おもしろくてわかりやすい、古代ローマの歴史

古代ローマ帝国は史上はじめて、そして史上唯一、地中海世界を統一した大帝国です。その遺跡は地中海各地にいまでも残り、そして現代のわたしたちも、法律やインフラ、政治体制から暦にいたるまで、おおくの遺産をローマ帝国から引き継いでいます。とくに地中海の国々を旅するなら、ローマの歴史ははずせません。ということで、千年以上にわたるその歴史を、教科書よりわかりやすく、参考書よりもおもしろく伝えたいと思います。

神さまも登場、ローマ建国の物語

ローマ人のルーツはトロイにあった?

ローマ人のルーツはトロイにあった?

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はるかな昔、いまのトルコの西岸にトロイという都市が栄えていました。
トロイは周辺の覇権をめぐってギリシアと争っていましたが、やがてギリシア軍に攻められ、城壁のなかに木馬を招き入れてしまい、そのワナによって滅ぼされてしまいます。

唯一トロイから落ちのびたのが、トロイ王の婿アエネイスでした。
アエネイスは幾多の困難のすえに、イタリア半島の中部、ティベル川という大河が流れる場所にたどりつきます。
そこにはラティヌスという王のおさめる国がありました。

アエネイスはラティヌス王に気に入られ、王の娘をめとって、やっとそこに定住します。
やがてアエネイスの息子が王位を継ぎ、王国とその周辺はラティヌス王にちなんで「ラティウム」と呼ばれるようになっていきました。
これが「ラテン」という呼び名の語源。
ちなみにいまでもイタリア語、スペイン語、ポルトガル語などを話す人々を「ラテン人」と呼ぶのは、これらの言葉が古代ラテン語をもとにしているからです。

ときはながれ、王国に継承あらそいが起こります。
王のひとり娘が次の王を産むまえに、その叔父が王となり、娘は処女のまま巫女にされてしまいます。
しかし娘が川のほとりでまどろんでいたところ、天にいた軍神マルスが彼女にひとめぼれ。
二人は愛を交わし、娘は双子を宿します。
それに気づいた叔父はかんかんに怒り、やがて産まれた双子をカゴにいれて川に流してしまいました。
この双子がローマを建国するのです。

オオカミに育てられた双子

双子の赤ん坊をのせたカゴはティベル川をくだり、海にたどりつくまえに川岸の枝にひっかかって止まりました。
そこは七つの低い丘が集まってそびえている場所でした。
そこに一匹のメスオオカミがあらわれて、カゴを見つけます。
オオカミはカゴを拾いあげて近くの丘まではこび、そこでみずからの乳で双子を育てはじめました。
やがて今度はひとりの羊飼いが双子を見つけ、かれらを引きとって、ロムルスとレムスと名付けました。

ロムルスとレムスは成長すると、すぐに若者たちのボスになりました。
立派に育った双子をみて、羊飼いは出生の秘密を伝えます。
復讐を決意したロムルスとレムスは3000人の若者たちを引きつれて、生まれた国へと舞い戻り、叔父をたおしました。
そして二人は王位を継ぐことなく、自分たちだけの新たな国をつくろうと決意します。
その場所こそ、かつてオオカミに育てられた場所、七つの丘がそびえる土地でした。

ロムルスとレムスは建国のさなか、ささいな兄弟ゲンカをおこし、レムスは戦闘中に死んでしまいます。
そこでロムルスはオオカミに育てられた丘のうえで、神々に生贄をささげる式をおこない、そしてみずからの名前にちなんだ「ローマ」の建国を宣言します。
こうして紀元前753年4月、ロムルスを初代王として、わずか3000人の民とともに、ローマの歴史ははじまりました。

発展と、滅亡の危機、そして再起するローマ

王政から共和政へ

王政から共和政へ

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建国当初から、ちいさな都市国家ローマはまわりの部族との戦闘に明け暮れます。
そしてそのほとんどに勝利し、しだいに一目おかれる存在になっていきます。
たくさんの部族や多くの有力者たちがローマに移り住みましたが、ローマ人はかれらに自分たちとまったく同じ権利を与えました。
敗者も外国人も同化してしまうローマのこうしたやり方が、古代アテネとちがって、ローマを都市国家から巨大帝国へと発展させていきます。

ロムルスをふくめて王政は七代つづきましたが、紀元前509年、独裁政治をおこなった王を追放して、ローマは共和政となります。
王に代わって執政官とよばれる二人が一年任期で政治にあたるようになりました。
この執政官は戦争のさいには司令官としてローマ軍を指揮しました。

また、元老院というローマの議会がより強化されました。
三百人に増員され、任期も終身、執政官も元老院から選ばれるようになりました。
この元老院が共和政時代のローマをうごかしていきます。
いまでもローマの街を歩くといたるところで「S.P.Q.R.」という文字をみかけますが、これは「元老院とローマ市民」というラテン語の略語です。

こうしてあらたな政治体制のもとでさらに発展していくローマでしたが、前390年、とつぜん滅亡の危機に立たされます。
ケルト人の来襲です。

どん底から立ち上がる、前よりも強くなって

ケルト人は現在のフランスあたりに住んでいた屈強な人々で、ローマ人からは「ガリア人」と呼ばれ恐れられていました。
かれらの一派が紀元前400年前後にイタリア半島北部へとすすみ、つぎつぎに部族を平定して、ローマへと迫りました。

そのころローマでは貴族と平民の抗争がつづき、カミルスという当代きっての名将もその抗争にまきこまれて亡命していました。
そこにケルト人が大軍をひきいて南下してきたからたまりません。
ローマ軍は大敗し、建国後はじめてローマの街は外国の軍隊にふみ荒らされます。
襲われ、奪われ、殺されて、のこりのわずかな人々は丘のひとつに立てこもるしかありませんでした。

七ヵ月後にケルト人たちは引きあげます。
理由はわかりませんが、ローマ人が身代金を支払ったからとも、カミルスが亡命先からかけつけたからとも、ケルト人たちが飽きたからとも言われています。
どん底のローマに、周辺の部族も見切りをつけて、四方から攻めてきました。

ここでローマはふんばります。
カミルスをふたたび司令官にして連戦連勝、国内では破壊された市内の再建をいそぎ、貴族と平民の抗争を解決するための法律も定められました。
そして国内を統一したローマは周辺の諸部族とあらたな関係を築きます。
ふたたび反乱を起こさないように、相手によって自治を与えたり、個別に同盟を結んだり、植民地にしたりと、差をつけることで部族どうしが結束しないようにしたのです。

こうしたたくみな政策によって、ローマは息をふきかえします。
そして前にもまして力をつよめ、ついにイタリア半島を統一していくのです。

イタリアから地中海へ、勢力をひろげるローマ

ローマ人は土木工事の天才?

ローマ人は土木工事の天才?

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紀元前300年前後には、ローマはイタリア半島における一大勢力となりました。
ローマの街には各地から人が集まり、巨大な都市へと発展していきます。

王政期にはすでに七つの丘だけでは手狭になり、低地の開発もすすんでいました。
最初に開発された低地は「フォロ=ロマーノ(ローマの広場)」と呼ばれ、このころには政治経済の中心地になっていました。
また水の需要も増してきたので、水道も整備されました。
水源地から何十キロにもわたって微妙な傾斜をつけた水路がつくられ、そのいくつかは2300年後のいまも使われています。
水道橋の遺跡も各地に残っています。

また街道も整備されました。
前312年のアッピア街道からはじまり、ローマと周辺部族とをつなぐ多くの道が舗装され、道幅をひろげ、橋をかけトンネルをほり、まっすぐに直されました。
国土開発ともいえるこうした事業はローマ人が史上はじめておこなったもので、「すべての道はローマに通ず」と称えられました。

こうして力を増したローマは中部の山岳民族、北部の諸部族、そして南部のギリシア植民地を征服して、前272年にイタリア半島を統一します。
そのさらに南にはシチリア島がありました。
そしてこのシチリア島をめぐって、当時地中海世界で最大の国だったカルタゴとローマは戦うことになります。

二人の名将、ハンニバルとスキピオの対決

カルタゴはいまのチュニジアに首都をおく海洋国家で、北アフリカ一帯と、スペインと、そしてシチリア島の大半を支配していました。
前264年、ローマはカルタゴに開戦します。
急造の船でカルタゴ海軍をやぶり、ローマはシチリアを手に入れました。
戦争は終わりましたが、カルタゴ人のなかでただひとり、ローマへの復讐心に燃える男がいました。
名将ハンニバルです。

前218年、ハンニバルは地元スペインから十万の兵士と37頭のゾウをつれてローマへと向かいます。
ピレネー山脈を越え、大河をわたり、アルプス山脈を越えたときには二万六千人の兵士と20頭のゾウになっていましたが、とつぜんのハンニバル来襲にローマは驚き、戦争の準備を急ぎます。
こうして二回目の戦争がはじまりました。
八万七千人の軍勢で迎えうったローマ軍を、ハンニバルは全滅させます。
その後ハンニバルはイタリア半島を駆けめぐり、同盟国がつぎつぎとハンニバル側につき、ローマは解体の危機をむかえます。

ここでローマ側にもうひとりの名将スキピオが現れます。
スキピオはスペインにわたってハンニバルの地元を征服し、ついで北アフリカへわたり首都カルタゴに迫ります。
どんな武将もスキピオにはかなわず、ついにカルタゴはハンニバルを呼び戻します。
こうして二人の名将が決戦し、激戦の結果スキピオの勝利におわります。
二回目の戦争が終結し、ローマはスペインを手に入れました。

その後、前146年には三回目の戦争にもローマ側が勝利して、カルタゴは完全にローマの支配下になりました。
こうしてローマは徐々に地中海世界の覇者となっていくのです。

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