徳川家康が、名古屋城を作らなければいけなかった理由

「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」というのは、江戸時代に伊勢で唄われ、後に全国に広まった民謡の一節です。名古屋の人々から『名城(めいじょう)』との略称で親しまれている名古屋城。大天守に上げられた金のしゃちほこは、名古屋城だけでなく名古屋の街のシンボルとして、今なお多くの人々から愛され続けています。

それほど有名な名古屋城ですが、一体どのような歴史をたどってきたお城なのでしょうか。今回は観光スポットではなく、ひとつのお城の物語としてみなさんと追いかけていきたいと思います。

もともとは違うお城だった?戦国時代は那古野城という名前

もともとは違うお城だった?戦国時代は那古野城という名前

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名将によって建てられた、初代那古野城

名古屋城の前身・那古野城が築城されたのは16世紀前半のことと言われています。
当時はまだ戦国時代が始まるかどうかというくらいの時期。
尾張(現在の愛知県)を狙う今川氏親(いまがわうじちか・今川義元の父)が築城した『柳ノ丸』という砦を、尾張の武将・織田信秀(おだのぶひで・織田信長の父)が奪取して『那古野城』と名付けたことに由来します。

今川氏親と織田信秀は、それ以降も尾張の国境で熾烈な争いを繰り広げていきます。
そのような状況下の1534年、那古野城で生まれたのが織田信長です。
彼は信秀の跡を継ぐと、敵対する他の織田一族をことごとくうち滅ぼして尾張を統一。
1555年、信長はその尾張統一の過程で本拠城を那古野城から清須城に移転しました。

それ以降、戦国時代を通して尾張の中心は清須城となります。
信長が本拠城を岐阜城や安土城に移していった後もそれは変わらず、那古野城はいつの間にか廃城されてしまいました。
信長が清須城に移った直後には、重臣の林秀貞(はやしひでさだ)や叔父の織田信光(おだのぶみつ)が入城していた時期もありましたが、その後ある人物が那古野の地に目をつけるまでは荒れ放題、鷹狩に使われるような荒れ野になっていたと伝えられています。

徳川家康が、名古屋城を作らなければいけなかった理由

そのある人物というのが、尾張三英傑の一人・徳川家康。
信長が那古野城を出てからおよそ50年後の1609年、家康は那古野城の跡地に目をつけ、ここに新たな城の建造に着手します。

1609年とは、天下分け目の一大決戦・関ケ原の戦いから10年近くも後のこと。
もはや群雄が割拠していた時代とは違います。
まさに天下が平定されようとしていた時代に、なぜ家康は城を築こうと考えたのでしょうか。

その目的を理解するためには当時の家康が抱いていた危惧、そしてそれを抱かせるに足るだけの不安定な政治情勢について触れなければなりません。

多くの人が学校の歴史の授業で習う『1600年・関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は1603年に征夷大将軍に就任、徳川幕府を開いた後1614年の大阪冬の陣・1615年の大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼして天下を統一した』という、このたった数行にまとめられてしまう15年の歴史の中に、現在の名古屋城が築かれるに至った理由と、そして名古屋城がなぜこれほど雄壮な城構えとなったかについての理由が隠されているのです。

豊臣家は終わらない!?教科書では伝わらない家康の苦悩

豊臣家は終わらない!?教科書では伝わらない家康の苦悩

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後世の人はさらっと言ってくれるけど、そんな簡単な話じゃないんだよ

多くの人が、関ケ原の戦いについて勘違いしていることがあります。
それは「関ケ原の戦いに勝利したことによって、徳川家康は天下人となった」ということです。
もちろん間違いではないのですが、関ケ原での勝利が天下人に直結したかのような書き方では、当時の家康の苦悩を知ることはできません。

関ケ原の合戦とは、強引にまとめてしまうなら豊臣政権内の実力者・徳川家康と実務派官僚・石田三成が大喧嘩しただけの、あくまで豊臣家内での権力闘争だったのです。
豊臣政権内でいくら邪魔者を排斥したところで、それはどこまでいっても名目上『幼君・豊臣秀頼公のため』としかならないことを家康は知っていました。

そこで家康は、豊臣政権のヒエラルキーから離脱するために、征夷大将軍を受けられるように朝廷工作を行います。
そして、徳川幕府という豊臣政権とは全く別の権力構成で作られた政治機構を立ち上げたのです。

しかし、これだけでは安心できないほど当時の豊臣政権は強大な存在でした。
征夷大将軍は武士の棟梁としてあらゆる武家から尊敬を集める官職でしたが、それでも朝廷内の順位で言えばそれほど高位の官職ではありません。
豊臣政権は、武士である豊臣家が公家・武家を含め位人臣を極めた役職・関白となることによって日本の政治を支配する正当性を得た政権だったのです。

教科書に書かれているよりは不安定な状況だったんです

家康がどれほど「私は征夷大将軍だ!」と言い張ってみたところで、まだ幼い豊臣秀頼が関白に就任した暁には「いや、それでも僕より位は下なんだから言うこと聞きなさいよ」となって話がややこしくなってしまう。
関ケ原の戦いでは家康に味方してくれた武将たちも、もともとは豊臣家の家臣であり、あくまで石田三成を追い落としたいがために家康に協力した面々が多かったこともあり、家康の権力基盤は必ずしも盤石というわけではありませんでした。

秀頼が成人して権力を行使できるようになってしまえば、豊臣政権内で最も力を持つ徳川家が邪魔になってくるのは明白。
唯一の救いは、秀頼がいきなり関白に就任することはなく、関白となるためのコースを順調に歩んでいるために、家康が権力をふるう時間がまだいくらかは残されていたということです。
しかし、すでに老境に差し掛かっていた家康にとって時間は有限なもの。
自身の生があるうちに豊臣家の勢力を削りとり、徳川家を頂点とした政治体系「徳川幕府」を構築しなければなりません。

豊臣家の力を削ぎ、なおかつ秀頼が成人した時に徳川家が絶対的有利な状況を作るのはどうすればよいか。
家康はウルトラCのプランを思いつきます。

豊臣家の力で豊臣家を封殺する名案、天下普請

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次のページでは『名古屋城だけじゃない、家康による築城ラッシュ』を掲載!
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お笑い番組を流しながらギターをつま弾き、小説を読む、うだつの上がらない会社員です。人生楽しく生きるために、やってみたいと思ったことは隙を見てやっちゃうスタイルです。読後感のさわやかな?そんな文章を皆さまにお届けできるよう、日夜あれこれ模索します。

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