ロシアの思惑、冷戦、ゴールドラッシュ…アメリカ合衆国「アラスカ」の歴史

アラスカはアメリカ合衆国に属していますが、どうしてひとつだけ離れたところにあるのでしょう?地図を見てみると不思議ですよね。実は、アラスカの歴史にはロシアが深く関係していました。意外にも良好だったかつてのアメリカとロシアの関係が、そこにはあったのです。

アラスカの始まりとロシアによる発見

アラスカの始まりとロシアによる発見

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アラスカに人類が渡ったのは、旧石器時代(約12000年前)だと考えられています。
その頃、ユーラシア大陸とアラスカの間はベーリング地峡でつながっており、そこを通って人々がユーラシア大陸からアラスカへ移住したのでした。

アラスカの先は厚い氷河におおわれていましたが、氷河期の終わりと共に消え去り、人々はカナダへも行けるようになったのです。
そしてアラスカ先住民として、幾つかのグループに分かれて狩猟生活を営むようになりました。

 

その後何世紀にもわたってアラスカは未開の土地となっていました。

しかし、1741年、ロシアの探検隊に所属するデンマーク人航海士ヴィトゥス・ベーリングがアラスカ南部に上陸します。
そして現地の先住民アレウト族と遭遇しました。

ロシアに帰還途中でベーリングは死去しますが、彼らが上陸したことでアラスカがアザラシなど質の良い毛皮の産地だということが判明したのです。
ロシアはさっそく狩りと交易の部署を作り、開発に乗り出しました。
1784年には、グリゴリー・シェリホフがロシアによる初のアラスカ植民地を作り、アリューシャン列島やハワイ、北カリフォルニアまで交易拠点を広げていったのです。

 

そして、1799年にロシアはアラスカをロシア領アメリカとする宣言を出しました。
政府はアラスカ統治をシェリホフの部下アレクサンドル・バラノフに任せます。
彼はシェリホフの会社を引き継ぎ、露米会社を設立しました。

露米会社はアザラシやラッコの漁とその毛皮の売買で莫大な儲けを出します。
その時代、アラスカは貿易の中心となったのでした。

アラスカを狙う列強のまなざし

アラスカを狙う列強のまなざし

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ただ、アラスカの地での食糧難や経費増大、英米商人との競争、毛皮となる動物の乱獲などで経営は悪化し、1861年にはロシア政府が行政権を回収します。

 

アラスカに目を付けていたのはロシアだけではありませんでした。

スペインはロシアの領土拡大にノーを突きつけるため、メキシコから探検隊を送っています。
また、イギリスはジェームズ・クックを派遣し、北西航路の開拓に乗り出しました。
イギリスの場合はカナダを領有していたため、ロシアにとっては脅威だったのです。

このように、ロシアがアラスカの利権を一方的に独占するのはだんだん難しくなっていきました。
加えて、本国ではクリミア戦争が起こり、戦況は良くなかったのです。

ロシア、アラスカをアメリカに売却

ロシア、アラスカをアメリカに売却

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1853年に始まったクリミア戦争でロシアは敗北します。
財政が悪化し、アラスカを維持することは難しくなっていました。
カナダを有するイギリスが攻め込んでこないとも限らなかったのです。

そこでロシアはアラスカの売却を決めますが、その相手はアメリカでした。
イギリスはクリミア戦争の敵国だったので、その選択肢はなかったのでしょう。

1867年、アメリカ国務長官ウィリアム。
スワードとの交渉の結果、アラスカはアメリカに売却されました。
1エーカー(4000㎡)あたり2セント、総額720万ドルの取引でしたが、事実上二束三文での売却劇でした。
2016年のドル換算で1億2300万ドルとされています。
円換算でも100億円超です。

 

アメリカでは、これを「スワードの愚行」「スワードの冷蔵庫」と酷評しました。
しかし20世紀直前に金がアラスカで発見され、実は資源の宝庫だということが判明したのです。

加えて、アラスカはベーリング海峡と北極海を挟んでロシアに相対する土地です。
ソ連との冷戦時には、とても大きな役割を果たすことになりました。

 

アラスカの所有権がロシアからアメリカに移った1867年10月18日は、「アラスカ・デー」となりました。
また、3月の最終月曜は「スワード・デー」となっています。

ゴールドラッシュと州への昇格

ゴールドラッシュと州への昇格

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金が発見されてからのアラスカは、ゴールドラッシュに沸きました。
フェアバンクス、ルビーといった街が造られ、1914年にはスワードとフェアバンクスを結ぶアラスカ鉄道が建設されました。
道路網も整備され、アラスカは鉱山と漁業(タラ、ニシン、サケなど)、缶詰の製造などで発展していきます。

1930年頃には大恐慌が起こり、本国アメリカはひどい不景気に襲われます。
そこで、ルーズベルト大統領は大恐慌で職を失った人たちのアラスカ移住を奨励し、出直しをはかりました。

 

第2次世界大戦ではアリューシャン列島が日本に制圧されたりもしましたが、戦後は物資輸送路が整い、軍事基地が建設されて人口は大幅に増えました。

1959年にはアラスカ州となり、アメリカで49番目の州に昇格しています。







「ロシアのピサロ」アレクサンドル・バラノフ

「ロシアのピサロ」アレクサンドル・バラノフ

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アレクサンドル・バラノフは15歳で家出し、東シベリアのイルクーツクで商人として成功をおさめました。
そして、当時アラスカで事業を拡大していたグリゴリー・シェリホフに雇われます。

バラノフはシェリホフの下でも力を発揮し、新たな入植地を造ってロシア以外の国の進出がないようにと努力しました。

シェリホフの死後は露米会社の支配人となり、莫大な権益のすべてを管理するようになります。
彼は先住民アレウト族の娘を妻にしていましたが、トリンギット族とは対立が怒りました。
入植地でアレウト族とロシア人がトリンギット族に虐殺される事件が起き、後に彼らとのシトカの戦いに発展します。
バラノフは勝利をおさめ、トリンギット族を追い出しました。
そこに築いた新たな拠点が、ロシア領アメリカの首都となったノヴォ・アルハンゲリスクです。

 

バラノフはアシカやラッコ猟とその毛皮によって利益をあげていました。
また、先住民への教育として学校を建設し、ロシア正教の聖職者による布教も行っています。

しかし、先住民たちはみな露米会社に搾取され、奴隷のような扱いを受けていたそうで、聖職者たちはバラノフを非難したそうです。

 

また、ロシアの進出によって先住民、特にアレウト族などは資源が枯渇し、外部からの疫病によってその数が10分の1以下にまで減ってしまいました。

 

バラノフは自らを「ロシアのピサロ」と称したそうです。

かつてスペイン人ピサロが南米のインカ帝国を滅亡させましたが、先住民を搾取し、キリスト教を布教したバラノフのやり方は、ピサロに似ているかもしれません。
ただそれが良かったのかというと、完全には肯定できないとは思いますが・・・。

いかがでしたか。

アラスカがこんなにロシアと関わりが深かったとは、正直意外でした。
世が世なら、アラスカはまだロシアの一部だったかもしれないのです。
そして、いつの時代でも先住民が虐げられる悲しい歴史があったことに、複雑な思いを抱きました。

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