冒険心をそそる!ヨーロッパ人が危険を冒してまで世界に乗り出した大航海時代って?

大航海時代と聞けば、ヨーロッパ人の壮大な海の大冒険っていうイメージで、なんだかワクワクしてきませんか?コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランなどが、色々な島を探して航海したって、何となく分かっていてもそれがどういったものなんだろうって思いませんか?今回は、15~17世紀にヨーロッパ人によって行われた大航海時代の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

大航海時代が始まった原因とは

大航海時代が始まった原因とは

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15~17世紀にかけてヨーロッパ諸国が、かつて交通の要衝とされていたインドへの新航路やアメリカ新大陸の発見を目指して行った大航海です。
この大航海時代はヨーロッパ世界の拡大という人もいるほど、ルネサンスや宗教革命と同じぐらい世界に大きな影響を及ぼしています。
イベリア半島のポルトガルとスペイン2国が先陣を切り探検航海において次々と成果をあげたからです。

この時代に急激に勢力を増したのが、オスマン帝国。
彼らはバルカン半島、東地中海、西アジアに進出し、ヨーロッパ各国の脅威となったのです。
しかし、このオスマン帝国には欠点がありました。
それは海軍の力が弱かったのです。
そのため、この時イスラム要衝の地セウタを離れ、指導者たちは領地としていたスペインのグラナダを撤退していました。
人口110万人に過ぎない小国のポルトガルでしたが、15世紀の初めには地中海と北大西洋を結ぶ重要な地となっていました。
街は無防備となっていたセウタを、1415年にポルトガル王ジョアン1世が息子たち3人に騎士団を使って攻撃させ占領。
その数は200席の船に5万人の兵士が乗って襲いかかったようです。

アフリカ航路探検の始まり

アフリカ航路探検の始まり

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セウタの広大な領地がもたらした収入により、3王子の一人エンリケが探検船隊を作りアフリカ西岸の大航海を始めたのです。
このエンリケ王子は生涯を通して王となることはなく、専ら探検に没頭しました。
彼は「航海王子」といわれています。
でも、本人は船酔いが酷くて船に乗ったことはないとか?セウタ攻略で得たものは最も大きく、マグリブ地方随一の商業港だったのです。
セウタを手中に収めたことにより、西アフリカの政治情勢や貿易の実態などを知る上で大いに役に立ったといえます。

エンリケ王子は、大西洋諸島を掌握すべく航海士の育成学校や造船所、海図などを作りました。
1425年までにマディラ諸島を植民地化し、ジェノヴァ人によって砂糖キビ栽培が伝来。
この地はヨーロッパへの砂糖の主要供給地になっています。
砂糖に加え小麦やぶどう酒の産地となり1440年ごろにはセネガル川の河口地域で金の交易を開始していたようです。
1441年には最初の奴隷が捕らえられました。
その後、1431年にはアゾレス諸島、1434年にはボジャドル岬を迂回し、1445年にはヴェルデ岬に至りました。

喜望峰への到達と東回りのインド航路の開拓

喜望峰への到達と東回りのインド航路の開拓

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ジョアン2世の時代の1469年には奴隷貿易は拡大され、奴隷を使ったプランテーションが増加しています。
そして1488年1月にバルトロメウ・ディアスによりアフリカ最南端に達し喜望峰に到達しました。
いわずと知れた喜望峰は現在、南アフリカ随一の観光地ですね。
アフリカを南下途中に嵐に巻き込まれ、南端を巡ってアフリカの東海岸に到達。
インドを目指したかったディアスでしたが、船員たちの大反対にあい結局断念。
たまたま嵐で通り過ぎた、南端の岬の喜望峰は帰り道に発見しました。
しかし、ポルトガルに帰還した彼らは大歓迎を受けています。
だってアフリカの南端「喜望峰」に辿り着き、インドへの航路があることを証明できたのですから凄いことです。

東回りの航路の開拓を急いだポルトガルは、1497年7月にヴァスコ・ダ・ガマをインドに派遣します。
4隻の船で大西洋を南下して喜望峰を回り、東海岸のマリンディで道案内にイブン・マージドらを雇い、アラビア海横断に成功。
1498年5月20日にインド西岸のカリカットに到達、インド航路が開拓されたのです。
約2年間に3分の2の乗組員が亡くなったという危険な航海でした。
インドから彼らが持って帰った胡椒は利益を生み、航海にかかった費用の60倍に膨れ上がったのです。
遠回りの東航路が重宝された訳は、陸路のイスラム圏を通ることなくアジアとの貿易ができるからでした。
首都のリスボンは世界の商業の中心となります。

1510年にインドのゴアを占領し1961年まで植民地として占領。
この地は「黄金のゴア」と称されるほど発展し、世界におけるアジアとの貿易と布教の最大の拠点となりました。

スペインの大航海時代

スペインの大航海時代

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1492年のスペインでは、最後のイスラム勢力のグラナダが陥落しレコンキスタ(国土再征服運動)を終結しました。
カトリック両王のフェルナンドとイサベルがグラナダ城に入城し、イベリア半島をキリストが奪い返しています。
同年、コロンブスが大西洋横断に成功したことにより、スペインの大航海時代の幕開けとなりました。

コロンブスはポルトガルに西回りの話をしましたが、東回りが期待されており拒否されています。
フランスやイギリスにも断られ、最終的にイサベル女王が支援しました。
コロンブスにアジアへの西回りを考えさせたのは、地理学者のトスカネリの世界地図と地球は球体であるという説を主張したことによるようです。
この新大陸の発見は、アメリゴ・ヴェスプッチの航海やバルボアによって明らかになりました。
新大陸のアメリカという名前は、このアメリゴ・ヴェスプッチから付けられています。

この頃になると、イギリスやフランス、オランダなども新大陸発見へと動き出しました。
セビリアには新大陸から銀が入り、スペインは大繁栄期に入ります。
カール5世時代の1519年にはマゼランが大航海に出発し、アメリカ大陸征服活動が始まりました。
コルテスによりアステカ帝国がピサロはインカ帝国を征服。
コンキスタドレスにおいてはアメリカ大陸征服活動が活発で、ブラジルを除く新大陸がスペイン領となりました。
カルロス1世(カール5世)は、スペインとネーデルランド、ドイツ、南イタリアも領有しており、新大陸やフィリピンなど海外領地など壮大な支配に「太陽の没することのない大帝国」と称されました。







マゼランの世界一周

マゼランの世界一周

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1519年にポルトガル人のマゼランは、スペイン王の援助を得て5隻の艦隊と乗組員237人を引き連れ、セビリアを出航し西回りで世界一周に挑みました。
1520年には3か月の越冬。
10月には1隻の船団を失い、もう一隻は脱走しスペインへと戻ったのです。
どれだけ苛酷なものだったのでしょう。
彼は、マゼラン海峡を通過し、1521年にマリアナ諸島に達し、横断した海を太平洋と名付け更に航海を続けました。

1521年3月に太平洋西端に位置する島に到着。
これをフィリップ皇太子に因んでフィリピンと名付けられています。
彼自身はセブ島の東にあるマクタン島で首長ラプラプとの戦いで戦死。
残った3隻はモルッカ諸島に向かい同年11月に到着したのです。
しかし、ここではポルトガルに先を越されていました。
残念!最終的には5隻いた船団は、ビクトリア号1隻になりましたが、インド洋を通過し喜望峰を通る東回りで1522年9月8日にセビリアに入港。
世界一周を達成しました。
これにより、「地球がまあるい」ことが証明さています。

大航海時代がもたらしたもの

大航海時代がもたらしたもの

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大航海時代に起こったことは、主にヨーロッパの人口の増加と大量の銀が流入したことによる価格革命があげられます。
また、これまでの封建貴族が没落し、資本家や信仰地主層が権力を握りました。
何よりもこの時代の恩恵は流通ではないでしょうか?ヨーロッパと新大陸、アジアの間で貿易が簡易的となり劇的に発展したのですから。
大航海以前はヨーロッパとアジアという貿易でしたが、大航海以降はヨーロッパ、アジア、アフリカ、新大陸と拡大されました。

日本にも大航海時代には鉄砲の伝来があり、南蛮貿易も行っていました。
今まで知りえなかった「地球は丸かった」が証明され、ニコラウス・コペルニクスが唱えた地動説すら受け入れられるようになったのです。

ポルトガルとスペインの2大強国が繰り広げた大航海時代

大航海時代とは、ヨーロッパ人が海上において探検し発見した時代を表すもの。
航海士たちが命懸けで航海をし、成し得たものです。
大航海時代の到来で世界中が進化したことはありません。
この2大強国の時代が過ぎ去った後は、オランダの台頭時代がやってきます。
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