、高虎が死去して藤堂家は息子の高次(たかつぐ)が継ぎ、生駒家の後見役も引き継ぐことになりました。
前野と石崎は高次の意向を背景に好きな様に藩の政治を行い、寛永10年に将監が死ぬと藩政を牛耳るようになりました。
高俊は無責任で賢くもなく怠惰な人物であり、藩政を二人に任せきりにして、自身はもっぱら男色を極度に愛好し、美少年を集めて舞わせる遊びにふけりました。
世人はこれを「生駒おどり」と呼びからかい、正室が父の利勝に高俊の怠惰な行動を訴え、利勝は立腹して厳しくいさめさせましたが高俊の乱行は一向に収まりませんでした。
増長した前野と石崎はしばしばわがままな行いをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと度々対立して家中は乱れました。

前野・石崎と生駒家譜代家臣の衝突

寛永12年(1635年)、生駒家は幕府より江戸城の修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をして行い、前野と石崎はこの返済のために高松城の南方の石清尾山(いわせおやま)の松林を木屋に伐採させました。
この山は親正が高松城を築いたときに要害になるため伐採を禁じた土地であり、家中の者たちは憤慨し、彼らは家老の生駒帯刀を説き立て、前野と石崎の非違を親類へ訴えることになりました。

寛永14年(1637年)7月、帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ向かい訴状を差し出し、訴状を受け取った高次は「これは大変なことだ」と思い、利勝と生駒家縁戚の脇坂安元(播磨龍野藩主)と相談し、帯刀を尋問し高次は穏便に済ますよう帯刀を説いて国許へ帰らせ、次いで前野と石崎を藩邸に呼び出して尋問の上で厳しくいましめ、以後は慎重に政治を行うよう誓わせました。

しかし、家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになり、寛永15年(1638年)10月、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出ました。
国許にあった高次は帯刀を高次の伊勢津藩に呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると警告して帰しました。
寛永16年(1639年)4月、参勤交代で江戸に出た高次は安元と利勝(前年に大老に就任)と相談、このままでは訴訟ばかり起こり結果として生駒家はお取り潰しになると考え、事を収めるため喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになりました。

生駒騒動が終わり、両者はどの様に成敗され、生駒家はどうなった?

生駒騒動に藩主高次はどう関わり、その結果争った両者はどうなった?

5月、藩主高俊が参勤交代で江戸に来て前野と石崎も着いてきていて、高次は前野、石崎及び国許から帯刀を藤堂家の藩邸に呼び出して説得し、彼らは生駒家のために切腹することを承知し、高次は帯刀を藤堂家の領地の伊賀へ行かせました。

8月、高次は使者に兵をつけて讃岐に派遣し、江戸での決定を生駒の家中の者たちに伝えました。
これに帯刀派の家臣たちが不満を持ち騒ぎ始め、12月、彼らは江戸にいる藩主の高俊に帯刀ら忠義の者の命を救うよう訴えかけました。
これまで全く事情を知らされていなかった高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒り、寛永17年(1640年)1月、高俊は藤堂藩の藩邸に行き高次に抗議しました。
高次は説諭しましたが高俊は納得せず、怒った高次はならば勝手にせよと匙(さじ)を投げ、生駒家の家政を後見することから手を引くことにし、藤堂の兵も讃岐から立ち去りました。

帯刀は帰国。
帯刀派は歓喜しましたが、江戸で切腹する覚悟でいた前野と石崎は衝撃を受け、切腹をやめ、事の始末を幕府に訴えることにしました。
4月、前野・石崎派は老中稲葉正勝に訴状を提出し同時に国許に使者を送り、同志の者たちに家族を連れて讃岐を立退くよう指図しました。
讃岐では、前野・石崎派の侍8人、家族や家来を含めて2300人が鉄砲や刀槍で武装して国許を立退く大騒ぎになり、江戸でも一味の者たちが藩邸を立退きました。

生駒騒動の結末は高松藩にどんな影響を与えた?

幕府は両派の者たちを江戸城に呼び出して審議することにし、この間に一方の首領である前野助左衛門が病死しました。
7月に前野・石崎派と帯刀派が対決し、帯刀は前野・石崎が好き放題な政治をしたことを申し立て、更に彼らが武装して讃岐を立退いたことを訴えました。
3回の対審の後に幕府の裁定が決し、帯刀派に対して帯刀は主人に対して忠義の心があるとして出雲松江藩にお預けとなり、その他の者も他の諸大名家へお預けとなりました。
前野・石崎派へは石崎、前野冶太夫(助左衛門の子)ら4人が切腹、彼らの子供も男子は死罪、また主だった者たち数人も死罪となりました。
専横な行いをしたとはいえ、厳しい処分ですね。

同時に幕府は藩主高俊に対しても家中不取締りを理由に城地を没収し、出羽へ流罪とし堪忍料として矢島1万石を与えました。
その後高松藩は天領となり、水戸徳川家出身の松平頼重(よりしげ)が常陸下館藩(ひたちしもだて)から12万石で転封されました。

これも厳しい処分ですね。
この頃幕府は大名が何か問題を起こすと改易にして領地を没収したりしたので、家臣の仲が悪くなるのは仕方ないとはいえ、幕府にとって都合の良い結果になったのでしょうか。
さて、生駒騒動が終わり、この後藩主になった松平氏はどんな統治を行ったのでしょうか?

松平頼重はどんな人?高松に何を残した?

次のページでは『松平頼重とはどんな人?』を掲載!
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