津軽の名城『弘前城』の歴史と魅力あふれる観光ポイントを解説

本州最北端の青森県にある弘前市は日本で最初に『市』に指定された都市であり、東北最古の天守閣を誇る『弘前城』がシンボルの歴史ロマンが色濃く残る街です。
そんな弘前市で最も有名なシンボル弘前城の『桜』は、花の咲く季節は200万人以上が訪れる大人気スポット。
しかし弘前城は桜だけが魅力の街ではありません。
白神山地に抱かれた北の小京都『弘前』と、人々を見守り支える『弘前城』。
歴史を遡れば戦国時代後期まで起源を持つ弘前城と、このお城を中心した魅力溢れる弘前市についてご紹介します。

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弘前城が築城と津軽藩

弘前城が築城と津軽藩

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別名『鷹岡城(高岡城)』とも呼ばれる『弘前城』は、青森県弘前市のランドマークとして多くの観光客が訪れる人気のスポットです。

全国でも数が少ない江戸時代から現存する様々な建築物が国の重要文化財に指定されていて、日本の名城100選にも選ばれる『弘前城』の歴史についてご紹介します。

「弘前城」が築城から公園になるまで

「弘前城」が築城から公園になるまで

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江戸時代に入るまでのお城は軍事拠点としての役割を持っていましたが、江戸幕府から発令された『一国一城令』以降は藩の政治中枢として機能していきます。
この法令の背景には外様大名を含めた元戦国大名の力を弱め徳川家の支配力を強める狙いもあり、これ以降の築城や改築改装などは全て幕府からの許可が必要でした。

まだ徳川幕府の政治が安定し天下泰平と呼ばれる時代になるまでは、各お城の主はいつでも戦になっても良いように、様々な理由をつけて出来る範囲でお城の軍備強化を行っていました。

そんな時代に初代津軽藩藩主の「津軽為信(つがるためのぶ)」が1603年築城を計画し築城を開始しますが、翌年に京都にて客死してしまい計画は中断してしまいます。

しかし三男でありながら2代目藩主を引き継いだ息子の「津軽信枚(つがるのぶひら)」によって計画は再開、1611年に完成し、以来明治維新後の廃藩置県まで津軽氏の居城として長く津軽地方の象徴であり藩政の中心として栄え人々に親しまれてきました。

この弘前城の建材には「津軽為信」が以前暮らしていた『堀越城』や『大浦城』といった廃城になったお城の物を使っており、現存している天守の階段や櫓にも使われていて実際に触れる事ができ、時代を経て色艶の増した美しい古材の品格を感じられますよ。

実は築城完成当時はお城の名前は高台の鷹が多く住む森の中に造られたお城であった事から『鷹岡城』が正式でしたが、1629年に「津軽信枚」が仏教(天台宗)に帰依し「天海大僧正」が『弘前』と命名した事でお城の名前を改名したという説が有力ですが、土地の名前が鷹岡から弘前へと変わった事が理由で『弘前城』になったという説もあります。

その後江戸時代から明治時代へと移り藩から県へと変わった際には『弘前県』となり県政の中心となりましたが、「野田豁通(のだひろみち)」が現在で言う県知事である初代の県大参事に任命された19日後の1872年9月23日に県庁を青森に移す事を決め、それ以降は青森県という名称で現在までに至ります。

1873年の廃城令の発布に際してお城は取り壊される事になりましたが、旧藩主であった津軽家がお城跡を一般市民い公園として公開するから土地を貸してほしいとお願いをしたことで、現在の弘前公園ができ弘前市の人気スポットとなったのです。

これも一重に旧領民達の事を思い行動した『津軽家』の人々の気持ちがあったからと言えますね。

津軽藩を治めた津軽氏とは

津軽藩を治めた津軽氏とは

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それでは、そんな津軽家とはどんな一族だったのでしょうか。

その歴史は鎌倉時代まで遡ります。

弘前一帯の地域は鎌倉幕府を開いた「源頼朝(みなもとのよりとも)」の妻の「北条政子(ほうじょうまさこ)」の家系である「北条氏」の惣領家の領地で、主家である北条家に代わって「津軽曾我氏」や「津軽安東氏(または安藤氏)」が治めていました。
しかし「津軽曾我氏」は戦国時代に入る前の南北朝時代に滅んだとされ、残された「津軽安東氏」は領地維持に努めますが15世紀の半ばには清和源氏の流れを組む「南部氏」によって領地を追われる事になりました。

戦国時代に入ると両家の領地争いは加速し何度も戦を起こしますが、結果的に弘前をふくめた地域一帯は南部氏に支配される形となります。

しかし「津軽為信」は戦国末期になると津軽氏として独立を進め1590年7月に「豊臣秀吉」の『小田原征伐』に参戦した功績によって大名として認めれ、さらに「徳川家康」と「石田三成」による『関ヶ原の戦い』で徳川軍に味方した功績が認められた事で領地の石高が増え津軽藩として南部氏の支配から独立、その後幕末まで栄える事となりました。

幕末から明治時代にかけて起こった明治政府と旧徳川幕府軍による『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』の際には、明治天皇の義理の叔父にあたる「北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)」を盟主に東北諸藩からなる『奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)』という新政府(明治政府)の圧力に対抗する同盟を組みますが、同盟の趣旨が会津藩と庄内藩の天皇の敵を意味する『朝敵』の赦免嘆願から旧幕府軍主体による新政府樹立へと変わっていった事や旧幕府軍劣勢という時勢を読んで同盟を裏切り、新政府側へ寝返る事で明治維新を乗り越えます。

一見すると津軽藩は裏切り者の様に思えますが、様々な思惑や意思が錯綜する様々な時代の混迷期にあって領民や領地を守り家を存続させる事を第一に考えて高度な政治的判断と駆け引きを行ってきたのが、今日の弘前の繁栄に繋がっているのでしょう。

このように津軽の人々が守り伝えてきた歴史の数々は、今も弘前市を中心に色濃く残っているのです。

「弘前城」に残る江戸時代の面影

「弘前城」に残る江戸時代の面影

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築城から約400年経っても当時の面影を残す弘前城は、関東以北で唯一の江戸時代に造られた天守閣が残る貴重なお城で、6つの郭(お城を囲う壁)と3つの濠(水の張ったお堀)、本丸と二の丸、5つの城門が残っていますが、現在の天守は江戸時代に落雷によって火災が起こり中に保管していた火薬に引火して大爆発を起こしてしまい、その後再建されたものになります。

再建されたといっても再建自体も江戸後期なので、江戸時代の建築である事に変わりはありません。

この現存している本丸の天守は『御三階櫓(ごさんがいやぐら)』は元々はロシアから来る船の監視や万が一の襲来に対応する目的で作られた物であり幕府への配慮から御三階櫓と呼ばれていましたが、弘前城の事実的な天守閣(軍事拠点)として機能していました。

ところで津軽海峡を往来するロシア船対策に建てられた櫓(やぐら)ですが、地図で見ると海からずいぶんと距離があるように感じます。
江戸時代は現代のような高い建物が無かったので、遠くまで見渡せたのでしょうか。
天守は現在津軽藩、弘前城の資料館として公開されていますので、ぜひ登って江戸時代から息づく建物の香りと大きな採光窓から差し込む明るい室内から遠く青森の景色を楽しんでみてくださいね。

ちなみにこの御三階櫓は、2015年8月より100年ぶりに石垣の改修工事が行われていて、本丸の内側へ70m建物丸ごと移動しており、2021年秋ごろに元の位置に戻る予定となっています。

その為、今だけ日本百名山の一つであり青森県最高峰の岩木山を背景にした貴重な景色を楽しめますよ。

この天守は思いのほか小さいと感じるかもしれませんが、その構造の華やかな切妻出窓や狭間窓を使い小ささを感じさせない豪華さと漆喰の白さと黒い瓦の対比が美しくて、当時の面影を感じます。
特に瓦は寒冷地らしく粘土瓦に銅の瓦を巻くという仕様になっていて、東北地方ならではの対策が施された姿には先人の知恵が際立ちますね。

この他にも矢傷が残る築城当時の『北門(亀甲門)』や平穏な時代に正門として使われた『追手門』、日本最古の樹齢が約130年を誇るソメイヨシノが内側にある『東内門』に防火と防御の役割を果たした三階構造の白い土壁のが美しい3つの方角に据えられた『櫓(やぐら)』など、江戸時代初期から残る希少な建物が残っています。







弘前城を彩る弘前公園の四季の景色

弘前城を彩る弘前公園の四季の景色

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弘前城と言えばお城を含む広大な『弘前公園』に植えられた2600本の桜が楽しめる事が有名な、東北屈指の桜の名所です。

特に満開の溢れるような桜の木々とその下を流れるお堀に浮かぶ花筏との共演は、他では滅多に見れない絶景として毎年多くの観光客を魅了してやみません。

そんな弘前城を彩る桜やそれを守る弘前公園についてご紹介します。

春夏秋冬、様々な顔を見せる桜の世界

春夏秋冬、様々な顔を見せる桜の世界

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弘前城を囲むように広がる弘前公園は、東京ドーム約10個分の広大な敷地の中に多くのソメイヨシノを含めた約50種の桜が植えられており、毎年4月下旬から5月上旬に『弘前さくらまつり』が開催されソメイヨシノから順に満開を迎える桜の木々が多くの人々を魅了しています。

そんな弘前公園は津軽家をはじめとした旧藩士の人々の努力により廃城令によって取り壊されそうだったのを守られ1805年から公園として公開されていましたが、1902年に個人から弘前市と管理が移り公共施設として利用されてきました。

この弘前公園は1908年に当時皇太子だった大正天皇が弘前市に訪問された事を記念して『鷹揚園(おうようえん)』と名付けられ、現在でも弘前公園は正式には『鷹揚園』となっています。

ちなみに弘前公園の中にある様々な桜は廃藩置県の後に旧藩士から寄付された1000本のソメイヨシノを始め、明治から大正、そして戦後から現在にかけてしだれ桜や八重桜など様々な桜の木が様々な形で寄付され、現在のような多くの桜が咲き誇る素晴らしい景色を生み出しました。

この弘前公園の桜が幻想的なまでに美しく見惚れるのは、それを管理する桜守さん達の努力がある事を忘れてはいけません。

ソメイヨシノは様々な説がありますが、基本的に他の植物と違い種から発芽して木になる事がほぼできず、今ある木の枝を別の木をくっつけて一つの木にする『接ぎ木』という手法で繁殖しています。
簡単に言えば元となったソメイヨシノのクローンが全国に広まっているのです。

そんなソメイヨシノは病気や害虫に弱く繊細な桜でもあり、扱いを間違えるとあっという間に枯れてしまい、またしっかり管理を行っても平均寿命が60年ほどと言われているほど弱い木ですが、弘前公園の桜の木々はどれも生命力に溢れ生き生きと咲き誇り、樹齢100年を超える桜が多くあります。

これは桜と同じバラ科の木で美味しい実を作るのに繊細な気遣いが必要なリンゴの名産地である弘前だからこそできる細やかなケアの賜物であり、『弘前方式』と呼ばれるリンゴの剪定技術があっての事。

花の時期が終わり青葉が茂る頃から、弱った枝や病気の根をを樹木医さんが見極め桜守さん達が取り除き、栄養をたっぷり与え、真冬の大雪の中に不要な枝を取り除いて春に多くの花芽をつけるように、毎日一本ずつ大切にケアしています。

そんな弘前公園の桜だからこそ、本来であれば花が散り青葉が顔の見せる頃にしか見れない、水面を花弁が埋める『花筏』を、満開の花と一緒に楽しめる幻想的な風景を堪能することができるのです。

また300m続く桜のトンネルや赤い和橋と淡い桜のコントラスト、白と黒モノトーンの櫓に映える桜色の淡さなど、一度見たら忘れられない感動を心に残る絶景を堪能させてくれるのも、桜守さん達の繊細な気遣いと努力があってのもの。

ただただ景色に感動するだけではなく、その裏で努力している人達に思いを馳せるのも乙な桜の楽しみ方ではないでしょうか。

季節に合わせた美しいイベント

季節に合わせた美しいイベント

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弘前公園は満開の桜を楽しむ『弘前さくらまつり』以外にも四季折々の風景やイベントが楽しめるのもポイント。

桜が散った後の新緑の中の散策は、さくらまつりの喧騒とは離れたゆったりとした空気を楽しめますし、元三の丸だった『弘前城植物園』では季節の植物から北の霊峰『白神山地』の生態園や日本庭園など、弘前ならではの植物に出会えます。

夏の弘前の風物詩として有名な『弘前ねぷたまつり』は、弘前市を巨大な『ねぷた』の勇壮が市内を練り歩きますが、その際に弘前城の横を通る『土手町ルート』があり夏の濃い緑に生い茂った公園の木々と弘前の象徴である弘前城とのコラボは必見です。

秋になると弘前城の木々が色づいて美しい紅葉が楽しめます。
弘前で紅葉が始まる10月半ばから11月にかけて『弘前城菊と紅葉まつり』が開催され、古城に残る常緑樹である松の緑と、赤や黄色に染まった桜のコントラストは心に残る景色。
そんな弘前公園内にある弘前城植物園で開催されるのが『弘前城菊と紅葉まつり』で、秋に代表される様々な菊花に菊人形や菊の五重塔などのアート、秋の草花の展示が行われます。

生き生きと茂る夏からどこか哀愁を感じる秋の色へと色づいた公園で催される可憐な菊の祭典は、日常に疲れた心にそっと優しい癒しをもたらしてくれますよ。

色づいた葉が落ちてしんしんと冷える冬には、雪国ならではのイベントが控えています。

豪雪地帯だからこそできる2月の風物詩『弘前城雪燈籠まつり』では、様々な趣向が凝らされた雪像に200基以上の雪で作られた灯篭とミニかまくらに灯された柔らかな明かりが幻想的で、白雪の世界に浮かび上がる弘前城は陶然として見惚れる美しさ。

心の琴線に優しく触れるような幽玄の世界は、一度見たら忘れられない思い出になること間違いなしです。

次のページでは『弘前城と一緒に感じる古いお屋敷とグルメ』を掲載!
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