”関東の巨鎮”と称えられた幻の名城「清州城」の今と昔

東海道新幹線で新大阪から東京方面へ向かう途中、名古屋駅が近づいてきたかな、というあたりで見えてくるお城があります。見えている天守は平成元年に建設された模擬天守で場所も少し違うようですが、500年以上前、このあたりには確かに、大きなお城があったのです。鉄道と、環状道路と、川に隣接した場所にあった、清州城。天下の名城とうたわれながら、目まぐるしく変わる戦国の時代に翻弄され続けた清州城の歴史と今を、じっくり振り返ってみたいと思います。

天下の名城・清州城の歴史

城は場所が命・清州城が築かれた場所とは

城は場所が命・清州城が築かれた場所とは

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愛知県北西部、名古屋市の北側に隣接する人口7万人ほどの街。
清州城は名古屋城の北西5㎞ほどのところ、五条川という川沿いに立地する平城です。
周囲の土地は比較的平坦で、この地域一帯は東側を流れる庄内川の氾濫にたびたび悩まされていたといいます。

清州城は1405年(応永12年)頃、室町幕府が統治していた時代に、尾張の管領を務めていた尾張斯波家6代目・斯波義重(しばよししげ)という守護大名が築城しました。
清州城が建てられた場所は、京都と鎌倉を行き来する京鎌倉往還(東海道)と伊勢街道が合流し、かつ中山道への分岐点でもあったため、交通の要衝と考えられていたのです。
ただ、実際には、清州城より少し北側に下津城(おりづじょう)という城も設けていて、下津城がメインの尾張守護所。
清州城は別邸という目的で築城されたようです。

この頃の城とは、大名や武家の人々が居宅として使う城と、戦の際の防御用の城、大きく分けて2つのタイプがあったと考えられています。
戦国時代初期頃までは、天守閣のような豪華な施設のある城ではなく、普段は麓の平らなところに作った平城で暮らし、戦いのときは山に築いた城に篭る、と、使い分けをしていたのです。
平城も堀や郭を設けて防御力を高めていましたが、戦うための山城とは構造が異なるものでした。
清州城は平城に分類され、斯波氏の居宅として築かれましたが、あくまでもメインは下津城であり、下津城がある稲沢周辺が尾張の中心地だったと思われます。

織田氏、清洲城にて守護代をつとめる

織田氏、清洲城にて守護代をつとめる

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斯波氏とは、足利幕府を支える三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)の家柄。
後に勃発する応仁の乱でも中心的存在となる有力武将です。
尾張の他にも越前や遠江(静岡県に西側)などいくつかの地域を代々世襲する守護大名でもあり、義重の時代は斯波氏が最も栄華を極めた時代でした。

清州に城を築いた義重には、こんな話が伝わっています。

越前の劔神社(つるぎじんじゃ:別名・織田明神)を訪れた際、神官の子供が大変利発だったので、その子を近習(きんじゅ・主君のそばに仕える者)にしたのだそうです。
後に義重は、成長したその近習に守護として尾張国を治めさせます。
よほど信頼していたのでしょう。
この人物については不明な点が多いらしいのですが、おそらく織田氏の祖であり、織田信長の祖先であろうと考えられています。

室町時代、大名たちは幕府の命令で、大半を京都で過ごし日々執務に追われていました。
そこで、自分の領地の仕事は他の人に任せるケースが多かったのです。
織田氏は斯波氏に代わって、尾張の国を治める守護代となり、次第に力をつけていきます。

時代は少し進んで、1467年(応仁元年)、京都で応仁の乱が勃発。
大名たちは京都での争いに忙しく、地元の領地のことはほったらかし状態になります。
斯波氏も、6代目義重の死後は弱体化してしまっていて、応仁の乱で忙しいし、そこへきて守護代の織田氏が台頭し始め、大きくなっていきます。
さらに同じ織田同士で伊勢守家とか大和守家とか、本家や分家に分かれるようになっていき、織田氏同士で覇権争いを展開。
そして応仁の乱が終わって間もなく、織田氏の本家と分家の争いが起き、尾張守護所の下津城が焼失してしまうのです。

信長の野望・清洲城より始まる

信長の野望・清洲城より始まる

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尾張の国の守護所であった下津城が無くなってしまったので、別宅だった清洲城を守護所として使うことになります。
織田氏のほうは、それまで下津城の守護代をしていた伊勢守家を追い出して、大和守家が守護代として清洲城入り。
この織田大和守家のさらに分家で、家臣として仕えていたのが織田信秀。
織田信長のお父さんにあたる人たちです。

織田信秀はとても優秀な武将としても知られていて、尾張の主要な街を統括し、経済力を身につけて勢力を伸ばしていきます。
その信秀が亡くなると、織田大和守家の当主、織田信友が「信長ではなく弟の信行が家督を継ぐべき」と言ってきたので、信長は織田信友を討ち、弟信行も殺害。
さらに織田伊勢守家も討ち破って、しまいには斯波氏も清洲から追い出してしまいます。

既に天下を見据えていたと思われる織田信長。
職場の社長と直属の上司と自分の弟を亡き者にして、清洲城というしっかりとした地盤を手に入れ、尾張の国を手中に入れます。
信長は清洲城に入り、城の改修工事に着手。
この後、信長は清洲城をおよそ10年間、居城として使用することになります。

清洲城ではこの頃、歴史に名を残す出来事が起きていました。
徳川家康の訪問。
1562年のことです。

両家は父親の代の頃から互いに敵対関係にありましたが、家康は幼い頃、不遇な境遇から織田氏のもとで過ごしていたことがあり、信長とは固い絆で結ばれていました。
しかしお互いの家同士の遺恨は深く、無用な血が流れる可能性もあります。
そこで家康が信長のもとを訪れ、両者の間に同盟が結ばれたのです。
これを後に「清洲同盟」と呼ぶようになります。







時は戦国・清洲会議から関ヶ原まで

信長の後継は誰に?清州会議のゆくえ

信長の後継は誰に?清州会議のゆくえ

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1555年に入城してから、信長は清洲城を大きく改修し、城下の治安の維持に努め、城下町を発展させていきました。
そして清洲同盟の後まもなくして、美濃の斎藤氏との戦に備え、1562年清洲城から小牧山城へと移動。
信長はここから破竹の勢いで天下統一へと邁進し、清洲城は城主のいない番城になります。
10年間、若き日を過ごした清洲城に、信長が戻ってくることはありませんでした。
1582年(天正10年)、本能寺にて、家臣・明智光秀に襲われ、命を落としてしまうのです。

20年ぶりに清州城に注目が集まりましたが、皮肉なことにそれは、信長の後継を決めるための会議の場としてでした。
後に「清洲会議」と呼ばれることとなるこの会議は、本能寺の変の後、信長の後継及び領地の分配について話し合うというもの。
本能寺の変にて信長と共に長男の信忠も自刃ののち果てており、このままでは世の中は混乱し、信長が目指した天下泰平の世は遠のいてしまうかもしれません。

本能寺の変の数日後、主君の仇討の大義名分を掲げた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が挙兵。
明智光秀を討ち、勢いに乗ります。
武将たちの均衡が崩れれば、また争いになるかもしれない。
秀吉が抜きんでるのを抑えようと、信長の家臣の中でもっとも力を持っていた柴田勝家が話し合いを提案。
会議が行われることになったのです。

清州会議の結果、、織田家の家督は、信長の孫でこのときまだ3歳だった三法師(後の織田秀信)が継ぎ、信長の息子たち、次男の信雄と三男の信孝が、甥っ子にあたる三法師の後見人になる、ということで決着。
しかし三法師を担ぎ出したのは秀吉であることは明白だったため、秀吉と勝家の溝は一層深まっていきます。
この翌年、賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家は直接対決。
秀吉は天下取りへと動き始めていました。

織田信雄、清洲城の大改修を行うが追われる

織田信雄、清洲城の大改修を行うが追われる

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清洲会議の後、清洲城は織田信雄が引き継ぐことになります。
信雄は1586年(天正14年)、清洲城の大改修工事を実行。
2重3重に堀が設けられ、大天守、小天守、門塀、居宅等、築き上げた城郭は東西1.6㎞、南北2.8㎞にも及んだのだそうです。
10年ほど前、父・信長が築き上げた安土城も巨大な城郭。
もしかしたら安土城をお手本にしていたのかもしれません。
政の面でも、信長が行っていたように検地を行い、領地内の農業生産高を調べ、様々な政策を推し進めていきます。

賤ヶ岳の戦いでは信雄は弟・信孝とは袂を分かち秀吉に味方。
しかし、父親の家臣だった秀吉に服従することが我慢ならなかったのか、秀吉の命令を拒否して、秀吉に隙をつかれてしまいます。
秀吉は信雄の領地100万石を全部没収。
もちろん清洲城も追われ、見知らぬ土地へ飛ばされてしまうのです。
尾張の国は秀吉の甥で養子の豊臣秀次が統治することとなり、1595年(文禄4年)には豊臣七将の一人、福島正則の居城となります。

信長の血をひいていながら、秀吉ごときを前にうまく立ち回ることができなかった織田信雄。
せっかく頑張って強大な城に築き上げたというのに、信雄が清洲城に戻ることは叶いませんでした。

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