唯一江戸時代のままの姿を残した本丸?妻に支えられた「ぼろぼろ伊右衛門」が建てた高知城の歴史

高知城はどんな場所にあり、どんな建物があって、まるまる江戸時代のものが残っている本丸はどんなものでしょうか?さらに土佐を元々治めていた長宗我部氏とはどんな人で、どのように山内氏と入れ替わる様になったのか?またその山内氏土佐藩初代藩主の山内一豊とはどんな人物でどのように出世してきたか?また歴代の高知城の城主はどのように土佐を治め、また幕末に幕政や明治維新に大きく関わった山内豊信(容堂)とはどんな人だったのか?これらのことについて紹介していきたいと思います。ではまず、高知城がどんな場所にあるかということから見ていきましょう。
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高知城はどんな城?

高知城はどこにある?どんな城?

高知城はどこにある?どんな城?

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高知城は新幹線の止まる岡山駅から特急南風で2時間40分の距離の高知市内にあり、高知駅からバスに乗ればとさでん交通「高知城前」下車し10分、路面電車に乗ればとさでん交通「はりまや橋」で乗換え(乗換え券を貰って乗り換えてください)後、「高知城前」下車し15分、徒歩だと約25分ですが、高知駅より南下直進し追手筋を西進(右折)すると判りやすい道。
ちなみに毎週日曜日には300年以上の歴史を持つ日曜市が開かれ、私も子供の頃行ったことがあるのですがかなり長くお店が連なっているので、見ていて楽しいです。

土佐24万石を襲封し、司馬遼太郎の小説「功名が辻」で有名な山内一豊によって創建されて以来、約400年余りの歴史を持ち「南海の名城」として名高い城。
なお山内一豊が入る以前「高知」という名がつくまでのこの地には長宗我部元親という戦国大名が出て四国を統一し、幕末には四賢公と呼ばれた山内容堂が高知を治め、城下からは坂本龍馬、武市半平太、板垣退助、後藤象二郎など幕末の動乱で活躍した人物を輩出しました。

天守は現存12天守の一つで国の重要文化材に指定されていて、天守をはじめ本丸を構成する建物のすべてが完存。
本丸が完存するのは全国でも唯一でその優雅な姿は高知市のシンボルになっています。
では、高知城の建物はどんなものがあるのでしょうか?またどんな歴史を持っているのでしょうか?見ていきましょう。

高知城にはどんな建物がある?

路面電車を高知城前で降りて桜山口から城内へ

路面電車を高知城前で降りて桜山口から城内へ

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まずは高知城の建物について説明していきましょう。
路面電車を高知城前の電停で降りたと仮定して、北上し左折、高知県庁の前にあり東西に伸びる堀沿いを西にずっと歩き、堀が切れたら北上し、桜山口から城内に入ります。

入ってすぐの左手にある桜山は御屋敷の庭園。
この庭園の中には「涼風亭」「和楽亭」「花園亭」などの東屋があり、桜山の東には蹴鞠場もつくられていました。

曲がりくねった道を通り四方に伸びる交差点を北西に寄り道すると搦手門と西の丸があり、搦手門は城の裏門で、「西ノ口門」「西大門」とも呼ばれています。

西の丸は江戸時代初期には、幕府よりの「御預人」である元豊前小倉城主毛利吉成(大坂の陣で活躍した毛利勝永)が住居。
吉成没後は、2代藩主・忠義の娘である喜与姫(陸奥三春城主・松下長綱の夫人)が住居したと言われていて、現在は武道館の別館である弓道場「弘徳館」があります。

そして先程の四方に伸びる交差点を戻り、今度は南東に伸びる道へ。
すぐに御台所屋敷跡がありますが、ここに実際に屋敷が存在したかは明らかでなく、明治以降「桃の段」とも呼ばれ、昭和25年から平成5年までは高知市立動物園が置かれました。
動物園移転の後、発掘調査が行われ、中近世の遺構群が確認されるとともに多くの出土品が発掘されています。

城の周り、東側にはどんな建物がある?

城の周り、東側にはどんな建物がある?

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次はまだ本丸の方へは行かず、その周りの建物を紹介します。
御台所屋敷跡の前の道を突き当たるまでまっすぐ進み、その奥側には太鼓丸。
藩政期には太鼓丸に鐘撞堂が置かれましたが、明治期に別の場所に移転。
その後に「宜休亭」「亡帰亭」の東屋が建設され、高知公園十一景の一つとして市民に親しまれました(現在は存在しません)。

太鼓丸から一番外側の道を北に進むと杉の段。
「井戸ノ段」とも呼ばれ、将軍家より下賜された「御鷹之鶴」を、藩主自らこの井戸段に出向き迎えたといい、また、藩主のお国入りや出駕の際にはここに一族が出迎えや見送りに出向いたそう。
「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物がありました。

杉の段から階段を下に降りると板垣退助像。
自由民権運動の父とされ、特に明治時代の一大流行語となった名言である「板垣死すとも自由は死せず」は有名ですね。
この銅像は昭和31年(1956年)5月11日に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。
像の高さは2.20m、台座4.205m、全高6.405mあります。

その東側には追手門があり、高知城の表門で石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、堂々としていて城の大手(正面)にふさわしい構え。
門前は枡形状になっていて、門と矢狭間塀(やはざまべい)で囲まれ、三方向から攻撃できるようになっています。

さらに県立図書館の横には初代藩主である山内一豊の像があり、平成8年(1996年)9月20日、一豊の祥月命日に再建除幕されたもの。
本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32メートル、重さ3.6トン、台座5.08メートル、総高9.4メートルで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスといわれています。

また高知県庁内には下屋敷があったとされ、隠居や世継ぎなどの藩主一族が住居する御殿があり、明治期には県民のための講演・会合場所である高知県公会堂が置かれました。

八幡宮を通り二の丸へ

そして道を戻って御台所屋敷跡の手前の交差点まで行き、北上すると八幡宮と獅子の段があります。
八幡宮は山内氏の高知城築城以前から大高坂山に鎮座していたといい、城内八幡宮と呼ばれ、諏訪大明神・厳島明神とともに「城内三社」と称されました。
藩主一族が詣でるほか、城下に住む町民の氏神でもあったため、毎年9月1日から10日までの祭礼の際に限って庶民の参拝が許されていました。
神社境内には、尾戸焼(おどやき)の創始者である久野正伯(くのしょうはく)によって作られた陶器製の狛犬が置かれていたといいます。
明治4年、山田町(現高知市はりまや町)へ遷座、現在は高知八幡宮と称し、このほか城内には春日大明神や熊野権現、祇園牛頭天王宮など様々な神が祀られていて、現在この場所には城内三社をしのばせる小祠が残っています。

獅子の段は江戸時代には「鹿ノ段」とも書かれ、射場と馬場があったとされ、「西南櫓」「西櫓」「乾櫓」の3つの櫓で厳重な警護がなされ、明治7(1874)年、高知城公園の開園記念として梅林となり、現在は「梅ノ段」と呼ばれています。

そして二の丸に入り、ここには藩主の居住空間である二ノ丸御殿があり、北東にある家具櫓や数奇屋櫓はその名の通り調度や道具類を収納。
西の隅には、その高さから「さながら小天守のようであった」といわれていた三階建ての乾櫓があります。

本丸への入り口である櫓門が詰門で、藩政の時代は「橋廊下」と呼ばれ、門内に侵入した敵が容易に通り抜けることができない様に、入口と出口の扉の位置を「筋違い」に設置。
一階は籠城の時のための塩を貯蔵するための塩蔵で、二階は家老や中老などの詰所で、現在の呼称はここからきているものです。

三の丸にはどんな建物がある?

本丸への入り口である詰門を紹介しましたが、ここで三の丸へ、またしても寄り道しようと思います。

三の丸と本丸をつなぐ位置には鉄門があったとされ、門扉に鉄板を多数打ち付けてあったことからこう呼ばれ、三ノ丸の入り口付近での防衛上、非常に重要な位置。
石垣が門を囲んでおり「打込みハギ」と呼ばれる手法で堅固な石垣が築かれ、門内は小枡形で石垣の上から攻撃できるようになっています。

三の丸にはかつて三ノ丸御殿が建っており、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などから構成。
創建当時、室内は障壁画で絢爛豪華に装飾されていたそうです。

三の丸の北西隅には丑寅櫓があり、二階建てで唐破風や廻縁高欄が付けられ、天守と同形式のもので、城内8つの櫓の中では特異な外観をしていたといいます。

長宗我部時代の石垣も残っており、高知城のある大高坂山は古くから軍事拠点として利用されていて、四国の覇者となった長宗我部元親は、岡豊城から、天正16年(1588年)大高坂山に移り築城しましたが、水害などで城下町の形成が充分にできず地盤も弱いため、天正19年(1591年)に土佐湾に面した浦戸城に移転したといいます。

この石垣は、平成12年8月から実施された石垣背後の発掘調査(三ノ丸石垣の改修工事のための事前調査)により確認され、その盛土から長宗我部元親が築城した際に構築したと考えられています。
また盛土の中から、豊臣家より拝領したとされる桐紋瓦も出土。
これは、瓦葺きの建物があったことを示すとともに豊臣家との結びつきを示す資料となります。

また高知は雨の多い土地柄で、高知城には排水のために様々な工夫が施され、石樋(いしどい)の水路遺構は三ノ丸の雨水を集めて、2か所の石樋より排水、石垣内部に泥水が入って、目詰まりしてゆるみが生じることを防ぐために設けられたものと考えられ、水路は側板、蓋石で構成、主に砂岩が使用され、底部は三和土(タタキ)で塗りこめられています。

蓋石を外せば清掃が容易となる構造で、土砂の流入を防ぎつつ維持管理を可能なものに。
大雨が降った際には、石樋の先端より水が放出され、石樋部の底石には、側板を立てるための加工が施されています。

すべての建物が現存するという高知城の本丸はどんなもの?

本丸にはどんな建物が残っている?

本丸にはどんな建物が残っている?

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鉄門跡に戻り、いよいよ本丸へ。
北側から時計回りをする様にぐるっと回ると矢狭間塀があり、鉄砲が丸や三角、矢が長方形で攻撃する構造。

最初にも書きましたが、天守をはじめ本丸を構成するすべての建築物が完存ししていて、これは全国でも唯一。
なかでも本丸御殿は貴重で、前庭・式台・書院・上段・廊下・茶処(ちゃどころ)までも揃っています。

本丸塁上には天守のほか西多聞櫓、東多聞櫓、塀がめぐり、二の丸側に廊下橋門、獅子の段側に黒門が構えられ、西多聞櫓は本丸警護の番所が置かれていたそうで、空堀を隔てて二の丸側からが良い眺め。
本丸にそびえる石垣の天端石(てんばいし)より張り出して土台が組まれ、その上に櫓が建てれているため、出張る床下は「石落」(いしおとし)となって、よじ登ってくる敵を攻撃できるのです。

廊下橋門は二の丸御殿と直結して多聞櫓に至り、本丸と二の丸の空堀をまたぎ、下方は詰め門となり、廊下橋を往来する者を外部から見えなくする目隠しの橋と門。

南に開く黒鉄門(くろがねもん)は中世の城郭を彷彿とさせるつくりで、木材の表面には柿渋が塗られています。

他にも納戸蔵や東多聞などの建造物が残り、東多聞には武器庫、本丸の南に黒鉄門があり、藩主が儀式の際に出入りする門でした。
いずれも国の重要文化財に指定されています。

そしていよいよ天守へ。
外観4重(内部3層6階)で高さ18.6mの望楼型天守で、最上階には廻縁高欄(まわりえんこうらん)が付けられていて、「咸臨閣」(かんりんかく)という別称を持ち国の重要文化財に指定されています。

カワタツ

Writer:

子供の頃から坂本龍馬に憧れ、歴史小説を読み込んでいて司馬遼太郎が特に好きです。城を巡って旅行をするのも好きでいろいろと回っています。地元岡山の歴史についても本を読んで調べてもいます。過去の時代の岡山がそんな風景だったか想像するのが好きです。バンド「レキシ」も好き。

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