戦火に見舞われながら復活した、ウィーン国立歌劇場 (国立オペラ座)の歴史

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光が楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は、オーストリア「ウィーンオペラ座の歴史」をご紹介します。

世界屈指のオペラの歌劇場!国立オペラ座とは?

世界屈指のオペラの歌劇場!国立オペラ座とは?

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国立オペラ座は、ウィーンのオペラハウスの最高峰でパリのガルニエ宮(パリオペラ座)とミラノのスカラ座に並ぶヨーロッパ三大劇場のひとつです。
音楽の都ウィーンの象徴とされ、クラシック愛好家たちの憧れの存在。
ウィーンのリンク沿いでも一際華やかな存在で、この歌劇場の歴史は約150年。
モーツァルト作曲のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」でこけら落としが行われました。
この場には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベートが臨席し厳かだったようです。

ウィーンはかつてドイツから北イタリアを支配していたパプスブルク君主国の首都で、ドイツやイタリアオペラにとって中心的存在でした。
また、帝都の威信をかけて造られた帝国歌劇場で、世界のオペラをリードするほどの存在になり現在に至っています。
専属オーケストラのウィーン国立歌劇場管弦楽団は世界でも1、2を争うほどの人気ぶりです。
今回はそんなウィーンの象徴「国立オペラ座」の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

ウィーン国立オペラ座のはじまり

ウィーン国立オペラ座のはじまり

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第一次世界大戦の原因かもといわれる苦労人のフランツ・ヨーゼフ1世(在位1848-1916年)の治世に行われたウィーン都市大改造計画の一環として、ウィーン市役所とブルク劇場と共に建設された劇場です。
1920年まで「ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場」と呼ばれています。
これが今のウィーン国立オペラ座の全身です。
この建造物建設計画は1859年に募集されたもので85の応募の中から選ばれています。

建設は1861年から始まり1869年に完成しました。
ウィーンの建築家アウグスト・フォン・シッカーツブルクが基本設計し、エドゥアルト・ファン・デア・ニュルが内装を担当しました。
この二人には悲しい話があり、繊細な性格の持ち主だったファン・デア・ニュルは1868年に自殺し、彼の友人であったシッカーツブルクはニュルが亡くなった2ヶ月後に脳梗塞で他界しました。
二人ともオペラ座の完成を見ることができませんでした。

さんざんな酷評の下にさらされるオペラ座

さんざんな酷評の下にさらされるオペラ座

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実はこのオペラ座は、ドイツやイタリアオペラの中心として建てられ、国際的スタンスでオペラ界をリードする存在として建てられたのです。
外観は1865年10月7日に外装が完成し公開され、1869年5月25日に完成公開されました。
総工費600万グルデン、客席数2324席、面積は8709㎡の大劇場として誕生しました。
1869年5月25日に行われたこけら落としのオペラ座の評価は散々なもので、ニュルの自殺の要因はこの酷評からでした。

建物がロンバルディア、フランス、ドイツのルネッサンス様式を統一した、ネオルネッサンス様式で造られました。
完成したオペラ座を見た人々は、時代遅れ、有り触れたリバイバル建築、入口のアーチが盛り土により1mも低くなったことで「皇帝は新劇場を『沈んだ箱』と評した」という噂までたつ始末。
なんだか聞くだけで胸がつまるような気がしてきます。

オペラ座の内部の見どころ

オペラ座の内部の見どころ

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内部装飾にはウィーンの有名芸術家が腕を振るっています。
その代表は画家のモーリッツ・フォン・シュヴィントが担当した、玄関ホールの装飾画とロッジャにあるモーツアルトのオペラ「魔笛」のフレスコ画のシリーズです。
オペラ座の正面にある回廊の二階に立つ5体の立像はそれぞれヒロイズム、ドラマ、想像、喜劇、愛を表しています。
また、内部の吹き抜けの壁には「オペラ」と「バレエ」というテーマで書かれた2枚のフレスコ画が飾られ、芸術を表す7体の像が置かれています。
建物や室内装飾をじっくり見るのも素敵ですね!

グスタフ・マーラーによるオペラ座の改革

グスタフ・マーラーによるオペラ座の改革

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1897年に総監督となった作曲家のグスタフ・マーラーは積極的に新世代のアーティストを起用しました。
彼の改革は凄まじいもので、オペラ座が最初の最盛期を迎えたのは彼の時代でした。
舞台デザイナーアルフレート・ロラーなどを雇い、古臭くなっていた舞台装置をモダニズムやユーゲントシュティール風の様式の簡素なものに変えました。
上演中に照明を落とす慣習を作ったのも彼です。

照明を落としたことによる批判はかなり強かったようです。
それもそのはず、当時のオペラ座はまだ貴族の社交場のようなものでした。
舞台を見ながらお菓子を食べおしゃべりをするのが常識といった感じの時代です。
これを不快に思っていたマーラーは、オペラに集中させるため、飲食禁止、上映中の出入り禁止、おしゃべり禁止という決まりを作りました。
おしゃべりの禁止については苦労があったようで、この照明を落とすということで回避しました。
いつの時代も女性のおしゃべりは止まらないものですね。

これだけではありません。
彼は舞台転換の間の時間稼ぎに音楽を挿入することや、これまでオペレッタの上演がなかったウィーンにオペレッタも持ち込みました。
最初のオペレッタの上演はウィーン宮廷歌劇場でヨハン・シュトラウス2世にオペレッタ「こうもり」を依頼したことからでした。
ウィーンオペラ界の革新を遂げたグスタフ・マーラーはアイディアマンで本当に凄い人だったのだと改めて感じます。

オペラ座が悲劇へと向かう時代

オペラ座が悲劇へと向かう時代

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1916年ごろは、総監督のリヒャルト・シュトラウスのナクソス島のアリアドネや影のない女が世界中で一番早く上演されるなどオペラ座は輝かしい時代を送っていました。
しかし、1938~1945年には多くのスタッフやアーティストがナチスに追われ、追放されました。
中には暗殺されるものも出るほど。
作品の多くは上映禁止となりオペラ座の闇の時代になってしまいました。

第二次世界大戦中の1945年3月12日には、連合軍の爆撃によりオペラ座は大きな被害をこうむりました。
120作以上のオペラで使われる舞台装置や15万着もの衣装や大道具・小道具を焼失しました。
しかし、モーリツ・フォン・シュヴァイエのフレスコ画のあるホワイエと正面階段、連廊は戦火を免れましたが、劇場として機能することは不可能でした。

オペラ座の復活

オペラ座の復活

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1945年5月1日にはフォルクスオーパーでモーツァルトの「フィガロの結婚」が上演されました。
1945年10月6日に急遽修復された、アン・デァ・ウィーン劇場でベートーヴェンの「フィデリオ」が上演されました。
その後10年もの間この2つの劇場が代替劇場となりました。
ウィーンの上演と連携していたザルツブルク音楽祭は、独自のプロダクションを作り活動しています。

1945年5月24日に、当時公的機関の建設を担当していたユリウス・ラープ建設担当大臣が再建を公示しました。
10年もの月日と莫大な費用をかけて再建されたオペラ座は見事に修復されています。
再建されたオペラ座は収容人数2280人で、総監督には再びカール・ベームが就任しました。
再建後の最初の上演は、1955年11月5日のベートーヴェンの「フィデリオ」です。
オープンは華々しく行われ、式典はオーストリアのテレビで放映されています。

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