犬山城の観光の前に知りたい歴史。白き最古の名城はなぜ生き残ったのか?

現在、国宝に指定されているお城は5つありますが、その中でもちょっと地味な印象があるかもしれない「犬山城」。江戸時代初期までに建てられて現存する天守閣の中では最古といわれ、木曽川沿いの丘に建つ白く美しい姿に荻生徂徠が唐の詩人・李白の詩に登場する城にちなんで「白帝城」と呼んだ美しいお城です。

もちろん、その美しい姿とは裏腹に血なまぐさい戦国の時代を生き抜き、さらには第二次世界大戦の戦果をくぐり抜けて今もその姿をとどめる犬山城からは、歴史の重みとオーラが感じられます。

さらに戦国の三英傑、信長・秀吉・家康とも関りの深いその歴史を、それぞれの時代でかかわった人々とともに振り返ってみたいと思います。

まずは「犬山城とはどんなお城か」を知りましょう

まずは「犬山城とはどんなお城か」を知りましょう

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犬山城はどこにある?

犬山城は現在の地名で言うと「愛知県犬山市」にあります。
現在でも岐阜県との境に位置する犬山市は室町時代、尾張国と美濃国の境界でした。
尾張・美濃といえば戦国時代、織田氏と斎藤氏の領地です。
この地は尾張を支配する織田氏にとっては重要な土地であったと思われます。
織田氏が築いた砦が後に城として整備されたのです。

ちなみにこの「犬山」の地名の語源には「犬を使った狩りに最適だったので“いぬやま”と呼ばれた」、「平安時代のこの地域、丹羽郡小野郷が山間部であり、“おのやま(小野山)”が転じて“いぬやま”になった」、「大縣神社の祭神「大荒田命」が犬山の針綱神社の祭神の一人玉姫命の父にあたり、大縣神社から見て犬山が戌亥の方角に当ることから、「いぬいやま」が転じて「いぬやま」になった」の3説があります。

さらにちなみに、「犬山」の表記での一番古い文献は14世紀中ごろから存在しているようです。

木曽川のほとりの小高い丘陵地帯に犬山城はあります。
周辺の城下町は今でも古き時代の名残を残しており、美しいその町並みは「尾張の小京都」と称されるのも納得です。

犬山城をのぞいてみましょう

名鉄犬山駅または犬山遊園駅から徒歩で15分ほど、小高い山の上の城門をくぐると犬山城の美しい天守閣が姿を現します。
しかし、その他に大きな建築物は残っていません。
明治になって廃城になった際にほとんどが取り壊されたのです。
矢来門、黒門など一部の門は寺院などに払い下げられて移築され、現存しています。

城の分類としては「平山城」に分類され、天守の外観は三重ですが内部は4階、地下には踊場を含む2階があります。
天守台の石垣は自然石をそのまま積み上げる「野面積」で5メートル、天守の高さは19メートルあります。
天守の南面と西面に平屋が付属する複合型の構造です(総面積698.775㎡)。

現在、天守閣内部はお城を管理する公益財団法人犬山城白帝文庫所蔵の美術品などが展示されています。
戦国時代を生き抜いたお城にふさわしく、お世辞にも登りやすいとは言いにくい階段を登って行くと最上階から城の北側には木曽川が流れ、天守閣最上階からは城下の街並みと共に木曽川の雄大な流れを望めます。
ちなみにこの最上階、床がじゅうたん張りになっているのが特徴です。

犬山城のはじまり

犬山城のはじまり

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織田氏が美濃・斎藤氏への備えに築いた「砦」

室町時代、尾張を治める守護は足利将軍家の一門、幕府の管領職を務める斯波氏でした。
当時は守護職の大名が支配地に在住しない場合は「守護代」と呼ばれる代理人を置きましたが、管領職を務め、さらに尾張の他にも越前・遠江などの守護職も兼ねていた斯波氏も当然、尾張に守護代を置いていました。
この守護代を務めていたのが織田氏です。

織田氏はいくつかの支流(分家)に分かれていて、応仁の乱の際には主家である斯波氏の内紛に応じて「伊勢守家」と「大和守家」が対立、その後は斯波氏の弱体化に乗じて主家を凌いで「戦国大名」として大和守家が清州城を本拠に尾張下4郡を(清州織田氏)、そして大和守家が岩倉城を本拠に犬山城のある丹羽郡を含む尾張上4郡を支配(岩倉織田氏)し、互いに争うようになりました。

岩倉織田氏の当主・織田敏広の弟、広近は斯波氏の命令で美濃の斎藤氏の備えとして丹羽郡の犬山に赴きました。
1469年、広近は木ノ下城を築城、さらに乾山に砦を築きます。
この砦が現在の犬山城のはじまりなのです。

その後、美濃の内紛の時には岩倉織田氏は斎藤妙純に味方し彼を後ろ盾としますが、その斎藤妙純が近江で戦死した後は後援をなくして衰えてしまいます。

織田弾正忠家と犬山城の誕生

こうした岩倉織田氏の混乱の一方で、清州織田氏の側でも状況は変化していました。
もともとは家臣であった「清州三奉行」と呼ばれる織田分派のうちのひとつ、後に織田信長を輩出した「織田弾正忠家」が力をつけて急速に台頭してきたのです。

織田信長の父・信秀の時代、弾正忠家は守護代の家臣の立場でありながら、実力では主である清州織田氏、さらにはその主家にあたる斯波氏をも上回るようになります。
信秀は尾張の各地に一門・家臣を配置します。

1537年、信秀の弟・信康が犬山城の城主となりました。
信康は木ノ下城を廃城として、砦に過ぎなかった現在の場所に犬山城を造営しました。
現在の天守の2階まではこの時代につくられたと考えられています。

織田信康は兄の信秀をよく支え、今川氏との戦いでも武功をあげるなど活躍しました。
また、主家の清州織田氏と対立してきた岩倉織田氏の後見も務めるなど、政治面でも信秀を支え、その勢力拡大に貢献します。
犬山城に配されたのはこの岩倉織田氏との関係からであると思われます。

しかし、この信康が美濃の斎藤道三との戦で戦死、跡を継いだ信清が城主の時代には弾正忠家の当主となった信長と敵対する関係となってしまいました。

織田信長の尾張統一と犬山城

織田信長の尾張統一と犬山城

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