唯一江戸時代のままの姿を残した本丸?妻に支えられた「ぼろぼろ伊右衛門」が建てた高知城の歴史

高知城はどんな場所にあり、どんな建物があって、まるまる江戸時代のものが残っている本丸はどんなものでしょうか?さらに土佐を元々治めていた長宗我部氏とはどんな人で、どのように山内氏と入れ替わる様になったのか?またその山内氏土佐藩初代藩主の山内一豊とはどんな人物でどのように出世してきたか?また歴代の高知城の城主はどのように土佐を治め、また幕末に幕政や明治維新に大きく関わった山内豊信(容堂)とはどんな人だったのか?これらのことについて紹介していきたいと思います。ではまず、高知城がどんな場所にあるかということから見ていきましょう。

高知城はどんな城?

高知城はどこにある?どんな城?

高知城はどこにある?どんな城?

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高知城は新幹線の止まる岡山駅から特急南風で2時間40分の距離の高知市内にあり、高知駅からバスに乗ればとさでん交通「高知城前」下車し10分、路面電車に乗ればとさでん交通「はりまや橋」で乗換え(乗換え券を貰って乗り換えてください)後、「高知城前」下車し15分、徒歩だと約25分ですが、高知駅より南下直進し追手筋を西進(右折)すると判りやすい道。
ちなみに毎週日曜日には300年以上の歴史を持つ日曜市が開かれ、私も子供の頃行ったことがあるのですがかなり長くお店が連なっているので、見ていて楽しいです。

土佐24万石を襲封し、司馬遼太郎の小説「功名が辻」で有名な山内一豊によって創建されて以来、約400年余りの歴史を持ち「南海の名城」として名高い城。
なお山内一豊が入る以前「高知」という名がつくまでのこの地には長宗我部元親という戦国大名が出て四国を統一し、幕末には四賢公と呼ばれた山内容堂が高知を治め、城下からは坂本龍馬、武市半平太、板垣退助、後藤象二郎など幕末の動乱で活躍した人物を輩出しました。

天守は現存12天守の一つで国の重要文化材に指定されていて、天守をはじめ本丸を構成する建物のすべてが完存。
本丸が完存するのは全国でも唯一でその優雅な姿は高知市のシンボルになっています。
では、高知城の建物はどんなものがあるのでしょうか?またどんな歴史を持っているのでしょうか?見ていきましょう。

高知城にはどんな建物がある?

路面電車を高知城前で降りて桜山口から城内へ

路面電車を高知城前で降りて桜山口から城内へ

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まずは高知城の建物について説明していきましょう。
路面電車を高知城前の電停で降りたと仮定して、北上し左折、高知県庁の前にあり東西に伸びる堀沿いを西にずっと歩き、堀が切れたら北上し、桜山口から城内に入ります。

入ってすぐの左手にある桜山は御屋敷の庭園。
この庭園の中には「涼風亭」「和楽亭」「花園亭」などの東屋があり、桜山の東には蹴鞠場もつくられていました。

曲がりくねった道を通り四方に伸びる交差点を北西に寄り道すると搦手門と西の丸があり、搦手門は城の裏門で、「西ノ口門」「西大門」とも呼ばれています。

西の丸は江戸時代初期には、幕府よりの「御預人」である元豊前小倉城主毛利吉成(大坂の陣で活躍した毛利勝永)が住居。
吉成没後は、2代藩主・忠義の娘である喜与姫(陸奥三春城主・松下長綱の夫人)が住居したと言われていて、現在は武道館の別館である弓道場「弘徳館」があります。

そして先程の四方に伸びる交差点を戻り、今度は南東に伸びる道へ。
すぐに御台所屋敷跡がありますが、ここに実際に屋敷が存在したかは明らかでなく、明治以降「桃の段」とも呼ばれ、昭和25年から平成5年までは高知市立動物園が置かれました。
動物園移転の後、発掘調査が行われ、中近世の遺構群が確認されるとともに多くの出土品が発掘されています。

城の周り、東側にはどんな建物がある?

城の周り、東側にはどんな建物がある?

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次はまだ本丸の方へは行かず、その周りの建物を紹介します。
御台所屋敷跡の前の道を突き当たるまでまっすぐ進み、その奥側には太鼓丸。
藩政期には太鼓丸に鐘撞堂が置かれましたが、明治期に別の場所に移転。
その後に「宜休亭」「亡帰亭」の東屋が建設され、高知公園十一景の一つとして市民に親しまれました(現在は存在しません)。

太鼓丸から一番外側の道を北に進むと杉の段。
「井戸ノ段」とも呼ばれ、将軍家より下賜された「御鷹之鶴」を、藩主自らこの井戸段に出向き迎えたといい、また、藩主のお国入りや出駕の際にはここに一族が出迎えや見送りに出向いたそう。
「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物がありました。

杉の段から階段を下に降りると板垣退助像。
自由民権運動の父とされ、特に明治時代の一大流行語となった名言である「板垣死すとも自由は死せず」は有名ですね。
この銅像は昭和31年(1956年)5月11日に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。
像の高さは2.20m、台座4.205m、全高6.405mあります。

その東側には追手門があり、高知城の表門で石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、堂々としていて城の大手(正面)にふさわしい構え。
門前は枡形状になっていて、門と矢狭間塀(やはざまべい)で囲まれ、三方向から攻撃できるようになっています。

さらに県立図書館の横には初代藩主である山内一豊の像があり、平成8年(1996年)9月20日、一豊の祥月命日に再建除幕されたもの。
本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32メートル、重さ3.6トン、台座5.08メートル、総高9.4メートルで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスといわれています。

また高知県庁内には下屋敷があったとされ、隠居や世継ぎなどの藩主一族が住居する御殿があり、明治期には県民のための講演・会合場所である高知県公会堂が置かれました。

八幡宮を通り二の丸へ

そして道を戻って御台所屋敷跡の手前の交差点まで行き、北上すると八幡宮と獅子の段があります。
八幡宮は山内氏の高知城築城以前から大高坂山に鎮座していたといい、城内八幡宮と呼ばれ、諏訪大明神・厳島明神とともに「城内三社」と称されました。
藩主一族が詣でるほか、城下に住む町民の氏神でもあったため、毎年9月1日から10日までの祭礼の際に限って庶民の参拝が許されていました。
神社境内には、尾戸焼(おどやき)の創始者である久野正伯(くのしょうはく)によって作られた陶器製の狛犬が置かれていたといいます。
明治4年、山田町(現高知市はりまや町)へ遷座、現在は高知八幡宮と称し、このほか城内には春日大明神や熊野権現、祇園牛頭天王宮など様々な神が祀られていて、現在この場所には城内三社をしのばせる小祠が残っています。

獅子の段は江戸時代には「鹿ノ段」とも書かれ、射場と馬場があったとされ、「西南櫓」「西櫓」「乾櫓」の3つの櫓で厳重な警護がなされ、明治7(1874)年、高知城公園の開園記念として梅林となり、現在は「梅ノ段」と呼ばれています。

そして二の丸に入り、ここには藩主の居住空間である二ノ丸御殿があり、北東にある家具櫓や数奇屋櫓はその名の通り調度や道具類を収納。
西の隅には、その高さから「さながら小天守のようであった」といわれていた三階建ての乾櫓があります。

本丸への入り口である櫓門が詰門で、藩政の時代は「橋廊下」と呼ばれ、門内に侵入した敵が容易に通り抜けることができない様に、入口と出口の扉の位置を「筋違い」に設置。
一階は籠城の時のための塩を貯蔵するための塩蔵で、二階は家老や中老などの詰所で、現在の呼称はここからきているものです。

三の丸にはどんな建物がある?

本丸への入り口である詰門を紹介しましたが、ここで三の丸へ、またしても寄り道しようと思います。

三の丸と本丸をつなぐ位置には鉄門があったとされ、門扉に鉄板を多数打ち付けてあったことからこう呼ばれ、三ノ丸の入り口付近での防衛上、非常に重要な位置。
石垣が門を囲んでおり「打込みハギ」と呼ばれる手法で堅固な石垣が築かれ、門内は小枡形で石垣の上から攻撃できるようになっています。

三の丸にはかつて三ノ丸御殿が建っており、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などから構成。
創建当時、室内は障壁画で絢爛豪華に装飾されていたそうです。

三の丸の北西隅には丑寅櫓があり、二階建てで唐破風や廻縁高欄が付けられ、天守と同形式のもので、城内8つの櫓の中では特異な外観をしていたといいます。

長宗我部時代の石垣も残っており、高知城のある大高坂山は古くから軍事拠点として利用されていて、四国の覇者となった長宗我部元親は、岡豊城から、天正16年(1588年)大高坂山に移り築城しましたが、水害などで城下町の形成が充分にできず地盤も弱いため、天正19年(1591年)に土佐湾に面した浦戸城に移転したといいます。

この石垣は、平成12年8月から実施された石垣背後の発掘調査(三ノ丸石垣の改修工事のための事前調査)により確認され、その盛土から長宗我部元親が築城した際に構築したと考えられています。
また盛土の中から、豊臣家より拝領したとされる桐紋瓦も出土。
これは、瓦葺きの建物があったことを示すとともに豊臣家との結びつきを示す資料となります。

また高知は雨の多い土地柄で、高知城には排水のために様々な工夫が施され、石樋(いしどい)の水路遺構は三ノ丸の雨水を集めて、2か所の石樋より排水、石垣内部に泥水が入って、目詰まりしてゆるみが生じることを防ぐために設けられたものと考えられ、水路は側板、蓋石で構成、主に砂岩が使用され、底部は三和土(タタキ)で塗りこめられています。

蓋石を外せば清掃が容易となる構造で、土砂の流入を防ぎつつ維持管理を可能なものに。
大雨が降った際には、石樋の先端より水が放出され、石樋部の底石には、側板を立てるための加工が施されています。

すべての建物が現存するという高知城の本丸はどんなもの?

本丸にはどんな建物が残っている?

本丸にはどんな建物が残っている?

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鉄門跡に戻り、いよいよ本丸へ。
北側から時計回りをする様にぐるっと回ると矢狭間塀があり、鉄砲が丸や三角、矢が長方形で攻撃する構造。

最初にも書きましたが、天守をはじめ本丸を構成するすべての建築物が完存ししていて、これは全国でも唯一。
なかでも本丸御殿は貴重で、前庭・式台・書院・上段・廊下・茶処(ちゃどころ)までも揃っています。

本丸塁上には天守のほか西多聞櫓、東多聞櫓、塀がめぐり、二の丸側に廊下橋門、獅子の段側に黒門が構えられ、西多聞櫓は本丸警護の番所が置かれていたそうで、空堀を隔てて二の丸側からが良い眺め。
本丸にそびえる石垣の天端石(てんばいし)より張り出して土台が組まれ、その上に櫓が建てれているため、出張る床下は「石落」(いしおとし)となって、よじ登ってくる敵を攻撃できるのです。

廊下橋門は二の丸御殿と直結して多聞櫓に至り、本丸と二の丸の空堀をまたぎ、下方は詰め門となり、廊下橋を往来する者を外部から見えなくする目隠しの橋と門。

南に開く黒鉄門(くろがねもん)は中世の城郭を彷彿とさせるつくりで、木材の表面には柿渋が塗られています。

他にも納戸蔵や東多聞などの建造物が残り、東多聞には武器庫、本丸の南に黒鉄門があり、藩主が儀式の際に出入りする門でした。
いずれも国の重要文化財に指定されています。

そしていよいよ天守へ。
外観4重(内部3層6階)で高さ18.6mの望楼型天守で、最上階には廻縁高欄(まわりえんこうらん)が付けられていて、「咸臨閣」(かんりんかく)という別称を持ち国の重要文化財に指定されています。

高知城の天守はどんなもの?

天守は初め一つの軍事的建築物でしたが、城郭の発展に伴い大規模になり、領主の権威の象徴となる城の中心的な建築物へ発展。
小さな望楼を大きな櫓の上に載せた形式から発生したとされ、初期の天守はほぼ望楼型天守。
大きな入母屋造(いりもやづくり)の屋根の上に、回り縁がある望楼を載せた形式のもので、犬山城や丸岡城の天守がその典型。

その後天守は、上層にいくにつれて各階の面積が減る層塔型天守へと発展しますが、入母屋造りの破風はこの形式の天守にはなく、屋根は寄棟造り(よせむねづくり)が原則の簡単なものになり、津山城天守、大坂城天守がその例。

高知城の天守は望楼型天守の典型で、外観は4重、内部は3層6階建ての建物。
入母屋造りの屋根の上に望楼を載せている形です。

天守最上階には、初代藩主一豊が、前の居城の遠州掛川城を模して造ったといわれる廻縁高欄が付けられていますが、この形式は当時の四国では高知城のみに見られる極めて珍しいもの。
構成上から見ると、高知城天守は独立式天守と呼ばれ単独で建つもので小天守や付櫓を伴いません。

一階の壁面下にも特徴があり、石垣のすぐ上の壁面に鉄串状の鉄剣がびっしりと並び「忍び返し」と呼ぶもので、大高坂山の斜面に積まれた高石垣をよじ登ってくる敵兵や忍者を拒む装置。
これは熊本城や名古屋城の天守にも見られます。

「御城築記」によると、慶長8(1603)年に高知城天守は完成したと思われ、享保12(1727)年、大火で焼失し、現存の天守は寛延2(1749)年に再建されたもの。
昭和の解体修理工事の際の調査から、創建当時の姿て、高知城天守は現存12天守の一つとして初期の古い様式を今に伝えており、現在国の重要文化財に指定されています。

また高知城の天守や門の屋根にも鯱(しゃちほこ)があり、鯱というのは頭は龍のようで背中に鋭いトゲを有する想像の魚。
海に棲むので防火の効があるという考え方で、城郭建築に多く用いられています。
高知城では追手門の鯱は瓦ですが、天守の上重、下重の計4個の鯱は青銅製でいずれも形が整って美しく、この鯱は、宝暦7年(1757)と寛政4年(1792)いずれも7月26日に大暴風雨で墜落し、寛政4年のときは、鉄門を登ったところの左手にあった横目(役人)の控所の屋根を貫いたそうです。

長宗我部氏はどのように力をつけてきた?

長宗我部氏が土佐を支配し始めたのはどこから?

長宗我部氏が土佐を支配し始めたのはどこから?

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次は高知城の歴史について。
まず高知城と直接の関係はありませんが、山内氏の前に土佐を支配していた長宗我部氏について説明しようと思います。
関ヶ原の戦いの後、長宗我部氏が改易されて山内氏が入ってきたことにより、長宗我部氏の旧臣が下士(郷士)となり、土佐藩の上士と下士との厳しい差別が生まれ、下士が上士を憎み溜まったエネルギーが、幕末に坂本竜馬や武市半平太の様な勤皇の志士を生み出し倒幕に至った原動力となったからです。

長宗我部氏の出自は渡来人の秦氏(はたうじ)を祖先とする説が通説で、その他には蘇我氏の子孫とする説も。
平安時代末から鎌倉時代初期の間に入国したものと考えられ、近隣に宗我部氏を名乗る一族があったため、定住した長岡郡の一字をとって「長宗我部」とし、香美郡に住んだ宗我部氏は「香宗我部」(こうそかべ)と名乗るようにし、互いに両者を区別したと言われています。
当時の土佐国は高知平野(現 高知市中心部)が未開拓地であったため、長宗我部氏は長岡郡岡豊(おこう、現 南国市岡豊町)の地を拠点としました。

南北朝時代、11代信能(のぶよし)は足利氏方に属し、土佐国守護の細川顕氏(ほそかわあきうじ)の下で長岡郡八幡山東坂本において南朝勢力と戦った功で、計1134町(後世の天正期検地の石高によるもので、1町はおよそ10石)の土地を、香美郡吉原庄(現 香南市吉川町西部)の他長岡郡・香美郡・土佐郡の各地に与えられました。

土佐七雄で最も弱い存在だった長宗我部氏と、それを復興させた国親

12代兼能(かねよし)は、貞和元年(1345年)細川氏により吸江庵(現 吸江寺)寺奉行に任じられ、吸江庵は文保2年(1318年)に夢窓疎石(むそうそせき)によって創建された当時の名刹。
14代能重(よししげ)の代には、至徳3年(1386年)頃、吉原庄全域を支配下に。

戦国時代に入り、16代文兼(ふみかね)の代では、応仁の乱の戦乱を逃れ一条教房(のりふさ、土佐一条氏 初代)が土佐に下向。
文兼は文明3年(1471年)、長子元門(もとかど)を追放、それが原因で吸江庵寺奉行を解任、幾つかの領地も支配下から離れています。
元門はこの時久武氏と中内氏を連れ武者修行に出て、伊勢国の桑名で桑名氏を家臣に加え、これら3氏は、のちに長宗我部氏の三家老として数えられ、文兼・元門の争乱は、元門の弟・雄親(かつちか)が家督を継ぐことで決着しました。

応仁の乱以後、全国的な争乱が始まり、大きな権力を中央で持っていた本家の細川政元が暗殺されたことにより、土佐守護代の細川氏を含め各地の細川氏一族は京都に上ります。
これにより土佐も守護による領国支配が終わり戦国時代を迎え、この時期の土佐国は一条氏の下に、土佐七雄と呼ばれ、長宗我部氏を含めた七組の国人が割拠。
力のある順に本山、吉良、安芸、津野、香宗我部、大平、長宗我部となります。

最も弱い勢力だった長宗我部氏は、19代兼序(かねつぐ、元秀)の時、岡豊城を追われ一時滅亡しますが、兼序の遺児千雄丸は土佐一条氏のいる中村に落ち延びて保護され、一条房家(ふさいえ)の下で元服して長宗我部国親(くにちか)を名乗りました。
そして房家の配慮で永正15年(1518年)年岡豊城に帰還し長宗我部氏を復興。
国親は本山氏と表向きは手を結び、その上で吉田氏と婚姻関係を結んで地位の安定を図ると共に、近在の周辺豪族を滅ぼし勢力を拡張。
永禄3年(1560年)長浜の戦いにて本山氏に反旗を翻し敗走させましたが、同年病死しました。

四国全土をほぼ統一した元親

四国全土をほぼ統一した元親

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国親の跡を継いだ21代元親の時代が長宗我部氏の最盛期。
元親は永禄5年(1562年)本山氏を滅ぼし、同6年(1563年)には弟・親貞(ちかさだ)を吉良氏に入れ併合。
同12年(1569年)には安芸氏を滅ぼしています。
安芸氏の打倒後、同盟関係にあった香宗我部氏には、弟・親泰(ちかやす)が入嗣(養子になって後継ぎになること)、また元亀2年(1571年)津野氏に3男の親忠が養子として入り、どちらも併合。
こうして元親は他の六雄(大平氏は一条氏により滅亡)を支配し、土佐一条氏の内乱で追放された当主兼定(かねさだ)に代わって天正2年(1574年)に兼定の子・内政(ただまさ)を大津城に入れ「大津御所」として傀儡(かいらい、操り人形として思い通りに動かされること)化。
同3年(1575年)に侵攻してきた兼定を四万十川で破り(四万十川の戦い)、一条氏の残存勢力を滅ぼして土佐国を完全に平定しました。

その後、元親はさらに白地城(四国のどこにでも出られる交通の要衝)を拠点として伊予国や阿波国、讃岐国へも積極的に進出し、河野氏や三好氏を倒し、天正13年(1585年)四国をほぼ統一したとされています。
しかし、同年の羽柴秀吉の四国征伐に敗北し、土佐一国に減封され、その後は秀吉に従って、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦。
従軍した九州征伐では、天正14年(1587年)の戸次川(とつぎがわ)の戦いで元親の嫡男、長宗我部信親(のぶちか)が戦死(司馬遼太郎の「夏草の賦」ではここで話が終わるのですが、愚かな戦目付けのために嫡男が死んでいまうという、いわゆるバッドエンドな後味の悪いものでしたね)。

その後の元親は世継ぎをめぐっての争いで甥の吉良親実(ちかざね)を殺し、四男の長宗我部盛親に信親の娘をめとらせ、世継ぎとしました。
このとき次男の香川親和(ちかかず)は憤死(病死、断食の後の死、元親による毒殺とも)、のちに三男の津野親忠も幽閉のあと殺害。
これは単なる後継ぎを巡る騒動ではなく、土佐統一過程で長宗我部氏に臣従し重職を占めた国人一族は多くの所領を有しており、集権化にあたって障害となり、親泰の死に伴い粛清されたとも考えられていて、この後は元親死去まで元親と盛親の二頭政治が行われています。

元親から盛親へ、長宗我部氏の滅亡

天正15年(1587年)、元親が九州征伐従軍から帰国後、大高坂山(現在高知城のある山)に城を築き、岡豊城から移りましたが、天正19年(1591年)に元親は水はけの悪さを理由にわずか3年で大高坂山城を捨て、浦戸に浦戸城を築きました(浦戸城は朝鮮出兵のための一時的な拠点に過ぎず、引き続き大高坂山城の整備も行われていたとする説も)慶長2年(1597年)には、元親・盛親父子から分国法としての『長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条)』が制定されました。

慶長4年(1599年)に元親が死去し、長宗我部盛親が第22代当主に。
翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は当初東軍につこうとしましたが、関所で家康への密使を留め置かれ、西軍に与することになります。
本戦では実際の戦闘に参加しないまま西軍は敗れ、戦後に津野親忠の殺害を咎められ、所領を没収され改易となります。
なお、盛親が家督を継承した際の経緯などが問題視されたためか、盛親が長宗我部氏家督と土佐支配を継承することを、豊臣政権は元親の死後も正式には承認しないまま、関ヶ原の戦いを迎えたとする説も。
盛親は、慶長19年(1614年)~同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣方に与しましたが、豊臣方が敗れ、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えますが、残りの血縁の者は肥後藩や仙台藩によって保護されました。

土佐藩初代藩主の山内一豊とはどんな人?


山内一豊はどんな経歴で出世してきた?

山内一豊はどんな経歴で出世してきた?

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この後、長宗我部盛親の代わりに土佐藩初代藩主となる山内一豊が土佐に入り、長宗我部旧臣の激しい抵抗が待っているのですが、ここでさかのぼって山内一豊という人について見ていきましょう。
この人は織田信長の配下の足軽という立場から遠州掛川城主となり、さらには土佐24万石の大名となる面白い経歴の持ち主なのです。

一豊は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の三男として尾張国に生まれ、通称は伊右衛門(「功名が辻」では「ぼろぼろ伊右衛門」などと呼ばれていましたね)。
当時山内家は織田信安を当主とする岩倉織田氏の配下で、父の盛豊は家老。
やがて岩倉織田氏は同族である織田信長と対立し、弘治3年(1557年)に兄の十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)、岩倉城落城の際、父の盛豊は討死(もしくは自刃?)。
主家と当主を失い山内の一族は離散し、諸国を流浪。

一豊は浅井新八郎や前野長康、山岡景隆に仕え、景隆が織田信長に逆い出奔(主君から逃げて浪人になること)したことから、永禄11年(1568年)頃から信長の配下に入り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の下で家人となったのです。

元亀元年(1570年)9月、姉川の戦いで初陣し、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂(とねざか)の戦いでは頬に矢が刺さる重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取り、この戦闘の際、一豊の矢を抜いた郎党・五藤為浄の子孫がこの矢を家宝とし、現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵。
これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられました。
なお、「山内一豊の妻」こと見性院(「千代」や「まつ」とも。
良妻賢母の手本とされ、一豊の出世はこの妻がいたからとも)との結婚は、元亀年間から天正元年(1573年)の間であったと見られています。

一豊はどんな功を積んで大名になった?

天正5年(1577年)には、播磨国有年(うね、兵庫県赤穂市内)など2,000石を領し、その後も秀吉の中国地方攻めに加わり、播磨の三木合戦や因幡の鳥取城包囲・備中高松城水攻めなどに参加。
天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻が蓄えた黄金で良馬を買い、夫に武士の面目を立てさせたという美談も。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨戦の伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげ、また翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉の命で、家康を包囲するための付城構築の作業に当たっています。

四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共にその宿老の1人として付けられ、天正13年(1585年)には若狭国の高浜城主に、まもなく秀次が近江八幡へ転封すると、一豊も近江へと移り、長浜城主となり2万石を領しました。
天正18年(1590年)の小田原征伐へも参戦、秀次に従って山中城攻めにも参加し、織田信雄が改易されたことにより再び秀次が尾張・伊勢で加増されると、一豊ら宿老衆も転封し、遠江国掛川に5万1,000石の所領を与えられました。
この頃より大名として行動し、掛川では城を修築し城下町づくりを行い、更に川向いの駿府を領する中村一氏とともに、洪水の多かった大井川の堤防を建設し、流路を変更。
朝鮮の役では、秀次配下の他の諸大名と同じく出兵を免れましたが、軍船の建造と伏見城の普請などで人夫を供出。

文禄4年(1595年)に秀次が謀反の疑いで処刑され、秀次の宿老であった前野長康と渡瀬繁詮(しげあきら)はこの事件の責任を負わされて、繁詮は秀次を弁護しましたが切腹を命じられ、長康は中村一氏に預けられて蟄居後、賜死とされました。
しかし一豊と田中・中村・堀尾など配下の大名衆は、秀吉の命令を遂行し、秀次らを取り調べる立場となったため、秀次の処断の後で逆に遺領から8,000石を加増されています。

一豊は関ヶ原でどんな手柄を立てて土佐の国を得た?

一豊は関ヶ原でどんな手柄を立てて土佐の国を得た?

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秀吉の死後、慶長5年(1600年)、五大老の筆頭である徳川家康に従い会津の上杉景勝の討伐に参加。
家康が関東にいる間、五奉行の石田三成らが大坂で挙兵すると、一豊は下野国小山での軍議(小山評定)で諸将が東軍に付くか西軍へ付くか迷う中、真っ先に自分の居城の掛川城を家康に提供すると発言し、その歓心を買われて東軍に組しました。
この居城提供案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案しましたが、堀尾が油断してうっかり洩らしたものを聞き、一豊が自分の案として家康に申し出、感謝を受けたと言われています。
少しずるい印象も受けますね。

また大坂にいる妻からの密書で石田三成が挙兵したという知らせを受けた話も有名で、これらは話の信憑性には疑問があるものの、同じ東海道筋の大名の中村一氏が死の床にあり、堀尾忠氏の父の吉晴も、刺客に襲われ重傷を負い、様々な戦場をくぐり抜け、のし上がってきた世代が動けなくなっていたため、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていました。
三河国吉田城主の池田輝政などもこの時期に一豊とたびたび接触しており、豊臣恩顧の家臣衆の取り纏め役を果たしていたと考えられています。

関ヶ原の戦いの前哨戦の河田島村と米野村での戦いで、一豊は池田輝政や浅野幸長(よしなが)らと共に、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を破りました。
本戦で一豊と池田・浅野らは、南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などを押さえる役割を担当、東軍に内応を約束していた毛利軍の先鋒、吉川広家隊が南宮山に蓋をしていたため(先鋒が動かなかったため、後ろの本体も身動きが取れなかった)にさしたる戦闘もなく、輝政隊を残し主戦場へ移動。

戦後に、小山会議で右顧左眄(うこさべん、情勢をうかがってばかりで決断しないこと)していた諸侯を、一挙に徳川に加担させた発言が功績として高く評価され、土佐国一国、9万8,000石が与えられ、後に高直しにより20万2,600石を幕府から認められています。

一領具足に手こずり、鰹のタタキが生まれた

旧長宗我部の家臣には、平時には田畑を耕し、領主から動員の呼び出しがかかると、一領(1セットの)の具足(武器や鎧)を携えて駆けつけるという半農半兵の「一領具足」と言われる兵士がいます。

慶長6年(1601年)、一豊は掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城。
大幅な加増があり、よそから来た大名は人手も足りなくなるので、地元の元家臣を大量に雇用するのが常でしたが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の家臣団は新領主に反発し、土佐国内でたくさんの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こしました。
これに対し一豊は、新規の家臣は上方で募集するなど、重要なポストを主に外来の家臣で固めましたが、有益な長宗我部旧臣は懐柔して登用しました。
当時の土佐領内はまだ不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城築城の際、一豊と同装束の六人衆を影武者として、共に現地を視察したと言われています。

一豊は高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町を整備。
領民の食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わり、それに対し領民が鰹の表面だけをあぶり、「刺身ではない」と言って食すようになり、これが鰹のタタキの起源だとされています。
慶長10年(1605年)、高知城にて病死。
享年60。
前述の通り、高知城には一豊の像が建てられています。

なお、一豊の妻・見性院(千代、まつ)は「内助の功」で夫を助けた賢妻とされ、前述の通り嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説も)で名馬(鏡栗毛)を買い、この逸話は特に第二次世界大戦以前の日本で教科書に採り上げられ、「女性のあるべき姿」として学校教育に用いられました。
真偽の程は定かではありませんが、千代紙の由来になった人物だそうですね。
なお見性院は子宝に恵まれませんでしたが、一豊は側室を作ろうとはしなかったそうです。

二代目以降の土佐藩主はどんな人?

野中兼山に左右された忠義・忠豊の政治

野中兼山に左右された忠義・忠豊の政治

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山内忠義は文禄元年(1592年)、山内康豊(一豊のの弟)の長男として遠江国掛川城に生まれ、慶長8年(1603年)に伯父である一豊の養嗣子となり、同10年(1605年)に家督相続しましたが、年少のため実父康豊の補佐を受けました。

この頃に居城の名を高知城と改め、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦。
なお、この時預かり人の毛利勝永が忠義との衆道関係を口実に脱走し豊臣方に加わるという珍事が起き、大坂夏の陣には暴風雨のために渡海できず、参戦はしませんでした。

藩政においては、慶長17年(1612年)に法令75条を制定し、村上八兵衛を中心として元和(げんな)の藩政改革を行ない、寛永8年(1631年)からは野中兼山(けんざん)を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山の主導で用水路の建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業の奨励、専売制実施による財政改革などを行い、藩政の基礎を固めました。
寛文4年(1665年)11月24日、忠義は73歳で死去。

跡を継いだ忠豊は忠義の長男として生まれ、明暦2年(1656年)7月3日、父の忠義が中風を患い隠居したため、その後を継いで藩主となり、忠豊は父の命に従い、引き続いて野中兼山を登用、伊予宇和島藩との境界線をめぐる争いにも決着をつけました。

ところが、兼山の功績をねたむ一派による讒言(他人を陥れようと事実を捻じ曲げて告げ口すること)と、領民への賦役が重過ぎた事から反発を買い、忠豊も兼山のことをあまり快く思っておらず、そのため父が重病に倒れた頃より、兼山の改革に対する反対派の生駒木工(いこまもく)らと兼山を弾劾。
そしてさらに叔父の伊予松山藩主・松平定行の助けも受け、忠義が隠居し兼山が後ろ盾を失ったこともあり、寛文3年(1663年)7月に兼山を失脚させてしまったのです。
これを、「寛文の改替」といい、兼山はわずか3ヵ月後の10月、失意のうちに49歳で病死しました。
翌年に父の忠義も亡くなり、忠豊はいよいよ自らが政治を行なうようになりますがわずか5年後、寛文9年(1669年)6月15日、長男・山内豊昌(とよまさ)に家督を譲って隠居し、直後の8月5日に死去。
享年61。

豊昌・豊房・豊隆はどんな政治を行った?

跡を継いだ忠豊の長男・豊昌は、藩主権力を確立するために、天和元年(1681年)に地方知行制(一定の土地支配権を与えられ、そこからの収益を俸禄として受け取る制度)を蔵米支給制に改め、天和3年(1683年)以後は平等免制度(年々の年貢を平均して徴収)に。
元禄3年(1690年)、「元禄大定目」を発し藩士や領民の生活を統制。
また、豊昌は剣術の達人で、武術を奨励しました。

しかし元禄元年(1688年)、支藩の中村藩の改易、藩政改革では交通路の改築の失敗、さらには自らの能楽・食事の道楽による藩財政の悪化、山林荒廃を招くなど失政も。

元禄13年(1700年)9月14日に死去。
享年60。
男児が無かったため、分家の山内豊房(とよふさ)を婿養子として跡を継がせました。
豊房は山内氏の分家である武蔵指扇(さしおうぎ)山内氏(忠義の弟である一唯(かつただ)から始まる家系)に生まれ、延宝3年(1675年)12月11日、父が早世したので4歳で武蔵指扇藩の家督(3000石)を継承。
武芸に優れ、歌や鞠もよくしました。
土佐藩主の豊昌に嗣子が無かったため、元禄元年(1688年)に婿養子となり、指扇領を引き払う際、領民に貸与していた1500両を取り立てず領民は感謝したといいます。

元禄13年(1700年)、豊昌が死去し藩主となり、風水害、城下の火災などに苦しめられたため、領民へ救済措置をとり、元禄16年(1703年)には藩財政再建のために藩札を発行し、分家の山内規重(のりしげ、忠義の弟重昌の子孫)を奉行に登用し、緊縮財政政策を採用。
また、谷秦山(たにしんざん?)を登用して学問を奨励するなどしましたが、藩財政再建には失敗。
宝永3年(1706年)6月7日、死去。
享年35。
跡を弟の豊隆(とよたか)が継ぎました。

しかし豊隆は無能で、兄が採用した山内規重や谷秦山、深尾重方(ふかおしげかた)などを次々と処罰。
1707年(宝永4年)10月4日には大地震で1,844人の死者を出すという惨事に見舞われたため、地震の救済に務めながら藩政改革(宝永の改革)に着手しましたが効果は無く、1720年(享保5年)4月14日に江戸、死去。
享年48。
跡を次男・豊常が継ぎました。
先代からの重臣たちを次々と粛清したことで評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われています。

豊常・豊敷・豊雍はどう高知を治めた?

豊常は幼少で、父が失脚させた山内規重を復帰させ、さらに三宅尚斎(しょうさい)を登用して補佐。
しかし規重が享保6年(1721年)に死去、尚斎も政界から引退、豊常は幼くして政務を執ることに。
豊常は早くから聡明と言われ、将来を期待されていましたが、享保10年(1725年)9月2日にわずか15歳で死去。

継嗣が無かったため、山内規重の嫡男・山内豊敷(とよのぶ)が養子として跡を継ぎました。
豊敷は享保12年(1727年)の高知城焼失、享保17年(1732年)の害虫による凶作、さらにそれによる飢餓などに苦しめられ、1万5000両を幕府から借り受け、藩財政を再建するため藩政改革を断行。
行政整理や風俗の徹底、製鉄業の奨励、藩士からの半知借上、宝暦2年(1752年)には国産方役所(こくさんかたやくしょ)を設置し、製紙業を専売化。
しかしこれに反対する中平善之進らが一揆を起こし、一揆側の要求を受け入れ宝暦10年(1760年)に役所を一時的に廃止するなど、藩政改革は失敗に終わりました。

宝暦9年(1759年)には藩校である教授館を創設し、文武を奨励。
さらに目安箱を設置し広く意見を求めましたが、効果はありませんでした。
明和4年(1767年)11月19日に死去。
享年56。

跡を継いだ四男・豊雍(とよちか)は藩政改革を成功させて名君と呼ばれ、温厚賢明な性格。
また文武を奨励。
そして天明の大飢饉の被害で藩財政が困窮したため、藩士の知行借上などを行なっていますが、効果はなく、このため天明7年(1787年)に吾川(あがわ)郡池川・名野川の百姓が伊予に逃げる事件も。

このため、豊雍は谷真潮、尾池春水、久徳直利などの人材を用いて藩政改革に乗り出し、まず土佐藩の格式を10万石に切り下げ節約を行ない、問屋制を廃止し五人組を強化。
これらは天明の改革と呼ばれ、藩財政はいくらか再建されたといいます。
寛政元年(1789年)8月24日、死去。
享年40。
跡を長男・豊策(とよかず)が継ぎました。

豊策・豊資・豊熈などの藩主はどんな藩政を行った?

跡を継いだ10代目藩主の豊策のときの寛政9年(1797年)、郷士の高村退吾が殺害された事件による郷士騒動が起こり、これが原因で土佐藩の身分制度の動揺が始まりました。
藩政においては、藩校である教授館の拡大や文治の奨励、さらに塙保己一の『群書類従』編纂にも協力。
文化5年(1808年)に家督を長男・豊興(とよおき)に譲って隠居。
しかし豊興は翌年3月19日に17歳の若さで死に、嗣子が無く、跡を異母弟の山内豊資(とよすけ)が継ぎました。

豊資は専売制の強化、新田開発や銅山開発、社倉と義倉を設置することによる領民の救済、藩校である教授館を拡大することによる文治の奨励、医学進歩の奨励などに務めました。

しかし天保の大飢饉で藩内が大きな被害を受けると藩は財政的に苦しくなり、天保13年(1842年)には吾川郡名野川の領民がまたも伊予に逃散するほど。
このため、藩政再建のために天保10年(1839年)に倹約令を出し、さらに天保12年(1841年)には藩主親政の藩政改革を宣言。
しかし同年末には秘密同盟を郷村の庄屋が結成し待遇改善を訴えるなど、次第に身分制の動揺が見られるように(この秘密同盟は、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた)。
また、豊資が主導した藩政改革も効果がなく、天保14年(1843年)3月7日に長男・豊熈(とよてる)に家督を譲って隠居。

豊熈は藩政改革を自ら行ない、西洋砲術を導入し、文武を奨励し、倹約令による藩財政再建、さらに馬淵嘉平(まぶちかへい)など、身分にとらわれない有能な人材を登用。
豊熈の信任が厚い馬渕嘉平は藩財政の収支の見直し、専売制の強化、問屋制から脱却し寄生的な藩財政体質を改善するなど、旧体制からの脱却と新体制の確立を目指しました。
このため、馬渕らは保守派から「おこぜ組」と呼ばれて異端視されましたが、豊熈は嘉平を支持。
だが、馬渕が心学を学んでいたことを糾弾され、豊熈はやむなく馬渕を処罰し藩政改革は結果的に失敗。

その跡を継いだ四男・豊惇(とよあつ)も藩主になってわずか2週間で早世。
このため、豊資は分家の山内豊信(とよしげ)を第15代藩主として擁立し、隠居後も「少将様」として、土佐藩の政務に介入。
豊信が安政の大獄で隠居となった後は、十一男・豊範(とよのり)を第16代藩主として擁立しました。

「幕末四賢候」の一人、山内容堂とは?

豊信(容堂)は幕政と土佐勤王党に対してどう対応した?

豊信(容堂)は幕政と土佐勤王党に対してどう対応した?

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藩主になった豊信は革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用。
嘉永6年(1853年)新たに設けた「仕置役(参政職)」に東洋を任じ、家老を押しのけ西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立などの藩政改革を断行。
しかし翌、安政元年(1854年)6月、東洋は旗本・松下嘉兵衛といさかいをおこし失脚、謹慎の身に。
しかし3年後に再び東洋を起用し、東洋は後藤象二郎、福岡孝弟(たかちか)らを起用しました。

豊信は福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、薩摩藩主の島津斉彬と共に幕末の四賢侯と称され、大老井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立し、井伊は大老の地位を利用し政敵を排除(安政の大獄)。
14代将軍は家茂に決まり、容堂は憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出。
この年の10月には春嶽・宗城や水戸藩主徳川斉昭らと共に、幕府より謹慎の命が下りました。

豊信は前藩主の弟である豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となり容堂と改名。
容堂は、思想が公武合体派(四賢侯に共通)であり、藩内の勤皇の志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取りました。
このため幕末の政局を混乱させ、世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と悪く言われ、西郷隆盛に「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言われる結果に。

謹慎中に武市瑞山を首領とする尊王攘夷派の土佐勤王党が台頭し、公武合体派である吉田東洋と対立。
文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋は暗殺され、その後、瑞山は門閥家老らと結び、藩政を掌握。

文久3年(1863年)、京都で長州藩を追い落とすための会津藩・薩摩藩による朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、一触即発の事態を長州側が回避し、これ以後佐幕派の粛清の猛威が復活。
容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握。
以後、隠居の身で藩政に影響を与え続け、東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党を大弾圧、党員を捕縛し投獄。
首領の瑞山は切腹となり、他の党員も死罪、逃れた党員は脱藩し土佐勤王党は壊滅。
同年末、容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加しますが、容堂自身は病と称し欠席が多く、短期間で崩壊しました。

薩長同盟・大政奉還と、時代の流れに乗れなかった容堂

東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介により、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立し、時代が明治維新へと大きく動き出しました。

慶応3年(1867年)5月、薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加しますが、幕府権力を削減しようとする薩摩藩の主導を嫌い欠席を続け、結局この会議は短期間で崩壊。
しかし、同5月21日には、薩摩藩士の小松帯刀の京都邸において、武力討幕のための薩土密約が中岡慎太郎の仲介により土佐藩の乾退助、谷干城(たにたてき)と、薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実(よしいともざね)らの間で締結し、翌22日に乾退助により容堂に密約の内容が報告され、容堂は大坂でアルミニー銃300挺の購入することを許可。
容堂は乾退助を伴って、6月初旬に土佐に帰国。

しかし、薩土密約から約一ケ月後に京都の小松帯刀邸にて、坂本龍馬、後藤象二郎らにより大久保利通、西郷隆盛と土佐藩の後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳、真辺栄三郎が議して、大政奉還による王政復古を目標に薩土盟約を締結。
しかし、薩土盟約は約2ケ月半で早々に瓦解し、乾と西郷の薩土密約の方が重視され、土佐藩全体が徐々に討幕路線に。

容堂は幕府を擁護し続けましたが、倒幕へと傾いた時代を止められませんでした。
幕府が政権を朝廷に返還する案および「船中八策」を坂本龍馬より聞いていた後藤象二郎は、これらを自分の案として容堂に進言。
容堂はこれを妙案と考え、老中の板倉勝静(かつきよ)らを通して15代将軍・徳川慶喜に建白。
これにより慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は朝廷に政権を返還しました。

維新後も幕府を守ろうとし、晩年は酒と女性と作詩に明け暮れた容堂

その後は主導権を薩長勢に握られ、同年の12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議で薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながらも遅参し会議に参加。
容堂は自分の持論の徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、王政復古の大号令を岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決め付け「大政奉還の功労者の徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当」などと主張。
また、岩倉、大久保が徳川慶喜に対して辞官納地を決定したことには徳川宗家擁護を行い、徳川氏中心の列侯会議の政府を要求。
松平春嶽が同調しましたが、容堂には気に入らないことがあると大声でわめき散らす悪癖があり、さらに酒乱状態の容堂は「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」と発言。
たまりかねた岩倉から容堂は面前で大叱責されてしまいましたが、泥酔状態の容堂はまともな返答ができず、会議は容堂を無視して天皇を中心とする討幕強行派のペースで進みました。

慶応4年(1868年)1月3日、 鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、容堂は自分の名で土佐藩兵約百名を上京させながら「土佐藩兵はこれに加わるな」と厳命。
しかし、在京の土佐藩兵らは官軍側に就いて戦闘に参加。
同1月7日、西郷から密書を受け取り、さらに谷干城から開戦の報告を受けた土佐に在国中の板垣退助は、薩土密約に基づき迅衝隊を率いて上洛。
容堂は、京都進発の前夜の2月13日、東山道へ出発する板垣率いる土佐迅衝隊に「寒いので自愛せよ」と言葉を与えました。

明治維新後は内国事務総裁に就任しましたが、かつての家臣や領民ほどの身分の者と馴染めず、明治2年(1869年)に辞職。

隠居生活は当時、橋場(東京都台東区、当時の別荘地)の別邸(綾瀬草堂)で、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる晩年を送りました。
また、連日で両国・柳橋などの酒楼にて豪遊し家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産したことはない。
俺が先鞭(せんべん)をつけてやろう」と豪語し、家令の諌めを聞きませんでした。
また、殺してしまった武市瑞山以外に土佐藩内に薩長に対抗できる人物がおらず、新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだとも。
明治5年(1872年)、長年の飲酒が元で脳溢血(のういっけつ)に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じました。
容堂は正直言って歴史的に大きな仕事をしたわけではなく混乱させただけに等しいのですが、その頃の情勢に深く関わり、なおかつ人間味のある面白い人物ではあったので、ここで長く紹介させてもらいました。

その後の高知城は明治4年(1871年)廃城令により天守等の本丸周辺建造物と追手門を残し城郭建造物がとり払われ、明治7年(1874年)高知公園として一般に開放され、昭和9年(1934年)国宝に指定(昭和25年文化財保護法により重要文化財とに)。

昭和23年(1948年)天守をはじめ各建造物の修理を始め、昭和34年(1959年)修復工事が完成。

平成2年(1990年)に追手門矢狭間塀、平成16年(2004年)に本丸南石垣、平成22年(2010年)三ノ丸石垣の修復工事が完成しました。

江戸時代の本丸がなるごと残り、山内氏により支配された高知城

高知城は天守をはじめ本丸を構成する建物全てが江戸時代のもので、元々土佐を治めていた長宗我部氏は元親の時代に最盛期を迎え四国全土を支配する勢いでしたが関ヶ原の戦いで改易、大坂の陣で滅亡。

後で土佐に来た山内一豊は足軽から成り上がり、妻の助けもあり、諸大名に先駆け東軍に参加することを表明した攻で土佐20万石を得ました。
その後山内家が土佐を支配し、幕末には豊信(容堂)が歴史をかき回し、廃城令により高知城は大半を壊されますが無事現在に至ります。

司馬遼太郎さんの「夏草の賦」が長宗我部元親を、「功名が辻」が山内一豊を題材にした話ですので、高知に来る際には読んでから来ると、なお理解が深まるかもしれません。
高知城を見た後は逸話もあった鰹のたたきを食べて、桂浜や坂本龍馬のゆかりの地に行ったり、また自然豊かな高知県には他にも回る所がいっぱいありますので、楽しめると思います。
それでは、読んでくれてありがとうございます!
photo by PIXTA

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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