おもしろくてわかりやすい、古代ローマの歴史

古代ローマ帝国は史上はじめて、そして史上唯一、地中海世界を統一した大帝国です。その遺跡は地中海各地にいまでも残り、そして現代のわたしたちも、法律やインフラ、政治体制から暦にいたるまで、おおくの遺産をローマ帝国から引き継いでいます。とくに地中海の国々を旅するなら、ローマの歴史ははずせません。ということで、千年以上にわたるその歴史を、教科書よりわかりやすく、参考書よりもおもしろく伝えたいと思います。

神さまも登場、ローマ建国の物語

ローマ人のルーツはトロイにあった?

ローマ人のルーツはトロイにあった?

image by iStockphoto

はるかな昔、いまのトルコの西岸にトロイという都市が栄えていました。
トロイは周辺の覇権をめぐってギリシアと争っていましたが、やがてギリシア軍に攻められ、城壁のなかに木馬を招き入れてしまい、そのワナによって滅ぼされてしまいます。

唯一トロイから落ちのびたのが、トロイ王の婿アエネイスでした。
アエネイスは幾多の困難のすえに、イタリア半島の中部、ティベル川という大河が流れる場所にたどりつきます。
そこにはラティヌスという王のおさめる国がありました。

アエネイスはラティヌス王に気に入られ、王の娘をめとって、やっとそこに定住します。
やがてアエネイスの息子が王位を継ぎ、王国とその周辺はラティヌス王にちなんで「ラティウム」と呼ばれるようになっていきました。
これが「ラテン」という呼び名の語源。
ちなみにいまでもイタリア語、スペイン語、ポルトガル語などを話す人々を「ラテン人」と呼ぶのは、これらの言葉が古代ラテン語をもとにしているからです。

ときはながれ、王国に継承あらそいが起こります。
王のひとり娘が次の王を産むまえに、その叔父が王となり、娘は処女のまま巫女にされてしまいます。
しかし娘が川のほとりでまどろんでいたところ、天にいた軍神マルスが彼女にひとめぼれ。
二人は愛を交わし、娘は双子を宿します。
それに気づいた叔父はかんかんに怒り、やがて産まれた双子をカゴにいれて川に流してしまいました。
この双子がローマを建国するのです。

オオカミに育てられた双子

双子の赤ん坊をのせたカゴはティベル川をくだり、海にたどりつくまえに川岸の枝にひっかかって止まりました。
そこは七つの低い丘が集まってそびえている場所でした。
そこに一匹のメスオオカミがあらわれて、カゴを見つけます。
オオカミはカゴを拾いあげて近くの丘まではこび、そこでみずからの乳で双子を育てはじめました。
やがて今度はひとりの羊飼いが双子を見つけ、かれらを引きとって、ロムルスとレムスと名付けました。

ロムルスとレムスは成長すると、すぐに若者たちのボスになりました。
立派に育った双子をみて、羊飼いは出生の秘密を伝えます。
復讐を決意したロムルスとレムスは3000人の若者たちを引きつれて、生まれた国へと舞い戻り、叔父をたおしました。
そして二人は王位を継ぐことなく、自分たちだけの新たな国をつくろうと決意します。
その場所こそ、かつてオオカミに育てられた場所、七つの丘がそびえる土地でした。

ロムルスとレムスは建国のさなか、ささいな兄弟ゲンカをおこし、レムスは戦闘中に死んでしまいます。
そこでロムルスはオオカミに育てられた丘のうえで、神々に生贄をささげる式をおこない、そしてみずからの名前にちなんだ「ローマ」の建国を宣言します。
こうして紀元前753年4月、ロムルスを初代王として、わずか3000人の民とともに、ローマの歴史ははじまりました。

発展と、滅亡の危機、そして再起するローマ

王政から共和政へ

王政から共和政へ

image by iStockphoto

建国当初から、ちいさな都市国家ローマはまわりの部族との戦闘に明け暮れます。
そしてそのほとんどに勝利し、しだいに一目おかれる存在になっていきます。
たくさんの部族や多くの有力者たちがローマに移り住みましたが、ローマ人はかれらに自分たちとまったく同じ権利を与えました。
敗者も外国人も同化してしまうローマのこうしたやり方が、古代アテネとちがって、ローマを都市国家から巨大帝国へと発展させていきます。

ロムルスをふくめて王政は七代つづきましたが、紀元前509年、独裁政治をおこなった王を追放して、ローマは共和政となります。
王に代わって執政官とよばれる二人が一年任期で政治にあたるようになりました。
この執政官は戦争のさいには司令官としてローマ軍を指揮しました。

また、元老院というローマの議会がより強化されました。
三百人に増員され、任期も終身、執政官も元老院から選ばれるようになりました。
この元老院が共和政時代のローマをうごかしていきます。
いまでもローマの街を歩くといたるところで「S.P.Q.R.」という文字をみかけますが、これは「元老院とローマ市民」というラテン語の略語です。

こうしてあらたな政治体制のもとでさらに発展していくローマでしたが、前390年、とつぜん滅亡の危機に立たされます。
ケルト人の来襲です。

どん底から立ち上がる、前よりも強くなって

ケルト人は現在のフランスあたりに住んでいた屈強な人々で、ローマ人からは「ガリア人」と呼ばれ恐れられていました。
かれらの一派が紀元前400年前後にイタリア半島北部へとすすみ、つぎつぎに部族を平定して、ローマへと迫りました。

そのころローマでは貴族と平民の抗争がつづき、カミルスという当代きっての名将もその抗争にまきこまれて亡命していました。
そこにケルト人が大軍をひきいて南下してきたからたまりません。
ローマ軍は大敗し、建国後はじめてローマの街は外国の軍隊にふみ荒らされます。
襲われ、奪われ、殺されて、のこりのわずかな人々は丘のひとつに立てこもるしかありませんでした。

七ヵ月後にケルト人たちは引きあげます。
理由はわかりませんが、ローマ人が身代金を支払ったからとも、カミルスが亡命先からかけつけたからとも、ケルト人たちが飽きたからとも言われています。
どん底のローマに、周辺の部族も見切りをつけて、四方から攻めてきました。

ここでローマはふんばります。
カミルスをふたたび司令官にして連戦連勝、国内では破壊された市内の再建をいそぎ、貴族と平民の抗争を解決するための法律も定められました。
そして国内を統一したローマは周辺の諸部族とあらたな関係を築きます。
ふたたび反乱を起こさないように、相手によって自治を与えたり、個別に同盟を結んだり、植民地にしたりと、差をつけることで部族どうしが結束しないようにしたのです。

こうしたたくみな政策によって、ローマは息をふきかえします。
そして前にもまして力をつよめ、ついにイタリア半島を統一していくのです。

イタリアから地中海へ、勢力をひろげるローマ

ローマ人は土木工事の天才?

ローマ人は土木工事の天才?

image by iStockphoto

紀元前300年前後には、ローマはイタリア半島における一大勢力となりました。
ローマの街には各地から人が集まり、巨大な都市へと発展していきます。

王政期にはすでに七つの丘だけでは手狭になり、低地の開発もすすんでいました。
最初に開発された低地は「フォロ=ロマーノ(ローマの広場)」と呼ばれ、このころには政治経済の中心地になっていました。
また水の需要も増してきたので、水道も整備されました。
水源地から何十キロにもわたって微妙な傾斜をつけた水路がつくられ、そのいくつかは2300年後のいまも使われています。
水道橋の遺跡も各地に残っています。

また街道も整備されました。
前312年のアッピア街道からはじまり、ローマと周辺部族とをつなぐ多くの道が舗装され、道幅をひろげ、橋をかけトンネルをほり、まっすぐに直されました。
国土開発ともいえるこうした事業はローマ人が史上はじめておこなったもので、「すべての道はローマに通ず」と称えられました。

こうして力を増したローマは中部の山岳民族、北部の諸部族、そして南部のギリシア植民地を征服して、前272年にイタリア半島を統一します。
そのさらに南にはシチリア島がありました。
そしてこのシチリア島をめぐって、当時地中海世界で最大の国だったカルタゴとローマは戦うことになります。

二人の名将、ハンニバルとスキピオの対決

カルタゴはいまのチュニジアに首都をおく海洋国家で、北アフリカ一帯と、スペインと、そしてシチリア島の大半を支配していました。
前264年、ローマはカルタゴに開戦します。
急造の船でカルタゴ海軍をやぶり、ローマはシチリアを手に入れました。
戦争は終わりましたが、カルタゴ人のなかでただひとり、ローマへの復讐心に燃える男がいました。
名将ハンニバルです。

前218年、ハンニバルは地元スペインから十万の兵士と37頭のゾウをつれてローマへと向かいます。
ピレネー山脈を越え、大河をわたり、アルプス山脈を越えたときには二万六千人の兵士と20頭のゾウになっていましたが、とつぜんのハンニバル来襲にローマは驚き、戦争の準備を急ぎます。
こうして二回目の戦争がはじまりました。
八万七千人の軍勢で迎えうったローマ軍を、ハンニバルは全滅させます。
その後ハンニバルはイタリア半島を駆けめぐり、同盟国がつぎつぎとハンニバル側につき、ローマは解体の危機をむかえます。

ここでローマ側にもうひとりの名将スキピオが現れます。
スキピオはスペインにわたってハンニバルの地元を征服し、ついで北アフリカへわたり首都カルタゴに迫ります。
どんな武将もスキピオにはかなわず、ついにカルタゴはハンニバルを呼び戻します。
こうして二人の名将が決戦し、激戦の結果スキピオの勝利におわります。
二回目の戦争が終結し、ローマはスペインを手に入れました。

その後、前146年には三回目の戦争にもローマ側が勝利して、カルタゴは完全にローマの支配下になりました。
こうしてローマは徐々に地中海世界の覇者となっていくのです。

社会が変わり、そしてあらたなリーダーが現れる

社会が変わり、そしてあらたなリーダーが現れる

image by iStockphoto

属州が増えて、変わっていくローマ社会

カルタゴとの戦争のほかにも、ローマは地中海各地で戦争をし、領土をひろげていきました。
こうして得た領土は「属州」とよばれ、属州の各都市がローマ式の土木工事により整備されていきます。
マッシリア(いまのマルセイユ)、ロンディウム(ロンドン)、ウィンドボナ(ウィーン)などはこうして整備された都市です。
ちなみに「属州(プロヴィンチア)」がそのまま名前になった都市もあります(プロヴァンス)。

属州の人々はローマ市民とちがって、小麦などの税をおさめる義務がありました。
こうした大量の富がローマに流れこみ、ローマは一気に裕福になります。
属州が増えるほど生活もよくなるので、ローマ市民たちはもっと征服戦争を望みました。
紀元前100年前後までには南フランス、ギリシア、トルコ西岸、シリアまで属州となり、ローマの覇権は地中海の東にもおよぶようになります。

しかし富が増え、属州が増したことで、ローマ社会は変わっていきます。
巨万の富をもつ富裕層があらわれ、いろいろなキャンペーンで貧しい人々の支持をえて要職につくようになりました。
また元老院だけでは広い領土を治めきれず、属州を治めていた総督たちが力を得ていきました。
有力者どうしの争いや、同盟国の反乱、奴隷反乱もあいついで、社会はますます混乱していきます。
やがて人々は強力なリーダーシップを求めるようになりました。

「賽は投げられた!」

前60年、三人の強力なリーダーがあらわれます。
剣闘士の反乱を鎮圧したクラッスス。
地中海の海賊を一掃したポンペイウス。
そして名門貴族のユリウス=カエサル。
とくにカエサルはこの時点で、共和政の限界を感じ、あらたな政体のビジョンを持っていました。
カエサルの呼びかけで三人は会合をひらき、元老院を無視して自分たちで政治をおこなおうと決めます。
しかしクラッススが死ぬと、ポンペイウスとカエサルはしだいに対立していきます。

とくにカエサルがガリア属州の総督となり、わずか8年で100万人いたといわれるガリア人(ケルト人)の土地をすべて征服すると、カエサルの人気は急上昇します。
前390年にローマを荒らしたあのケルト人をすべて従えたのだから当然ですが、それでポンペイウスはますますカエサルと対立し、元老院に近づきます。
元老院もカエサルの人気を恐れて、ガリア総督はクビ、軍も解散しろという最終通告を出します。

歴戦の兵士たちをつれてローマに帰る途中だったカエサルは、イタリア中部のルビコン川の手前でその通告を知ります。
そして兵士たちにむかってこう告げました。
「ここを渡れば、人間世界の破滅。
渡らなければ、わが破滅。
進もう、神々の待つところへ。
われわれを侮辱した敵の待つところへ。
賽は投げられた!」。
こうしてローマはカエサル対ポンペイウスという内戦に突入します。

英雄カエサルがローマを帝政へみちびいた

英雄カエサルがローマを帝政へみちびいた

image by iStockphoto

カエサルの大改革

ポンペイウスは防御に向かないローマを捨てて、イタリアも離れ、みずからの影響下にあるスペインやギリシアに逃れます。
カエサルは戦わずにローマとイタリア半島を手にしました。
国内を統治したあと、カエサルはまず西に向かい、南フランスやスペインでポンペイウスの部下をやぶります。
ついでギリシアに向かい、ポンペイウス自身と決戦、これにも敗れたポンペイウスはエジプトに逃げます。

当時のエジプトは姉弟で王位を争っていて、ポンペイウスはそれにまきこまれて殺されます。
追ってきたカエサルは姉に味方して争いをおさめました。
この姉がクレオパトラ。
ちなみにカエサルは大の女好きでしたので、すぐに彼女を愛人にしてナイル川での二ヶ月の休暇をすごしています。
その後カエサルは地中海各地でポンペイウスの残党を打ち負かし、紀元前47年にローマに凱旋しました。

それからカエサルは大改革をはじめます。
まず元老院を無力にして、みずからに権力を集中させます。
経済を安定させ、同時に選挙法も改めて社会の風通しをよくします。
失業者用の植民地をきめたり利息の上限をさだめたりして貧困救済もおこないます。
首都ローマの再開発や暦の改正もします。
そして属州総督すべてをみずから任命するようにして、中央集権型の巨大帝国へとローマを生まれ変わらせました。

こうした大改革を、カエサルはひとりでおこないました。
しかしカエサルへの権力集中をよくおもわない元老院の一派によって、前44年、カエサルは暗殺されました。
カエサルの意志は、彼の養子オクタウィアヌスに引き継がれます。

カエサルの意志を継ぐ男

オクタウィアヌスはカエサルの妹の孫で、二人に深い関係はありませんでした。
しかしカエサルの死後、かれの遺言に「オクタウィアヌスをカエサルの養子とし、自分の財産と家を相続させる」とあったため、オクタウィアヌスは18歳で一気に政治の中心に立つことになります。

これに反発したのがカエサルの部下アントニウス。
自分こそカエサルの後継者だと言って対立し、やがてふたたび内戦に突入します。
オクタウィアヌスは各地で勝利をおさめ、最後にエジプトに逃げこんだアントニウスを、彼をかくまったクレオパトラもろとも滅ぼします。
こうしてローマはふたたび統一され、ついでにエジプトも属州になりました。

ローマに帰ったオクタウィアヌスは前27年、共和政への復帰を宣言します。
元老院はおどりあがるほどに喜んで、彼に「アウグストゥス(尊厳ある者)」という尊称をおくります。
しかしこれが彼の手でした。
彼は元老院と仲良くやりながら、うらですこしずつカエサルの改革を進めようとしたのです。
じっさい彼はみごとな政治家で、内閣をつくったときも、最高司令官になったときも、属州の半分は彼の支配としたときも、元老院は大賛成したのでした。

こうしてローマはカエサルの意志を継いだアウグストゥスによって、共和政から、皇帝ひとりが治める帝政へと移ったのです。

カエサルとアウグストゥスってどんな人?

ハゲの女たらし、カエサル

カエサルとアウグストゥスによってローマは帝国として安定し、地中海世界の人々はこれ以降の約200年間、「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」という平和と繁栄を手にいれます。
いったい、これほどの大事業をなしとげたカエサルとアウグストゥスとはどんな人物だったのでしょうか。
いくつかエピソードを紹介しましょう。

カエサルがまだガリア総督になる前のある日の元老院でのこと。
とある陰謀にかかわったとして疑われていたカエサルは一通の手紙を受け取ります。
カエサルを問いつめていた議員カトーは「その手紙こそ陰謀の証拠だ、見せろ」と手紙をうばい読みはじめます。
そこにはカトーの姉からカエサルへの愛のことばが書かれていました。
まっ赤になったカトーは「この女たらし!」と叫び、元老院は笑いにつつまれました。
ちなみにカエサルは元老院議員のかなりの妻とも関係をもっていたそうです。

またカエサルは若いころからハゲに悩んでいました。
政敵はおろか部下にまで「ハゲの女たらし」とからかわれるので、ハゲをかくすために月桂冠をつねにかぶっていたそうです。
これが後の王や詩人、ナポレオンなどにマネされました。
ちなみにローマ帝国の第一人者を「皇帝」と呼ぶのも後世のことで、当時の正式名称は「カエサル」、つまりカエサルの後継者です。
いまでもドイツ語の「カイザー」にその名残をとどめています。

我慢づよさは一流だったアウグストゥス

またカエサルは演説も文章も一流で、彼の著作『ガリア戦記』は古代ラテン語の名文とされています。
それにくらべて、アウグストゥスは演説が下手でした。
元老院で話していても「何を言いたいかわからない!」と議員たちからヤジがとぶほどでした。
そんなとき彼は言い返しもせず、処分もせず、ただトボトボと議場を後にするだけでした。
アウグストゥスの息子がなぜ放っておくのかと問いつめます。
彼は答えました。
「かれらがわれわれに剣を向けないだけでも、満足しなければいけない」。

こうした我慢づよい性格のアウグストゥスが40年ものあいだ元老院をもちあげたことで、そしてローマの人たちから絶大に支持されたことで、その後の皇帝たちも安定して帝国を治めることができました。
5代皇帝ネロなどは暴君として嫌われていたのに、それでも帝政という制度を改めようという動きがなかったのは、アウグストゥスのおかげでもあります。

つづく100年間に、ローマは絶頂期をむかえます。
さまざまな品物が街道や地中海をつたって運ばれ、人々は劇場や闘技場でのエンターテインメントを楽しみ、水道橋も各地につくられて水をとどけ、特に首都ローマでは公衆浴場(テルマエ)で多くの人が汗をながしました。
こうした遺跡の数々はいまでも地中海各地に残されています。

ユリウス=カエサルとアウグストゥスがつくりあげたローマの繁栄。
かれらの業績をたたえ、カエサルの誕生月である7月は「ユリウス(July)」、つづく8月は「アウグストゥス(August)」と呼ばれるようになりました。

ローマの絶頂期、そして終わりのはじまり

ローマの絶頂をつくりあげた5人の皇帝たち

ローマの絶頂をつくりあげた5人の皇帝たち

image by iStockphoto

2世紀のローマ絶頂期を演出したのは、「五賢帝」とよばれる5人の皇帝たちでした。
1人目はネルウァ。
彼は70歳で皇帝になったため3年後には亡くなりますが、元老院と絶妙のバランスをたもって帝国をさらに安定させます。
2人目はトラヤヌス。
彼はローマ皇帝初の属州出身者で、いまのスペイン南部の生まれでした。
ネルウァから後継者に指名されてのち、彼はダキア(現ルーマニア)を攻めて征服し、またメソポタミア(現イラク)まで一時征服して、帝国の領土を最大にひろげます。

3人目はハドリアヌス。
彼もスペイン南部の属州出身者でした。
彼はトラヤヌス時代の拡大路線をすてて安定路線をとり、帝国内を14年間歩きまわって属州すべての防衛システムとインフラを再整備していきます。
4人目はピウス。
「慈悲深い」という名前のとおり、穏やかで優しくて、テルマエに行くと必ずそこにいた市民たちの代金も払ったりしました。

そして5人目がマルクス=アウレリウス=アントニヌス。
哲学者でもあった彼は高い知性と自制心あふれる人柄で人気を博しました。
またこれら五賢帝の時代には、帝国以外の国々との取引もさかんになりました。
中国の絹やアラビアの香料、東南アジアの香辛料などがシルクロードをつうじてローマに運ばれ、代わりに金やガラス製品などが輸出されました。
こうした取引をしめす証拠として、この時代のローマ金貨が世界各地で見つかっています。

衰退と分裂、ローマは外から攻めこまれる

しかし2世紀の終わりころになると、ローマ帝国はすこしずつ衰退していきます。
200年間の平和ボケによって、ローマ市民たちは兵士という義務を忘れ、ぜいたくな食事とさまざまな娯楽を楽しむだけになります。
それによってローマでは兵士のなり手が不足し、軍事力がおとろえていきます。

また帝国各地の属州では、アウグストゥスの時代から常備軍が置かれるようになりましたが、この常備軍が属州の金持ちと結びついて、一大勢力になっていきます。
とくに2世紀後半、天然痘が流行して経済が落ちこむと、帝国各地の貧乏人たちを属州勢力がひろいあげ、傭兵や小作人として雇い、さらに力をつけていきます。

こうしてローマ帝国の内部がおとろえ、分裂していくと、外部からの攻撃がさかんになります。
ローマ帝国の北にひろがる大地には、ゲルマン人というケルト人よりもさらに屈強で野蛮な人々が暮らしていました。
ゲルマン人はかつて、カエサルの攻撃とハドリアヌスの防衛システムによっておさえこまれていたのですが、ローマが衰退すると帝国への侵入をくりかえすようになります。
またローマ帝国の東には224年、ササン朝ペルシアという帝国が誕生し、やはりローマへの攻撃をくりかえしていきます。

こうした侵入がくりかえされると、国境ちかくに暮らす人々はローマ皇帝よりも、身近にいる属州勢力を頼るようになりました。
属州の将軍たちはさらに権力を増して、みずから皇帝を名乗る者も出てきます。
3世紀の「軍人皇帝時代」とよばれる時代には、26人もの皇帝が現れては消えていきました。
260年にはローマ帝国の内部にガリア帝国やパルミラ帝国といった独立国を建てる将軍まであらわれました。

衰えつづけるローマにキリスト教が浸透する

衰えつづけるローマにキリスト教が浸透する

image by iStockphoto

東西に分裂するローマ帝国

3世紀末にはもはやローマ帝国は首都ローマだけで管理するのはむずかしくなりました。
そこで284年に皇帝になったディオクレティアヌスはローマ帝国を東西2つに分けました。
また彼は軍事費をまかなうために税制改革をおこない、皇帝に権力を集中させるために行政改革もおこないました。
元老院に代わって官僚が政治をおこなうようになり、法律も元老院に代わって皇帝が「勅令」という形でだすようになりました。
皇帝の権威も高められました。

こうしてローマは一時安定しましたが、政治体制としてはそれまでの「元首政」から「専制君主政」に変わりました。
つまりアウグストゥス以来ずっと皇帝は大統領でしたが、ここから皇帝は独裁者へと変わったのです。
ディオクレティアヌスの死後、あとを継いだコンスタンティヌス帝もこの路線をつづけました。

しかしローマ帝国はさらに衰退していきます。
とくに帝国の西側は重い税と治安の悪化によって経済がおとろえ、ゲルマン人の侵入も増えていきました。
そこでコンスタンティヌスは330年、帝国全体の首都をローマからコンスタンティノープル(現イスタンブール)に移します。
また395年にはときの皇帝テオドシウスが帝国の東側を長男に、西側を次男にゆずりました。
こうしてローマは東ローマ帝国と西ローマ帝国に完全に分裂し、そしてふたつの運命もまた分かれていくのです。

キリスト教の誕生、迫害、そして発展

ここですこし時を戻ります。
紀元前4年、イエスという人がいまのイスラエルに生まれました。
彼はユダヤ教を発展させて神の愛を説き、周囲から「救世主(キリスト)」と呼ばれるようになりました。
こうして誕生したキリスト教は、イエスが十字架で処刑されたのちも、彼の弟子たちによってローマ各地で伝道されていきました。

しかしキリスト教はローマの人たちに受け入れられず、たびたび迫害されました。
当時のローマは多神教だったため、そしてキリスト教徒が公共の式典に参加しなかったためです。
64年にはネロ帝によって、303年にはディオクレティアヌス帝によって、キリスト教徒の多くが捕らえられ拷問され殺されました。

313年、コンスタンティヌス帝は方針を転換して、「ミラノ勅令」によってキリスト教を公認します。
皇帝の後押しをうけて、それまで5パーセント弱だったキリスト教徒の数は急激に増え、地中海中に広まっていきます。
ローマやコンスタンティノープルをはじめ、各地に教会がつくられました。
325年には皇帝みずからニケーアという地で会議をひらき、キリスト教の教義あらそいを収拾したりもしました。

ローマ帝国が弱っていくにつれて、逆にキリスト教は浸透していきました。
380年にはキリスト教は国教となり、他の宗教が禁じられます。
そしてこのころにはキリスト教の組織も確立され、司教や司祭といった身分ができていました。
とくにローマの司教とコンスタンティノープルの司教は絶大な権威をもつようになり、前者は西ヨーロッパに、後者は東ヨーロッパに影響をおよぼしていくことになります。

ローマ帝国の終わり

ローマ帝国の終わり

image by iStockphoto / 56893582

西ローマ帝国の滅亡

4世紀後半、アジア人の一派が東からやってくると、ゲルマン人たちは押し出されるようにして西へ、南へと大移動を開始します。
375年から約200年間にわたって、ゲルマン人は家族全員をつれてローマ帝国内に移動し、それまでは侵入して略奪していくだけだったのが、帝国の西側に定住するようになります。
ローマ帝国の完全分裂もこの大移動がひきがねでした。

ゲルマン人たちは部族ごとに、北アフリカ、スペイン、フランス、イギリスなどに移り住み、じぶんたちの王国をつくっていきました。
西ローマ皇帝はもはやイタリア半島を支配するだけの存在になりました。
そしてそのイタリアにもゲルマン人の部族がやってきます。

410年、ローマの都がゲルマン人によって略奪されます。
多くの遺跡が破壊され、そして多くの人々が殺されました。
そして476年、ゲルマン人の傭兵隊長によって西ローマ皇帝ロムルス=アウグストゥスは退位させられます。
こうして西ローマ帝国は消滅しました。
最後の皇帝の名はくしくもローマ建国者ロムルスと、初代皇帝アウグストゥスの名前をあわせたものでした。

こうして西ヨーロッパの歴史は古代から中世へとうつります。
そして時代の主役も、古代ローマ人から、ゲルマン人およびローマ司教(教皇)を中心としたキリスト教へと変わっていくのです。

東ローマ帝国のその後

西ローマ帝国とちがい、東ローマ帝国は分裂後も千年以上つづきます。
ゲルマン人の大移動がなかったということもありますが、それ以上に当時の東地中海世界は、西地中海とちがってとても豊かだったことが理由にあります。
とくに古代のシリア、エジプトなどは「オリエント」とよばれ、政治経済文化の中心地でした。

527年に即位したユスティニアヌスは帝国の復興をめざして、東ローマ帝国の領土を最大にひろげます。
首都コンスタンティノープルは地中海における最大の貿易都市として栄えました。
国内では彼はキリスト教会を支配し、官僚制をととのえ、また古代ローマの法律をまとめた「ローマ法大全」もつくりました。

ちなみにこの古代ローマの法律は現代にも活きていて、たとえば合意、契約、過失、損害賠償といった概念や、以前の判例を参考にすること、クーリングオフ制度まですでに考え出されていました。
いまでも大学の法学部でローマ法という講義があるのはこのためです。

しかしユスティニアヌス帝の死後、東ローマ帝国はすこしずつ衰退していきます。
7世紀からはイスラム勢力におされ、シリアとエジプトを失い、トルコも奪われていき、帝国の領土はコンスタンティノープル周辺だけとなります。
そして1453年、イスラム勢力であるオスマン帝国の攻撃をうけて、ついに東ローマ帝国はその長い歴史に幕をとじました。

地中海にのこる遺跡たち、それはローマ栄光の軌跡

イタリア、北アフリカ、スペイン、フランスのローマ遺跡

イタリア、北アフリカ、スペイン、フランスのローマ遺跡

image by iStockphoto

最後に、古代ローマの遺跡を紹介しましょう。
ローマ市内の遺跡については他のページにゆずり、ここではローマ市以外のイタリアや属州各地にのこる遺跡をとりあげます。

まずイタリアですが、ローマ以外にもさまざまな土地に遺跡がのこっています。
とくにナポリ周辺には、ポンペイ遺跡、エルコラーノ遺跡、ポッツォーリの円形闘技場、トラヤヌス帝の凱旋門、そしてナポリ対岸にうかぶカプリ島には皇帝の別荘ものこっています。
また初の属州となったシチリア島には、コンコルディア神殿、劇場、シラクサの円形闘技場などがあります。

つぎにカルタゴ(現チュニジア)ですが、首都チュニスに「エル=ジェムの円形闘技場」が、郊外には水道橋がのこされています。
またチュニスの南西にあるドゥッガという街には保存状態のいい遺跡がたくさんあり、神殿や半円形の劇場、歴史的モザイク画が発見されたローマ人の住宅地などを見ることができます。

つぎにスペイン(属州ヒスパニア)です。
マドリード近郊には「セゴビアの水道橋」という巨大な橋がのこっています。
またスペイン西部のメリダという街には劇場が、ちかくには「アルカンタラの橋」がのこされています。
南部イタリカという街にも円形闘技場があります。

またフランス南部の街ニームには巨大な水道橋「ポン=デュ=ガール」や、神殿「メゾン=カレ」、円形闘技場「アレーネ」があります。
また近くの街アルルにも円形闘技場、地下回廊、公共広場などがのこっています。

イギリス、東欧、中近東、エジプトのローマ遺跡

イギリス、東欧、中近東、エジプトのローマ遺跡

image by iStockphoto

イギリス(属州ブリタニア)の北部には、ハドリアヌス帝の建てた防壁(ブリタニアの長城)が118kmもつづいています。
またイギリス南部のバース市街には温泉がわきでるため大浴場が建てられ、いまも観光地としてにぎわいます。

つぎに東の属州です。
オーストリア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ブルガリア、ルーマニアなどの東欧諸国にも、闘技場や劇場、浴場や皇帝の宮殿などがのこされています。
ギリシアのアテネではハドリアヌス帝の門を見ることができます。
トルコ西岸のエフェソス遺跡には神殿、劇場、図書館跡などがのこっています。

中近東にもローマの遺跡はたくさんあります。
シリアのパルミラ遺跡には円形劇場、浴場、四柱門などがのこります。
イスラエルには海岸沿いに「カエサリアの水道橋」が走っています。
死海のちかくにもローマ軍の要塞跡がみられます。
ほかにもヨルダンの列柱広場、レバノンの神殿などがあります。

最後にエジプトです。
アレクサンドリアの街には古今さまざまな遺跡がありますが、ローマの劇場ものこっています。
そしてスフィンクスのとなりには、カエサルとあらそった英雄ポンペイウスの柱がそびえています。

史上はじめて、そして史上唯一、地中海世界を統一したローマ帝国。
こうした各地の遺跡にふれることで、その偉業に思いをはせるのもまた旅の楽しみのひとつでしょう。

古代ローマの息吹にふれよう

古代ローマ帝国の千年以上にわたる壮大な歴史。
ローマの街を訪ねるときも、またヨーロッパ各地や中近東、北アフリカを旅するときにも、こうした歴史を知っておくと旅行がいっそう楽しく奥深くなるでしょう。
さあ、カミルスのように勇ましく、ハンニバルのように決断し、カエサルのように計画して、アウグストゥスのように慎重に、ハドリアヌスのように旅しましょう。
photo by iStock

アフリカの記事を見る

ディズニーシーの未来的空間 ポートディズカバリーの ”ホライズンベイ・レストラン”でミッキーと出会おう!
紀元前800年代には港町として栄えていた街。モロッコ「エッサウィラ」観光で見たい絶景10選
ローマ時代の名残そのまま感じる、モロッコの「ヴォルビリスの古代遺跡」
政府公認ガイドが教える!フィレンツェ観光完璧ガイド
アフリカの玄関、モロッコの「タンジェ」観光の見どころ
モロッコ観光の王道「ラバト」で見たい絶景10選
実は美女ではなかったクレオパトラ!?王として、女として生きた彼女の波乱の人生
モロッコのお土産ならこれ!ぴったりのお土産が絶対見つかる10選
モロッコ旧市街に、魅惑のハサン2世大モスク。「カサブランカ」で見たい絶景10選
シンガポール観光で行くべき世界遺産や絶景14選
砂漠に一瞬だけ出現する奇跡の花園『ナマクワランドの花畑』
星の王子様の世界が広がるマダガスカルの巨樹『バオバブ並木道』