歌集『一握の砂』を残し26歳の若さで世を去った天才歌人・石川啄木とはどのような人物?

明治時代に活躍した日本の歌人「石川啄木(いしかわたくぼく)」。岩手県に生まれた啄木は26歳の若さで亡くなるまで『一握の砂』、『悲しき玩具』という歌集の名作を生み、現在まで「天才歌人」として語り継がれています。そんな石川啄木はどのような人物であったのでしょうか。今回は生涯やエピソード、ゆかりスポットなどから見てみましょう。






成績優秀で「神童」と呼ばれた幼少期

成績優秀で「神童」と呼ばれた幼少期

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石川啄木は1886年(明治20年)2月20日、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に曹洞宗日照山常光寺住職・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として誕生。
1歳の時に父が渋民村(現在の盛岡市渋民)の宝徳寺住職に転任することが決まると一家で渋民村へ移住することに。
1891年(明治24年)に5歳となった啄木は旧渋民尋常小学校、1895年(明治28年)には盛岡高等小学校(現在の下橋中学校)に入学。
この頃から成績優秀であった啄木はいつしか「神童」と呼ばれるように。

小学校で「神童」と呼ばれた啄木は1898年(明治31年)に岩手県盛岡尋常中学校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)に入学、この頃の地に妻となる堀合節子、金田一京助らと知り合うことに。
この頃から文学に興味を持った啄木は文芸雑誌『明星』を詠み与謝野晶子(よさのあきこ)に影響を受けるようになり、短歌の会「白羊会」の結成、『岩手日報』に短歌を発表するなど短歌活動を始めるようになります。

その後1902年(明治35年)11月10日には与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ね、年末には出版社「金港堂」を訪ねて就職を希望しますがこれはうまくいかず。
翌年2月に故郷したあとは『岩手日報』に評論連載するなど精力的な活動を続け、12月に「啄木」の名で『明星』に長詩「愁調」を掲載すると多くの注目を集めるように。

結婚・家族のトラブル

結婚・家族のトラブル

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創作活動を活発化させた啄木は1904年(明治37年)に人生の大きな決断をします。
この年の1月8日、中学時代に知り合った堀合節子と将来の話を行った啄木は6日後に婚約。
婚約を果たした啄木は10月31日、詩集出版を目的として再び東京に向かうことに。

しかしそんな啄木には家族のトラブルが降りかかることに。
翌1905年(明治38年)、故郷で父親が宗費滞納のため渋民村宝徳寺を一家で退去させられることが発覚しました。
家族トラブルであわただしい中で5月3日、ようやく第一詩集『あこがれ』出版にこぎつけ5月12日、啄木不在の中で節子との婚姻届を父親が盛岡市役所に提出。
そして5月20日 結婚のため故郷に帰ることになりますが啄木は節子との結婚式を欠席。

結婚式を欠席した啄木は6月4日に盛岡へ到着、ここから啄木の父母、妹光子との同居で新婚生活が始まることに。
9月5日は啄木が主幹・編集人を務めた文芸誌『小天地』を出版、好評を得て第2版出版も計画されますがこれは資金問題で叶わず。
この頃一家の経済状態が厳しさを増すようになり、翌1906年(明治39年)には姉・田村サダが死去。
妻と母を連れて渋民村に戻ると渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務を開始。
経済状況が厳しくなる中でも小説を書き始めるなど創作意欲が止むことはなく、12月には評論「林中書」を脱稿しています。

北海道・東京での執筆活動

北海道・東京での執筆活動

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厳しい経済状態の中で執筆をつづける啄木に依頼が来たのは1907年(明治40年)。
函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)から原稿依頼を受けた啄木は4月1日に教職の辞表を提出。
函館に移った啄木は妻子を盛岡の妻の実家、妹を小樽駅長の義兄に預けて松岡政之助(蕗堂)の下宿に身を寄せることに。
この頃は函館商工会議所での臨時雇用、函館区立弥生尋常小学校の代用教員を務めて生計を立てることに。
その後9月には北門新報社の校正係、その後小樽日報社の『小樽日報』記者になりますがいずれも短期間で退社。
翌1908年(明治41年)からは釧路新聞社に勤務しますが、3月には主筆への不満、東京へのあこがれから釧路からの離別を決意。

こうして東京へ旅立った啄木は金田一京助の援助で本郷区(現在の文京区)菊坂町赤心館に住みながら小説執筆を続けますがうまくいかず、金田一は自身の愛蔵書籍を売り払ってまで啄木を支援することに。
相当才能を買っていなければこれほどのことはできないでしょう。
支援を得た啄木は住まいを本郷区森川町蓋平館に移し、11月『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。
1909年(明治42年)1月1日に雑誌『スバル』が創刊すると発行名義人に。
またこの頃には『東京朝日新聞(現在の朝日新聞)』の校正係に採用されることが決定。

その後6月16日に妻子と母が到着すると本郷区本郷弓町の「喜之床」2階に住居を借り、1910年(明治43年)3月下旬には『二葉亭全集』の校正を終えることに。
またこの頃は幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らによる「大逆事件(たいぎゃくじけん)」が発覚、社会主義思想に興味を持った啄木は評論『時代閉塞の現状』や『所謂今度の事』を書き上げますがこれらは新聞されず。
当時は言論の自由は許されなかったのですね。

晩年・早すぎる死

晩年・早すぎる死

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執筆・社会活動と幅広く活動する啄木でしたが、自身は体調不良に見舞われることに。
1911年(明治44年)から慢性腹膜炎を患うようになると、7月28日には妻節子が肺尖カタル(肺尖部の結核性病変。
肺結核の初期症状)を発症。
自身も12月には腹膜炎と肺結核を患い発熱が続くように。

翌1912年(明治45年)3月7日には肺結核を患っていた母・カツが死去。
その後は自身の病状も悪化を続け4月13日、肺結核のため妻、父、友人の若山牧水に看取られ26歳で死去。
葬儀は4月15日浅草等光寺で営まれ、遺骨は翌年に立待岬(たちまちみさき。
北海道函館市)に移されることに。

啄木一家には6月14日に次女・房江が誕生。
9月4日に節子は2人の子どもを連れて函館に移った実家に帰りますが、翌1913年(大正2年)5月5日肺結核のため26歳で帰らぬ人に。
子どもたちも長女・京子は24歳、次女・房江は19歳で亡くなるなど家族も啄木と同じく早くに亡くなってしまいました。







啄木の意外な一面

激しい女遊び・カンニングで中学中退

激しい女遊び・カンニングで中学中退

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生涯苦しい生活を強いられていた啄木ですが、その裏には意外な事実があるとされています。
小説家を目指して東京に降り立った啄木が金田一京助から援助を得て生活をしていたことは前に挙げましたが、このとき啄木は何人もの友人に借金をしながら「女遊び」に熱中。
そして給料が入るとそのお金をまた遊びに使う生活を送っていたのです。
これが事実であれば「生活が苦しいから貯金していこう」という考えは全くなかったのかもしれませんし、東京から心配して駆けつけた節子はこの実情をどのように思っていたのでしょうか。

また成績優秀で「神童」と呼ばれるほど評価された啄木は、中学に入ると学問に熱中せずカンニング、出席日数不足から退学勧告を受け中学を退学。
節子は中学で出会った啄木から手紙を受け取り「夜静かにして 想ふの羽のみぞ北の空にかける 乙女の美しきを 恋しと思ひぬ」や「小百合ぞと 袂に掩ふて一花は はなたざるべき世とも思ひし」などなどの言葉に引き込まれ「啄木との結婚」を考えると親は反対。

節子の父はこの結婚に対し「あのときの節子の熱心さには全くどうしようも仕方がありませんでした。
結婚を許してやらなければ若い者同志のことだから思いつめてどんな事をしでかすかわからないと説かれ、仕方なく承諾したような次第でした。」と語っており、親としては娘が「怪しい」男性と結婚するのを反対するのは無理もないでしょうね。

文才を発揮する一方で遅刻・欠勤繰り返し

文才を発揮する一方で遅刻・欠勤繰り返し

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啄木は北海道に移住したころにトラブルを起こしています。
1907年(明治40年)に北海道へ渡った啄木の家には文学に熱中した青年が集まるようになり、この頃に新聞記者となった啄木は文才を発揮して「啄木が文章を書けば新聞が売れる」と言われるほど有名に。
小樽の街に出没した不審な女について「この出没自在の美人は、高下駄を履いた天狗が20世紀に化けて出ているのかも知れません。
皆さんよくよく気をつけましょう」などと記しており、1つの物事を広げる能力は相当高かったのでしょうね。

しかしこの評価に気を良くしたのか、その後の啄木は遅刻・無断欠勤を繰り返すようになり、1908年(明治41年)1月には小樽を離れ釧路へ。
この頃の啄木は盛岡に残してきた妻の事を気にかけなくなり、借金で苦しい生活を強いられる節子をよそに自身は毎晩飲み歩き。
この頃には節子の友人が節子を心配するようになっていたとされています。
周囲から見れば明らかに「異常な結婚生活」に見えるでしょうが、節子にはなかなか自分の実情が見えにくかったのかもしれませんね。

こうした啄木の生活に耐えられなくなった節子は1909年(明治42年)に東京へ向かうことになりますが、最終的には娘を連れて家を出て行くことに。
これにはさすがの啄木も堪えたのかこの頃に「私は実に一個の憐れなる卑怯なる空想家でした」の文章から始まる手紙を執筆。
啄木作品でたいへん有名となっている『一握の砂』はその後1910年(明治43年)に発表されたもので、この中で「はたらけどはたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」という分には生活の苦しさ、自身の行いに対する後悔の気持ちが隠されているのかもしれませんね。

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Junya Higashi

Writer:

これまで旅行に行った土地は鹿児島・霧島や韓国・ソウルなど。世界の土地や風習のことなど、自分の知らない世界を調べて見るのが好きです。旅行経験やライター活動で得た知識が、これから旅行を楽しむ人の役に立てば大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします!

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