日本最大級の特別名勝!四国が誇る天下の名園「栗林公園」にはこんな歴史があった

日本にある約36件もの特別名勝の中で、一番大きな規模を誇るのが、香川県にある栗林公園です。その規模はナント!東京ドーム16個分にも及んでいます。ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンに三つ星にも3つ星で掲載されている、栗林公園の歴史ってどんなものか気になりませんか?規模だけではなく大きな池の周りを囲む美しい景色を望みながらの庭園散策は、一生に一度はしてみたいものですね。今回は、紫雲山を背景に日本が誇る美しい名園「栗林公園」の歴史を紐解いてみたいと思います。






400年の歴史が息づく栗林公園ってどんなところ?

400年の歴史が息づく栗林公園ってどんなところ?

image by PIXTA / 23726833

16世紀後半に、豪族の佐藤氏によって築庭された小さな庭が発祥です。
その後、高松藩主松平家の歴代藩主によって、228年間も修築が繰り返されました。
園内では、6つの池と13の築山、1000本もの美しい手入れ松があり、自然美と造形美がうまく調和した回遊式大名名園となっています。

園内をゆっくり見て回るなら、少なくとも2時間は必要です。
江戸時代初期に建てられた、掬月亭で絶景を望みながら、ゆっくり抹茶をいただくのも栗林公園の醍醐味かも。
敷地内には、商工奨励館や讃岐民芸館などもあり、庭園だけでなく、香川の伝統的工芸品や民芸品、香川の建築や生活ぶりを垣間見ることもできます。

栗林公園のはじまりってどんなもの?

栗林公園のはじまりってどんなもの?

image by PIXTA / 28041748

元々は、この地が香東川の東の流れ(現在はない)があり、高松の中心部に向かって流れていました。
この川は、頻繁に氾濫を起こしており、ここに住む人々の頭の痛い問題でした。
生駒高俊が藩主の時に仕えた、西嶋八兵衛により寛永8(1631)年に、氾濫して流れをせき止めたことにより、自然に大きな水たまりや伏流水ができました。

先ほども少し触れましたが、その後に栗林公園は室町時代に生駒家に仕えていた、佐藤志摩介道益氏によって造られた小さなお庭がはじまりです。
佐藤氏は自分の隠居所として、西南地区(現材の小普陀付近)に造っています。
この小さなお庭の時には、既に、大茶屋といわれていた、後の掬月亭の姿も見られており、栗林公園の基礎がすでに出来上がっていました。

栗林荘となった小さなお庭

栗林荘となった小さなお庭

image by PIXTA / 13098250

この小さなお庭は、1625年ごろに、讃岐国国主生駒高俊氏によって、南湖一帯が造営されたようです。
生駒家が、生駒騒動によって、改易処分を受け讃岐を去ることになりました。
佐藤氏の隠居所だったお庭は、寛永19(1642)年に讃岐を治めた、高松藩主松平家の別邸となりました。
徳川家康の孫の一人、松平頼重から5代目の松平頼恭まで、100年以上かけて造営を行いました。

頼重は、高松城に入った時に、讃岐国高松12万石が与えられました。
それと共に将軍から、西国と中国の目付も命じられています。
もちろん、将軍家の親族大名だったので、それなりの役が必要となり、西日本の守りを託されました。
栗林公園は、延享2(1745)年に栗林荘と名付けられ、高松藩の別邸として使われたようです。

初代藩主頼重の隠居所となった栗林荘

初代藩主頼重の隠居所となった栗林荘

image by PIXTA / 26568493

頼重の弟の徳川光圀の子「頼常」に政務を代替わりして、隠居の身となった頼重は、自分の隠居場として栗林荘を選びました。
当時はここまでではないとはいえ、現在のように癒し感たっぷりの美しい場所だったんでしょうね。
当時の栗林荘に行ってみたいような、郷愁に駆られます。

でも、そのままの状態で隠居所としたのではなく、庭園としての整備をはじめています。
この時の築庭では、庭園の範囲が広がり、飢饉対策にも使えるよう整備されました。







隠居所から在国の際の居所となった栗林荘

隠居所から在国の際の居所となった栗林荘

image by PIXTA / 26268971

三代頼豊は、栗林荘をこよなく愛する殿様でした。
参勤交代で香川に帰った時に頼豊は、高松城ではなく、この栗林荘を居城としています。

また、5代の頼恭も、作庭を進めた人物で、1745年には、藩の儒学者に命じて園内の名勝に中国に因んだ名前を付けさせました。
彼の時代は、火災や凶作続きで国の財政が悪化していたことにより、質素倹約を実行しており庭についてはあまり手を付けていないようです。

栗林荘から栗林公園へ

栗林荘から栗林公園へ

image by PIXTA / 6393781

明治になると廃藩置県によって、栗林公園は政府の管理下に置かれることとなりました。
明治4(1875)年に県立公園となりました。
明治8(1875)年3月16日には、県立公園となり一般公開され、この時に名前も栗林荘から栗林公園に変更されています。
昭和28(1953)年には、名勝の中でも特に価値が高い「特別名勝」に指定されました。

冒頭でお話しした通り、栗林公園内には、1000本の手入れ松があるといいましたが、栗の木があるとは一言も言っていません。
どうして、栗と林という文字が入ったかというと、北門付近にかつてクリの林があったからです。
このクリの林は、公園になってすぐ伐採されました。
他の説には、山里だったこの地には、色々な種類の木が生い茂っており、中国では木がたくさん茂った山里のことを中国では「栗林」と読んでいるそうです。

また、理由の一つには、鴨猟の邪魔になったからという説もあります。
北庭辺りは、当時日本最大級の鴨猟の場となっていたのです。
ここで行われていた鴨猟は、鴨引き場(現在は再現の物)があり、かなり大掛かりなものでした。

栗林公園の明治以降の変遷

栗林公園の明治以降の変遷

image by PIXTA / 18234433

明治の前に、文政7(1824)年ごろに、家老職を務めていた芦沢元徴が残していた実測図の南側の庭園は、ほぼ現在の状態となっていました。
北庭には、槍御殿が見られたようです。
明治32(1899)年には、かつて、あった日暮亭が石州流で再築され、明治32年には、県の博物館として建てられています。
この博物館は、後の商工奨励館になります。

明治44年ごろからは、北庭の大改修が行われ、大正2年に完成しました。
この時に出来たものは、運動場や芝生広場、大規模な園路などがあり、現在の北側の姿になりました。
明治44年ごろは、日本全域で洋風思想の影響が強くなったことによりハイカラなカフェなどもできたようです。
明治36年には、皇太子殿下が、園内の松の中の1本を植えられました。

次のページでは『江戸時代の趣を感じる栗林公園』を掲載!
次のページを読む >>

Writer:

世界遺産ブームをきっかけに歴史に目覚めてから、国や城、庭園などの成り立ちに魅了された主婦です。何だろう?と思ったことを調べて、皆さんにお伝えすることで気持ちを共有できたら幸せだな~と感じながら仕事をしています。ちょっとマニアックな歴史記事ですが、軽い気持ちで触れてみてくださいね!

この記事のカテゴリ

四国
国内
東京
歴史
香川県

関連記事を見る

四国の記事を見る

四国の雄・長宗我部氏の転落劇の主人公・長宗我部盛親の数奇な人生!
姫若子?鬼若子?四国の偉人「長宗我部元親」の半生を辿る
【臥竜山荘の歴史】崖からせり出した不老庵と、苔むした緑豊かな庭園が見どころ
【大洲城観光の前に知りたい】肱川の名前の由来は悲しい話?「大洲城」の歴史
人生で最も印象的だった「中山虫送り」。小豆島・中山千枚田の年中行事は一見の価値あり
小豆島に来たら絶対行きたい! 2大スポット「オリーブ公園」「エンジェルロード」
山奥に咲く芝桜が絶景! 隠れた名所「高開の石積み」へ
「来島海峡大橋」を渡って 橋と瀬戸内の多島美が魅せる絶景の旅
一度は降りてみたい絶景の無人駅「下灘駅」で 美しさとおもてなしに触れるデトックス旅
自然と人の営みが育んだ愛媛県宇和島地区のシンボル 「遊子水荷浦の段畑」で味わう豊かな旅
3000年の歴史のある湯の街・道後温泉とお城めぐり
【高知県】家族連れにも楽しい「のいち動物公園」を楽しもう【18歳未満・高校生以下は入園料無料】