パリの歴史を見てみよう:パリシイ族から始まったパリの中世は波乱の連続だった

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光が楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日はフランス「パリの歴史」をご紹介します。

世界中の人々が憧れるパリはますます進化中

世界中の人々が憧れるパリはますます進化中

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フランスのパリは、ファッションにグルメと中世から流行の最先端を走り続ける魅力あふれる街です。
リッツやクリヨンなどパリを代表する老舗ホテルの改修工事も終わり一段と進化した町へと変化を遂げています。
凱旋門、ルーヴル美術館、ノートルダム大聖堂、エッフェル塔や2つのオペラ座など定番観光地を巡るだけでもかなりの見応えです。
2015年11月に悲しい事件が起こりましたが、現在は元気を取り戻し活気に満ちた観光地としての雰囲気を取り戻しています。

レ・アール地区の整備計画に伴いジャン・ヌーヴェ氏設計の曲線を多用した素敵な建物の複合施設「ラ・カノペ」のオープンや、シャンゼリゼ通りも2016年春より月に一回歩行者天国となり賑わいを見せていますよ。
ロダン美術館のリニューアルや造幣局には3つ星レストランの登場もあり人気急上昇中です。
2020年には42階建ての「トライアングル・タワー」を建設する予定もあり、今後の進展にも注目が集まっています。
今回は、フランスパリの歴史に触れてみたいと思います。

パリはシテ島から始まった

パリはシテ島から始まった

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花の都と呼ばれるパリは、セーヌ川を挟み右岸と左岸で形成された美しい町です。
紀元前250年ごろにセーヌ川の中州にケルト人民族が住み着いたことからパリが始まりました。
この中洲がパリの始まりとして有名なシテ島です。
シテ島はかつてルテティアと呼ばれパリシイ(シテ島に住み着いたケルト人)たちは、城壁を作って住んでいました。
このパリという名前も、パリシイから付けられたようです。
ここから何千年もパリは破壊と再生を繰り返すこととなります。

シテ島といえば12~13世紀に建てられたゴシックの傑作と呼ばれる「ノートルダム大聖堂」。
われらの貴婦人と呼ばれる荘厳な建物と美術史上重要といわれるステンドグラスで有名な観光スポットです。
このノートルダム大聖堂の重要性を訴えたユゴーの「ノートルダム・ド・パリ」は映画やミュージカルでも人気の高い作品です。

都市へと作られてゆくパリ

都市へと作られてゆくパリ

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パリ地域最大の集落はかつてパリ郊外のナンテールにあった可能性が高いといわれています。
パリは繁栄し、河川の航行や交易の拠点として戦略的意味を持つ重要な地となっていたのです。
紀元前25年にはウェルキンゲトリクスという英雄が誕生し、ガリア戦争後にガリア部族を初めて統一しました。
その後激しいゲリラ戦を繰り広げるなど、かつてローマ帝国を苦しめましたが、力及ばずアウァリウム包囲戦で陥落してしまいます。
その後幾度も反乱を起こしますが鎮圧され、ローマ人の支配に下りました。

1世紀にパリもローマ帝国の都市として整備され、共同浴場などが造られました。
ケルトのころからシテ島には既に神々が祀られ信仰があったとされています。
ローマ帝国がパリを征服したころには、シテ島の西側では行政があり、東側では祭祀が行われていたのです。
ローマ帝国がキリスト教化された後も受け継がれ、西には王宮が東には大聖堂も造られました。
もう、この頃から現在もシテ島で見られる東西の棲み分けが行われていたようです。

シテ島と陸地を結ぶセーヌ川にかかる橋

シテ島と陸地を結ぶセーヌ川にかかる橋

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中世のパリにはシャンジュ橋の近くに左に向かってグラン・ポン、右に向かってプチ・ポンという橋がかけられていたようです。
グラン・ポンの上には両替商や金細工の職人たちが住みながら店を出していた光景について、3世紀ごろの聖ドニの生涯を描いた挿絵が写本に載っています。
プチ・ポン橋の上には重い荷物を運ぶ人や店先で値札を切っている人、ボートに乗った聖者たちが楽譜を手に聖歌を合唱する姿も描かれています。
この挿絵は14世紀のもので、市民が暮らしを垣間見られる貴重な資料としてパリ国立図書館に保存されています。

パリといえば1604年に建てられたポン・ヌフ橋も有名で、この橋の上にも当時は見世物小屋や露店がありました。
橋は改修され店はセーヌ河岸に移動し、現在もパリの風物詩の一つとなっているブキニストの前身となったのです。
6世紀ごろには、当時パリ市民の心のよりどころとなっていた、サン・ジェルマン・デ・プレ教会が建てられています。
一端ノルマン人によって破壊されるも990年から再建された後、文化の黄金期を迎えた17世紀に拡張され、現在は哲学の街にふさわしい教会として観光名所となっています。

中世のころのパリ市民の暮らし

中世のころのパリ市民の暮らし

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1世紀ごろは8ヘクタールほどのシテ島のみだったパリは、14世紀ごろには市街の面積が約439ヘクタールに及んでいたようです。
人口も5~6000人だったのですが、この頃には20倍の10万人にも膨れ上がっていました。
この数字だけでも、パリが中世でどれだけ発展したかがわかりますね。
また、職業も450を超える職種があり、水道やペットボトルが普及し、現在にはない水売りはという仕事は、当時なくてはならない存在だったようです。

1590年に中世のパリ最大といってもよい事件が起こります。
パリ市民の反発を受けたアンリ4世によってパリが攻撃されたのです。
この攻撃によりパリには貧困が広がりました。
8月30日には攻撃は収まったものの、パリの経済は困窮し聖職者や慈善団体により救済が行われたものの大変な事態でした。
1594年に市民たちの抵抗もむなしくアンリ4世は市政府との連座のもとにパリに入り、フランス王に即位しました。

フランス革命へと向かうパリ

フランス革命へと向かうパリ

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17世紀のルイ14世の時代は、「太陽王」と呼ばれるほど平和で幸せな時代でした。
ルイ14世は「新たなローマ」を造り上げようとしました。
しかし、彼はパリを好まず、ヴェルサイユ宮殿に入り浸っていたようです。
ここまでにパリは他の都市とはかけ離れて繁栄しており、17世紀の半ばには人口約50万人に達しており、建物は約25,000棟に及んでいました。

18世紀末になるとまた市民は貧困に陥り、1789年の大改革へと発展します。
7月14日に運命の日が訪れました。
フランス革命の引き金となった、バスティーユ牢獄襲撃です。
これにより、パリはますます食糧供給が悪化し、10月には怒り狂った人々が宮殿に襲撃します。
マリー・アントワネットが「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」といったという逸話は有名ですね。

フランス革命による悲劇

フランス革命による悲劇

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王家はチュイルリー宮殿に幽閉されますが、脱出を企て再びパリに戻されました。
フランス革命は終息へと向かいました。
しかし、外国から占領されるとの噂が立ち、再び混乱に陥りました。
1792年8月10日に王の退位を国民議会に要求するも却下され、市民はチュイルリー宮殿を襲撃。
急進派が実権を握り、9月22日に王権は公式に失われました。
翌月、新体制への懸念を受け2000人以上が虐殺、パリ侵略を目指したプロセイン軍は敗北しました。

現在パリの要でありパリの美の中心とされているコンコルド広場で1793年1月21日にルイ16世が、10月16日にマリー・アントワネットがギロチンにかけられ処刑されました。
1794年7月には穏健派が主導権を握り、急進派であったダントンやロベスピエールら革命の指導者たちやデュ・バリー夫人ら貴族たち1119人が1795年までにこの広場で処刑されています。

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