美しい庭園と泉はいつから?シェーンブルン宮殿の歴史

ウィーンの数ある観光スポットのなかでもとくに有名なシェーンブルン宮殿。しかしここには、誰も知らない秘密が、いくつも隠されているのですよ。シェーンブルン宮殿の歴史をたどりながら、その秘密をひとつひとつ、ご紹介することにしましょう。マリア=テレジアの好んだ黄色で塗られた宮殿の建物のほかに、熱帯植物園も動物園もあり、広い庭園を歩いてグロリエッテまで行くと、そこからウィーンの街を見渡すことができます。

「美しい泉」、それがシェーンブルン宮殿の名前の由来

「美しい泉」、それがシェーンブルン宮殿の名前の由来

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ここにはもともと、水車小屋がありました

一般的には、ハプスブルク家の皇帝マティアス(1557-1619)が、ここに美しい泉を発見し、小さな館を建てた、と言われています。しかし、皇帝マティアスの父親である皇帝マクシミリアン二世(1527-1576)が、1569年に、ここにあったカッターブルクという屋敷を買い取って狩猟館にしました。

カッターブルクの「ブルク」ですが、これは「城」という意味で、ハプスブルク家の名前の「ブルク」もやはり「城」です。ハプスブルクをそのまま日本語にすると「鷹の城」という意味になります。ルネッサンスの皇帝と呼ばれるマクシミリアン二世の時代には、「城」はもう戦闘用のものではなく、「屋敷」とか「館」というくらいの意味にとったほうがいいでしょう。

ウィーンというとドナウ川が思い浮かびますが、そのドナウ川の支流に、ウィーン川という名前の川があります。都市の郊外の小川というと、そこにはたいてい粉をひく水車小屋。記録によると、1312年にはこの場所にカッター水車という名前の水車がありました。その後15世紀に、あるウィーンの市民が、この水車のとなりに別荘を建てました。それがカッターブルクの最初の姿でした。

「シェーンブルン!」と叫んだのは、皇帝マティアスでした

1569年に、この別荘はペーター・フォン・モラルトという人の所有になります。この人がどんな人だったか、よくわかっていません。ただ、名前に「フォン」がついているので、貴族だったことは確かです。この貴族の所有していたカッターブルクを、皇帝マクシミリアン二世が買い取って、狩猟館に改築しました。貴族たちは、「半分狩人」と言われるくらい趣味と実益を兼ねた狩りが好きで、都市の近郊に狩りに出たとき、休んだり泊まったりするために、狩猟館があちこちに建てられました。

マクシミリアン二世には、何人かの息子がいましたが、長男が皇帝ルドルフ二世(1552~1612)で、美しい泉の発見者だと言われている皇帝マティアスは、マクシミリアン二世の三男。この二人の息子たちは、あまりこの狩猟館に来たことはありません。

あるとき、狩りに来たマティアスは、ここに偶然に美しい泉を見つけて、「ああ、なんと美しい泉だろう!」と叫んだのでした。それがシェーンブルン宮殿の名前の由来。

カッターブルクは焼失してしまいました

カッターブルクは焼失してしまいました

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マクシミリアン二世とは、どんな皇帝だったのでしょう

皇帝マクシミリアン二世は、このカッターブルクがとてもお気に入りだったらしくて、暇を見つけてはこの狩猟館に来ていました。この皇帝について少しお話ししておくことにしましょう。マクシミリアン二世の伯父は、あの有名なカール五世(1500~1558)です。マクシミリアンが17歳のとき、伯父のカール五世はこの甥を、自分の娘マリアと結婚させるためにスペインに呼び寄せました。

当時の神聖ローマ帝国は、カトリックの諸侯とプロテスタントの諸侯が対立しており、場合によっては戦争になることもありました。マクシミリアンは、カール五世に従ってプロテスタントの諸侯と戦いましたが、しかし、心の中ではカトリックとプロテスタントとの対立関係に否定的でした。プロテスタントの言うことも、理性で理解できたからです。

戦争のない平和な世界、それはなかなか実現しませんでしたが、カッターブルクで鹿を狩るとき、きっと平和な気持ちになれたことでしょう。1575年、皇帝マクシミリアンが死ぬ間際に、「私のカドゥートル、もう二度とカッターブルクには行けない」と叫びました。

息子の皇帝ルドルフ二世は、カッターブルクを売ってしまいました

神聖ローマ皇帝が死ぬと、すでにローマ=ドイツ王になっている息子が皇帝になります。それは、ハプスブルク家が作り上げた政治システムです。長男のルドルフが皇帝ルドルフ二世になります。「プラハの錬金術師」と呼ばれることもあるルドルフ二世は、オーストリアの貴族やウィーンの市民たちを嫌って、宮廷をプラハに移してしまいます。プラハは現在チェコ共和国の首都ですが、当時はハプスブルク家の領地であったボヘミア王国の首都でした。

父親が、「カドゥートル」という愛称で呼ぶほど好んでいたカッターブルクも、彼にはもう必要ありません、そこで、官吏のガッターマイヤーという人に払い下げてしまいます。そこから、この屋敷が「ガッター城」あるいは「カッターブルク」と呼ばれるようになった、とも言われていますが、さて真実はどうでしょうか。

その後このガッターマイヤー氏がこの狩猟館を所有し続けたとしたら、今日のシェーンブルン宮殿は存在しないわけですが、プラハにいる兄を追い落として皇帝となったマティアスが、このカッターブルクをふたたびハプスブルク家の所有に戻します。1605年、トルコ軍によって破壊されたカッターブルクを、マティアスが修復します。そしてここに狩猟に来たとき、美しい泉を発見した、という次第ですが、マティアスはこのときまだ、皇帝にはなっていません。

バロック時代の「光」と「影」の美しさ

バロック時代の「光」と「影」の美しさ

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ドイツを荒廃させた三十年戦争はこうして始まりました

皇帝にしても王にしても、ふつうは「何世」という数字がついています。神聖ローマ皇帝マティアスには、この「何世」がついていませんが、この名前の皇帝は彼一人。ちょっと変わった名前ですが、これはハンガリー語の「マーチャーシュ」をドイツ語にしたものです。1608年に、彼は兄である皇帝ルドルフ二世からこの王位を奪い取り、ハンガリー王になっています。

これが有名な「ハプスブルク家の兄弟喧嘩」で、プラハに宮廷を移したルドルフ二世に対して、オーストリアの貴族たちやウィーンの市民たちが、マティアスを担ぎました。マティアスがボヘミア王になるのが1611年、念願の神聖ローマ皇帝になるのは、ルドルフ二世が死んだ1612年でした。しかし、宮廷をウィーンに移されたボヘミアの貴族たちやプラハの市民たちは、1618年、ハプスブルク家の使節をフラチーン城の窓から突き落とし、この事件がきっかけとなり、三十年戦争が始まりました。

オスマン・トルコが攻めてきたウィーンを包囲

神聖ローマ皇帝の位は、ルドルフ二世とマティアスの従兄弟フェルディナント二世(1578~1637)に受け継がれ、その息子である皇帝フェルディナント三世(1608~1657)のときまでこの戦争は続きました。その間、ほとんど忘れられていたカッターブルクでしたが、1642年に、フェルディナント二世の未亡人エレオノーレの夏の館として、イタリア風に改築されます。イタリア風というのは、もちろんルネッサンスの影響ですが、この時代は美術史的には、バロック時代と呼ばれています。

「ゆがんだ真珠」を意味するバロックの時代は、それまで天高く教会の尖塔をそびえ立たせていたゴシックの時代とは違って、教会も丸屋根の、比較的低いものになります。そのかわり、内部は文字通り「ゆがんだ真珠」で飾り立てられるようになります。

バロック時代はまた、人が「死」と隣り合わせになっていた時代でもあります。伝染病のペストが流行したのもこの時代で、3人に1人が死んだ、とも言われています。ウィーンについて言えばもう一つ、オスマン・トルコの第二次ウィーン包囲があります。トルコの脅威に備えて城壁を強固なものにしていたウィーンではありますが、今度ばかりは落城の危機にさらされました。カッターブルクもとうとう、1683年には焼失してします。

バロック建築の巨匠によって壮大な構想が出現

バロック建築の巨匠によって壮大な構想が出現

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皇帝レオポルト一世から皇帝ヨーゼフ一世に代わる時代

トルコ軍が攻めてきたときの皇帝は、フェルディナント三世の息子のレオポルト一世(1640~1705)です。トルコが攻めてきたと聞いて、早々とウィーンから逃げてしまいますが、その間に、ポーランド王ヤン・ソビエスキー率いる軍隊が、ウィーン周辺に野営していたトルコ軍を背後から攻撃し、撃退してしまいます。あわてて逃げるトルコ軍が残していったもののなかに、妙な黒い粒の入った袋がたくさんありました。これがウィーン名物コーヒーの由来である、という伝説が残っていますが、ともかくこれで、トルコを恐れる必要はなくなります。

そればかりか、フランス軍を追い出されてウィーンに流れ着いたオイゲン公の活躍で、トルコに占領されていたハンガリーも解放されます。ウィーンのバロック宮殿の代表であるベルヴェデーレ宮殿は、もとはハプスブルク家のものではなく、オイゲン公の私邸でした。オイゲン公の主であるハプスブルク家としては、それに勝る壮大な宮殿を建設する必要に迫られます。その役割を担ったのが、レオポルト一世の長男ヨーゼフ一世(1678~1711)でした。ローマ=ドイツ王になるのが1690年、父が死んで皇帝になるのが1705年ですから、このときはまだ、王でも皇帝でもありませんでしたが。

バロック建築の巨匠フィッシャー・フォン・エアラッハの構想

バロック時代の建築家として、フィッシャー・フォン・エアラッハとルーカス・フォン・ヒルデブラントの2名が有名です。彼らは、バロック時代のウィーンでおおいに活躍しましたが、シェーンブルン宮殿を担当したのは、フィッシャー・フォン・エアラッハでした。

ヨーゼフ一世がハンガリー王になったのは、1687年です。当時、ハンガリー王の戴冠式はブダペストではなく、ウィーンからドナウ川を下ること1時間ほどの近いところにあるプレスブルクで行われていました。プレスブルクは、現在ではスロバキア共和国の首都ブラティスラヴァです。

焼失したカッターブルクの跡地に、ヨーゼフ一世の狩猟館が建設されることになりましたが、その建築家として、シュタイヤーマルク公国の首都グラーツから、ヨーハン=ベルンハルト=フィッシャー・フォン・エアラッハが呼ばれました。シュタイヤーマルクは、現在はオーストリア共和国の州のひとつで、ウィーンの周囲の下オーストリア州の南にあります。

この建築家が1688年に描いた設計図が残されていますが、現在のシェーンブルン宮殿よりはるかに大きいものです。これほど大きい宮殿となると、三十年戦争やトルコとの戦争で疲弊したハプスブルク家の財力では、とても実現することはできません。そこで、1693年に、実現可能と思われる、新しい設計図が提出されました。

こうして、シェーンブルン宮殿の建設が始まりました

こうして、シェーンブルン宮殿の建設が始まりました

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皇帝ヨーゼフ一世の愛したシェーンブルン宮殿

縮小されたとはいえ、フランスのブルボン家のベルサイユ宮殿に対抗するための宮殿ですから、そう簡単には建築が始められません。1695年に、フィッシャー・フォン・エアラッハの出身地であるシュタイヤーマルクの貴族や聖職者や有力市民たちから、かなりの金額の寄付がありました。そして遂に、1695年、シェーンブルン宮殿の建設が開始されたのでした。

1700年にようやく、宮殿の中央部が完成しました。1705年に皇帝レオポルト一世が亡くなると、その長男であるローマ=ドイツ王ヨーゼフ一世は、自動的に神聖ローマ皇帝ヨーゼフ一世となりました。ところが、宮殿の中央部が完成したのと同じ年に、スペイン系ハプスブルク家のカルロス二世が死んで、その翌年からスペイン継承戦争が始まります。この戦争のさなか、1711年に皇帝ヨーゼフ一世が死亡し、スペイン王になるためにスペインに派遣されていた弟カールが呼び戻され、皇帝カール六世(1685~1740)となります。

建設中の宮殿は、ヨーゼフ一世の未亡人であるアマーリエ=ヴィルヘルミーネ(1673~1742)の所有となります。1713年に宮殿の両翼が完成して、一応、宮殿としての体裁が整います。

シェーンブルン宮殿完成への長い道のり

皇帝カール六世は、バロック時代最後の皇帝で、あの女帝マリア=テレジア(1717~1780)の父親です。兄ヨーゼフ一世のときから、ハプスブルク家の支配する地域をひとつの統一国家とする改革が行われていましたが、ハプスブルク家に残されたただ一人の男性として、カール六世はその改革を続けなくてはなりません。ハプスブルク家の所有している領地を一体のものとして長子に相続させることを決めた、いわゆる『国事詔書』が公布されたのが1713年で、シェーンブルン宮殿の両翼が完成したのと同じ年です。

しばらくは皇帝ヨーゼフ一世の未亡人の所有でしたが、1728年に、カール六世はこの義姉から宮殿を買い取ります。そして、このシェーンブルン宮殿の壮大な構想を練ったヨーハン=ベルンハルト=フィッシャー・フォン・エアラッハの息子の、ヨーゼフ=エマニュエル=フィッシャー・フォン・エアラッハが建築を引き継ぎます。

宮殿というものは、宮殿の建物だけでは宮殿とは言えません。広大な庭園が必要です。そしてその庭園には、噴水やバラ園や東屋など、さまざまなものを配置しなくてはなりません。カール六世はシェーンブルン宮殿を買い取ったものの、ウィーンの南にあるラクセンブルク宮殿に力を注いだため、シェーンブルン宮殿の完成には、もう少し時間がかかります。

女帝マリア=テレジアのときにシェーンブルン宮殿は完成しました

女帝マリア=テレジアのときにシェーンブルン宮殿は完成しました

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マリア=テレジアは、シェーンブルン宮殿に密かな思いを込めました

1740年に、皇帝カール六世がラクセンブルク宮殿で死亡し、後継者に指名されていたマリア=テレジアは、そのときちょうど4人目の子どもを身ごもっていました。この4人目の子どもが、のちの皇帝ヨーゼフ二世(1741~1790)なのですが、この時点でもう、ハプスブルク家の男系は絶えていました。神聖ローマ皇帝になれるのは男性だけでしたから、マリア=テレジアは皇帝にはなれません。ハプスブルク家の領土は一括してマリア=テレジアが相続する、と決められていましたが、カール六世の兄ヨーゼフ一世にも2人の娘がいて、長女はザクセン選帝侯、次女はバイエルン選帝侯と結婚していました。オーストリア継承戦争が起こるのも、歴史の必然だったわけです。

この大変な時期に、シェーンブルン宮殿は完成します。完成したのは1743年で、ようやく生まれた長男のために、マリア=テレジアはなんとしてでも、ハプスブルク家の領土を守り、神聖ローマ皇帝の帝冠をハプスブルク家に取り戻さなくてはなりません。この壮大な宮殿には、マリア=テレジアが込めた思いを示すものがいくつか、隠されています。

シェーンブルン宮殿を形成する魔除けの五芒星

皆さんは、日本の平城京や平安京が、ある秘密の都市計画に基づいて作られたことはご存じでしょう。ヨーロッパの都市も、これとは別の秘密の都市計画で造られています。ウィーンもまたそうなのですが、ウィーン郊外にあるシェーンブルン宮殿も、秘密の計画図によって、庭園にさまざまなものが配置されているのです。それらをつなぐと、ほぼ正五角形が出来上がります。正五角形、すなわち風水でいう五芒星は、ヨーロッパでも魔除けと考えられてたのでした。この五芒星が、広大な庭園を含めたシェーンブルン宮殿に隠されてあるのは、あまり知られていませんね。

宮殿を抜けると広い庭園に出ますね。その庭園のはるか先の小高い丘の上に、グロリエッテが立っています。これが五芒星の頂点ですが、そこから108度曲がって右手に降りると動物園の入口があり、これも頂点のひとつです。ここで108度曲がって下に降りてくると、ヴァーゲンブルクという馬車をしまっておく建物があり、この底辺の左には、オランジェリー。ここでまた108度曲がって上に行くと、古代エジプトのオベリスク。そしてその右上のグロリエッテに戻って、正五角形が完成します。

シェーンブルン宮殿は、ハプスブルク家の夏の離宮になりました

シェーンブルン宮殿は、ハプスブルク家の夏の離宮になりました

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マリア=テレジアが家族とともに過ごしたシェーンブルン宮殿

さまざまな秘密の隠されているシェーンブルン宮殿。16人も子どもを産み、家族を大切にしたマリア=テレジアにとって、シェーンブルン宮殿はもう、狩猟館ではなく、政治をしながら家族とともに過ごすための夏の離宮として生まれ変わりました。バロック建築の巨匠たちが建設に携わったシェーンブルン宮殿ですが、この頃には、華麗な内装が特徴のロココ式宮殿として、宮殿の内装も、広い庭園も整備されていきました。

マリア=テレジアの子どもたちはみんな、音楽教育を受けました。シェーンブルン宮殿には現在立派な宮廷劇場がありますが、これは音楽好きの子どもたちのための「家庭の劇場」。この劇場は、マリア=テレジアが、ニコラウス・パッカーシーという建築家に依頼して、夫であるフランツ一世に捧げたものです。ここではなんと、あのハイドンやモーツァルトが指揮をするコンサートも行われたのですよ。

1763年に、「神童」と言われた当時6歳のモーツァルトが、シェーンブルン宮殿で演奏をしたとき、幼いマリー=アントワネット(1755~1793)に、「将来ぼくのお嫁さんにしてあげる」と言ったというエピソードは有名ですが、当時45歳のマリア=テレジアの膝のうえにモーツァルトが飛び乗った、とも言われています。

現存する世界最古の動物園もあります

マリア=テレジアの話ばかりしましたが、彼女の夫のロレーヌ公フランツ=シュテファン(1708~1765)は、1745年に戴冠して、神聖ローマ皇帝フランツ一世となりました。政治的な力はわとんどなく、それはすべて「女帝」と呼ばれた妻にまかせましたが、自然科学には興味がありました。シェーンブルン宮殿には動物園があり、現在はパンダがいますが、この動物園を作ったのは皇帝フランツ一世でした。

この当時、ヨーロッパ以外の土地、とくに熱帯にいる動物や植物や昆虫などを収集するということが流行しました。動物園のとなりに熱帯植物園がありますが。まずはオランダから宮廷造園師を呼び寄せて、これが作られました。そしてそのあと1752年に、現存する世界最古の動物園が、たった1年間で作られました。当時のスターはインドサイで、1941年にロッテルダムに到着し、1746年秋にウィーンに貸し出され、1750年にウィーンのものになりました。動物園は、このインドサイのためにあわてて作られた、というわけです。

動物園の中央には、現在カフェになっているパビリオンがありますが、動物や植物が好きだったフランツ一世は家族とともに、それらを眺めながら、ここで食事を摂ったりコーヒーを飲んだりしたことでしょう。

ナポレオンに占領された時代もありました

ナポレオンに占領された時代もありました

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フランス皇帝ナポレオンもここが気に入ったようです

1779年にシェーンブルン宮殿の庭園が、市民に開放されたのですが、それは民衆に人気を得ようとする皇帝ヨーゼフ二世の政策だったのでしょう。それほど民衆の力も強くなったということですが、フランスではとうとう、その民衆によって1789年にフランス革命が起こってしまいます。せっかくマリア=テレジアの末娘マリー=アントワネットがフランス王ルイ十六世の王妃になったのに、それも無駄になってしまいましたね。その後この革命は悠曲折を経て、コルシカ人のナポレオンが、1804年にフランス皇帝になります。

ハプスブルク家はナポレオンと戦うのですが、結局負けてしまって、最後の神聖ローマ皇帝で、初代オーストリア皇帝となったフランツ一世(1768~1835)は、娘のマリー=ルイーズをナポレオンと結婚させます。ナポレオンは1805年から1809年まで、シェーンブルン宮殿を自分の宮廷として利用します。そしてここで、マリー=ルイーズはナポレオンの息子ナポレオン二世を産みます。それは1811年のことで、ナポレオン失脚の直前でした。

1814年から15年にかけて、ナポレオン後のヨーロッパをどうするかについて行われたウィーン会議も、おもにシェーンブルン宮殿が使用されました。毎晩踊ったり、食事をしたり、冬には庭園でそり遊びが行われました。ナポレオンの遺児はその後、ライヒシュタット侯の名前をもらい、ここに暮らしましたが、15歳のときに結核になり、1832年にシェーンブルン宮殿で死亡しました。

ライヒシュタット侯は、ある「予言」をしました

ナポレオンのただ一人の息子であり、オーストリア皇帝フランツ一世の孫でもあるライヒシュタット侯は、シェーンブルン宮殿で暮らしたとはいえ、ナポレオン派に担がれる恐れがあるので、言わばここに「軟禁」状態にあったということです。あのナポレオンの血を継ぎながら、21歳の若さでこの世を去った青年ですが、そういう青年にはある特殊な能力が備わっているのかもしれません。

オーストリア皇帝フランツ一世には息子がいて、この息子が次の皇帝フェルディナント一世(1793~1875)になることはすでに決まっていました。実際に1835年にフランツ一世が死んだあと、皇帝フェルディナント一世が誕生します。しかし、この皇帝には少々問題があり、うまく政治をすることも、また子孫を残すことも望めませんでした。そこで、1830年、フランツ一世の弟フランツ=カール大公とゾフィーとの間に男の子が生まれたときの、ライヒシュタット侯の「予言」です。

「獅子座に生まれ、体内に嵐をもつ女性の胎内から生まれたこの子は、戦に生きることになろう。太鼓の響きによって育てられる。窓の下には衛兵が駐屯しているのだから」

この男の子こそ、1848年の三月革命で退位したフェルディナント一世に代わって、18歳で皇帝になるフランツ=ヨーゼフ一世(1830~1916)だったのです。

華麗な夏の離宮から、帝国の政治の中心になりました

華麗な夏の離宮から、帝国の政治の中心になりました

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世界で一番美しいと言われたエリザベートとの結婚

皇帝フランツ=ヨーゼフ一世は、1854年に、母親の姪であるエリザベート(1837~1898)と結婚しました。シェーンブルン宮殿には、グロリエッテの反対側に、近衛兵のの駐屯地があります。フランツ=ヨーゼフ一世は、ナポレオンの遺児の予言通り、ほとんど軍服を着て生活していましたし、シシィという愛称で呼んだ美しい妻とのあいだに生まれたルドルフ(1858~1888)は、5歳のときからここで軍隊式の厳しい教育を受けました。当時の絵を見ると、父親をはじめすべて軍服を着た男性の集団の先頭に、やはり軍服を着た幼い男の子が立っています。

宮殿にはトイレがない、と噂されていますが、シェーンブルン宮殿にはもちろん、皇帝フランツ=ヨーゼフ一世専用のトイレがありました。簡素を好んだ皇帝でしたから、トイレもやはり簡素なものでした。それに対して、皇妃エリザベートの「化粧室」は、さすがに立派なものでした、また、彼女専用の体操室もありました。今は博物館となった宮殿に、彼女が使った体操の器具が展示されています。

マリア=テレジアの時代のシェーンブルン宮殿は夏の離宮でしたが、フランツ=ヨーゼフ一世の時代は、むしろここが政治の中心で、夏はバートイシュルという温泉地のカイザーヴィラという別荘で過ごしました。ウィーンを嫌って各地を転々としていた皇妃エリザベートも、夫の誕生日にはその別荘を訪れたそうです。

ここで、ハプスブルク帝国は最後を迎えました

皇太子ルドルフがマイヤーリンクという狩猟館で謎の死を遂げたため、皇位継承者は甥のフランツ=フェルディナント大公(1863~1914)になりました。この大公も、1914年に暗殺されて、それがきっかけで第一次世界大戦が始まってしまいます。戦争は当初の予想に反して泥沼化してしまいますが、1916年に皇帝フランツ=ヨーゼフ一世が死んで、カール一世(1887~1922)がその跡を継ぎます。そして遂に、1918年11月に最後のオーストリア皇帝カール一世は、シェーンブルン宮殿で皇帝退位の文書に署名して、ハフスブルク帝国は最後を迎えました。

その後、オーストリア共和国が誕生し、さまざまな「民主化」が行われます。驚くべきことに現在、宮殿の一部がアパルトマンになっていて、考えられないほど安い賃料で借りて住んでいる人たちがいます。それは、この「第一共和国」の「遺産」なのでしょう。

やがて、ドイツではヒトラーが政権を掌握し、その野望は、この「第一共和国」をドイツ第三帝国の一部として吸収してしまいます。オーストリアの人たちもドイツ人として、第二次世界大戦に巻き込まれていきます。この戦争の末期には、ドイツ各地は連合軍の空爆で破壊されましたが、シェーンブルン宮殿も、1945年2月19日に空襲を受けています。

第二次世界大戦後は、四カ国の占領下に置かれましたが、1955年5月15日に国家条約が結ばれ、スイスと並んで永世中立の「第二共和国」がスタートします。この時代はまさに、アメリカとソ連との「冷戦」と言われていました。その冷戦のさなか、1961年にアメリカの大統領ケネディとソ連の首相フルシチョフの会談が、シェーンブルン宮殿で行われます。ウィーンはまさに、東と西に分裂した世界の接点に位置していたのです。

この冷戦も1990年に終わり、シェーンブルン宮殿にはなんと、年間650万人もの観光客が訪れました。オーストリア共和国の人口が830万人程度ですので、この数字のもつ意味は、ご理解頂けるかと思います。

シェーンブルン宮殿では、日本のものも見られます

もともとはハプスブルク家の私邸であったシェーンブルン宮殿も、今は貴重な国有財産として、外国からの観光客はもちろん、ウィーン市民たちも、ここを憩いの場として訪れます。宮殿は博物館になっていて、日本の家具調度品を置いた部屋も見ることができます。1873年ウィーンの万国博で日本ブームが起こり、シェーンブルク宮殿の庭園の一角に、日本式庭園も造られました。今はこの日本式庭園も修復されて、広い庭園の片隅にあります。
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piaristen

Writer/Editor:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

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