歴史と文豪を見守ってきた名湯〈修善寺温泉〉の歴史

東京から箱根の関を越えて静岡県は伊豆まで出、〈桂川〉(修善寺川)が悠々と流れるそのほとり。川をとりまくように温泉郷が広がっています。日本百名湯にも選ばれる、弘法大師=空海ゆかりの古い古い温泉〈修善寺温泉〉です。9世紀に弘法大師によって開かれた〈修禅寺〉はかの鎌倉幕府をひらいた源頼朝の一族・源氏にとって悲劇の場所。またこの桂川の川のせせらぎ、竹林のかそけき響き、都会にはない静寂を求め、数々の文人墨客が愛した土地でもあります。まさかこの地で、夏目漱石が臨死体験?岡本綺堂の書きあげた傑作『修禅寺物語』など、文学も絡めながら、修善寺温泉の今昔をご一緒に。


弘法大師がひらいた修善寺の湯

弘法大師がひらいた修善寺の湯

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この修善寺の地には、狩野川につながる〈修善寺川〉が流れています。
「桂川」と地元の人びとに呼び親しまれているこの川のほとりに修善寺温泉の温泉郷は広がっています。
〈修善寺〉の〈寺〉という文字が示すとおり、ここは仏教の寺ゆかりの地。
それも由緒ひじょうに正しく、かの真言宗の開祖・空海=弘法大師が訪れ、奇跡を起こした土地なのです。
桂川のほとりに温泉が湧いたのは、記録によると9世紀初頭。
現代にいたるまで湯はこんこんと湧き続け、人びとに癒やしとやすらぎを与えています。

弘法大師、親思いの子に感動して……

それは807(大同2)年、平安時代初期のおはなし。
桂川のほとりで弘法大師(空海)は、1組の父子に出会います。
病気の父親の体を洗う少年。
しかし川の水は冷え冷えとして凍えてしまいます。
「それでは寒かろう、冷たかろう」と哀れを催した弘法大師。

すると何を思ったか弘法大師は、独孤(仏教で用いる金属でできた道具)でもって、そりゃっと川の中の岩を打ち砕きます。
するとあたたかなお湯が吹きだし、みるみるうちに温泉はあたりに広がりました。
この湯に病気の父親が浸かりつづけたところ、十数年間悩まされていた病は癒えてしまいます。
これが修善寺温泉の湯治のはじまりです。

弘法大師の開いた〈独鈷の湯〉は、現在も足湯として解放され、無料で浸かることができます。

山に抱かれて歴史を見守る〈修禅寺〉

この伝説と同時期、すなわち802(大同2)年にこの地に〈修禅寺〉という寺がひらかれます。
時代によりさまざまな呼称を経て、現在、正式な名は〈福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)〉。
弘法大師が開いたこの寺は、この伊豆と修善寺の町、そして東国の波乱の歴史を見守ってきました。

江戸時代にいたるまで、東国は戦の連続。
1192年、現在の神奈川県鎌倉市、つまり修禅寺から90キロほど離れたところに源頼朝が鎌倉幕府を開きます。
その後、この修禅寺は幕府の要人を幽閉する施設となるなど、源氏そして北条氏と大きな関わりを持ち、東国の波乱の歴史を見守ってきました。

当初はマイナーな寺院だった修禅寺は、鎌倉、南北朝、室町時代と戦禍を受けるなどして荒廃します。
しかし室町時代中期(戦国時代初期)の武将・北条早雲が伊豆一帯を平定した折、修禅寺を保護し、そのときに武士の間で愛されていた禅宗の一派〈曹洞宗〉に改宗されました。
修禅寺には北条早雲の寄進状、源頼家の肖像など宝物がおさめられています。
修禅寺に寺宝として伝わる、奇妙な「お面」――それについては、次の章で紹介していきますね。

鎌倉時代、源氏悲劇の地

鎌倉時代、源氏悲劇の地

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1192(いい国)つくろう鎌倉幕府、めでたく征夷大将軍として武家政権を開いた源頼朝。
さてそのあと――あれっ元寇に立ち向かったのって、北条氏だよね?そう、源頼朝の嫡流の子孫はわずか2代で絶えています。
その後は頼朝の妻の親戚・北条氏が鎌倉幕府の政治を一手に担ったのです。
ここでは第2代征夷大将軍〈源頼家〉ら、源氏の悲劇をここではご紹介。
血が繋がった者同士でも殺し合わなければならなかった哀しみは、見事な建築や物語を生み出しました。

北条政子が建立した〈指月殿〉

〈尼御台〉(あまみだい)と呼ばれた女傑・北条政子。
「頼朝さまの御恩は、山よりも高く海よりも深い」の大演説を行って御家人たちを感激させ、みずからの息子たちが征夷大将軍の座についたのちもその政治を支えるというカリスマでした。
逆を言えば、彼女の親戚であり土地に根付いた北条氏が政治を行っていれば「将軍家は別にいなくてもいい」という状態となりました。

邪魔者は排除されます。
数々の源氏ゆかりの人びとがこの地で幽閉、自害、暗殺と悲劇に見舞われてきました。
その中でも大きな事件は、源頼朝と政子の息子・第2代将軍・源頼家が修禅寺の湯殿で暗殺されたことです。

尼御台・政子は暗殺された息子を弔うため〈指月殿〉という御堂を建立しました。
しかし一説には政子の父、つまり頼家の祖父が手を下して暗殺したという見方が強く、動乱の世で血の繋がった親子や親族が殺しあっていたのが事実。
その悔いや謝罪の気持ちもこめて、政子は〈指月殿〉に参詣を重ねていたのかもしれません。

〈修善寺物語〉――岡本綺堂の描いた悲劇

現代でこそマイナーですが、かつては国民的作家だった怪談と時代小説の名手がいます。
岡本綺堂(1872-1939)です。
今も彼の名作の数々は青空文庫やKindleで無料で読むことができます。
岡本綺堂は何度も修善寺温泉をおとずれ、とくにこの地で亡くなった源頼家に思い入れを覚えます。
ある日見せてもらった修禅寺の寺宝の中、ふと目に止まったある奇妙な「お面」をに岡本綺堂はインスピレーションを受けます。
そしてこんな物語をしたためました――。

面造りの達人・夜叉王は、第2代将軍源頼家から「自分の面を作ってくれ」と依頼を受けます。
しかしどんなに彫刻してもそこには異様な「死相」が浮かぶばかり。
しかし頼家はその面を絶賛して受けとり、さらに夜叉王のうつくしい娘・桂を奥へと召し抱えて連れて帰ります。
たった一夜のラブロマンス。
しかし北条氏から差し向けられた頼家討伐の兵は迫ります。
桂はただ一夜のご奉公でも頼家のためと男に変装して暗殺部隊を撹乱しますが……頼家は討ち取られ、夜叉王はみずからの腕はやはり天に見込まれたものだったのだと満悦するのです。

この戯曲『修禅寺物語』は傑作とほまれたかく、筆者も大好きな一編。
頼家に惚れこんだ桂の強い愛や、職人としての夜叉王の姿、そして頼家のさびしさなどが見事に描きだされた見事な物語。
現在ではKindleや青空文庫で無料で読むことができます。

江戸時代、そして明治へ

江戸時代、そして明治へ

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さて殺伐とした戦乱も徳川幕府のもとでおさまり、泰平の世・江戸時代がやってきます。
数々の街道が整備され、生活が安定したことによって人びとが旅に出るハードルが低くなりました。
病気平癒のためにと、〈湯治〉を求めて多くのひとが修善寺温泉に集まります。
温泉郷として発展していく、修善寺。
さらに時は流れ、明治時代には、日本では見ることがめずらしい〈正教会〉の聖堂も建てられました。
現在の修善寺温泉郷の姿がどんどん整っていきます。

Writer:

文学少女が世界文学の時代背景に興味を持ち、調べていたら大学では文学部じゃなくて歴史学部に入ることになっちゃった。生粋の文学好き美術好きの27歳です。現在はライターとして活動中。夢はロシアのサンクトペテルブルクでドストエフスキー「罪と罰」ごっこをすること。楽しくおもしろい歴史と本の世界を少しでも伝えられれば幸いです。

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