ドラマやアニメの舞台にもなった人気のクロアチア!まずは知っておきたい歴史の街4選

クロアチア共和国の名前を聞いたことある方は多いのではないでしょうか。1990年代にはユーゴスラビアからの独立と内戦のニュースで名前を耳にすることも多く、最近ではサッカーのワールドカップで日本と対戦したことで知った方もいるかと思います。

クロアチアという国は、歴史的に見ると2つの地域が結びついた国。現在の国内にも飛び地があり、首都ザグレブとアドリア海に面したドゥブロヴニクの地域は途中から異なる歴史を歩んできたのです。

複雑な歴史を持つクロアチアは街ごとにその歴史を残していることから、アニメの舞台とになったり、人気海外ドラマの撮影地にもなっています。そのため、最近では人気の観光地として注目されています。

今回はクロアチアの中で、各時代を象徴する歴史ある4つの街をたどっていきたいと思います。
まずはクロアチアの歴史の足跡を巡る前に、簡単にクロアチアの歴史をみていきましょう。


クロアチア共和国が生まれるまでの歩み

クロアチア共和国が生まれるまでの歩み

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現在のクロアチア人が入ってくる前からみてみましょう。

紀元前4世紀にはケルト人とギリシア人が街を作り始めていました。

そして紀元前2世紀には古代ローマの属州となっており、カエサルやポンペイウスとが戦ったことで文献にも登場しています。

また、この地域は複雑な岩場と小さな島々、豊富な海の幸などでアドリア海の要所となり、この地域から皇帝を出したこともありました。

ローマ帝国崩壊後に起こった民族の大移動でこの地には南スラヴ人が移住してきます。
その彼らがクロアチアをはじめとするブルガリア、セルビア、スロヴェニアの民族へと発展します。

そして9世紀ごろにフランク王国の支配になりそのころからキリスト教を受け入れ、ビザンツ帝国の支配を経て、東西の教会分裂の際にカトリックの地域となります。

クロアチア初の王国は10世紀初頭にアドリア海沿岸のダルマチア地域から発展し、ローマ法王から独立国と認められて成立しました。

クロアチア王国は1102年まで独立を維持しますが、次第に内紛が起こり、そこからハンガリー王が介入。

ハンガリー国王がクロアチアの王をかねることになります。

そして14世紀中ごろにはドゥブロヴニク(当時はラグーザ共和国)が独立し、15世紀にはドゥブロヴニクを除いたダルマチア地域がヴェネツィア共和国の支配になりました。

ここで、現在の首都ザグレブを含むクロアチアととダルマチア地方の歩みは分かれることになりました。

ウィーン会議からユーゴスラビアからの独立まで

クロアチアは15世紀にハンガリーがハプスブルク家の支配になると、オーストリア=ハンガリー帝国の一部となります。

一方ドゥブロヴニクは15~16世紀はイタリアの4大海洋国家と肩を並べるほど海運業で発展していき、ライバルはヴェネツィア共和国だけになるほどでした。

しかし、1667年に起きた大地震と新大陸発見に端を発した大西洋の貿易ルートが発展したことによる地中海貿易の不振から、ドゥブロヴニクは衰退の道をたどることになります。

19世紀にヨーロッパ中の国を巻き込んだナポレオン旋風でヴェネツィア共和国は崩壊し、オーストリア=ハンガリー帝国の力が削ぎ落されました。

このころからバルカン半島に民族意識が芽生え始め、民族による独立運動が起こるようになったのです。

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が名実ともに崩壊した際にセルビア・クロアチア・スロベニア人王国領に組み込まれ、セルビア人が主導とするユーゴスラビアからの長い独立の道を歩むことになります。

1995年まで民族の独立運動は続き、現在はクロアチア共和国の独立が正式に認められました。

アドリア海の真珠とよばれるドゥブロヴニク旧市街

アドリア海の真珠とよばれるドゥブロヴニク旧市街

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地中海の光を受けて輝く碧い海の上に突き出た、オレンジ色のかわら屋根の家が連なっているかわいらしい街。

旅行パンフレットなどでクロアチアが掲載されるときにはよく使われるそんな景色の街がドゥブロヴニクです。

「アドリア海の真珠」とうたわれ、近年ではスタジオ・ジブリの「魔女の宅急便」や「紅の豚」などの舞台のモデルになった街だと言われている街でもあります。

この街はクロアチアの中でもちょっと特別な街です。

ドゥブロヴニクはアドリア海に面した街で、地中海貿易で大きく発展ました。
もともとこの地域は複雑な海流と小さな島が多いことから、船が寄港できる港が少なく、アドリア海を抜けるのにドゥブロヴニクで一旦帆を休めていくのにちょうど良い位置でもありました。

そして立地だけでなく、ローマ帝国からハンガリーまでさまざまな国に支配されましたが交渉で自治権を常に確保しその独立性を保ち続けたのです。

オスマン帝国がバルカン半島へ進出し、ヴェネツィア共和国との戦争に巻き込まれないよう、オスマン帝国に一部の区画を売り渡すことで街の独立を確保しました。

それが現在の国境にも影響しており、その時に売られたのがボスニア・ヘルツェゴビナで唯一のアドリア海に面した港街であるネウムです。

16世紀の出来事ですが、現在のクロアチア国内に飛び地を作ることになりました。

歴史がギュッと詰まった街なみ

城壁で囲まれたドゥブロヴニクの旧市街地は世界遺産に登録されており、見どころはたくさんあります。

レピ門のすぐ近くにあるサンフランシスコ会修道院は14~15世紀に建てられたのですが、1667年の大地震で崩壊し、建設当時の様子は中庭で観ることができます。

また、修道院内には1391年に開業したヨーロッパで3番目に古い薬局「マラ・プーチャ薬局」が現役で営業しています。

ドゥブロヴニクでは中世のころから医療体制が整っており、養老院や隔離病棟、孤児院など現代に近い体制がありました。

修道院には当時の薬壺や処方箋などが展示されており、当時の医療技術を知ることができます。

旧港の近くにあるスポンザ宮殿は1516年に建てられた物資や税関の管理する館でした。
1667年の大地震で被害を受けなかった数少ない貴重な建物で、17世紀になって交易品が少なくなり税関の役割が減少すると人々が集まるサロンのような場所となり、街の人や知識人が情報を交換するたまり場となりました。
現在は古文書館として昔の情報を管理しています。

その他にもたくさんの絵画や建物がありますが、最後に最大の見どころ城壁を観ておきましょう。

ドゥブロヴニクの街全体を囲む城壁は7世紀から12世紀に作られたもので、幅は5メートル・高さ20メートルの堅牢な作りの城壁です。

これらは大地震でも崩れず、主に12世紀の城壁が残されており、現在は観光客の遊歩道になっています。

この城壁をぐるりと一周しながら外へ目を向けると遠く広がる海が近くにあり、この街を包み守ってきたことがよくわかります。

城壁の上から街を見下ろすと、特徴的なオレンジ色の瓦に濃淡があることに気づきます。

1991年に独立戦争の際に、街は壊滅的に攻撃をされました。

その砲撃で残った瓦を再利用しているため新旧の色が違う瓦が並んでいるのです。

これもまた、歴史が作りだした風景なのではないでしょうか。

皇帝の宮殿から生まれた街 スプリット

皇帝の宮殿から生まれた街 スプリット

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スプリットはアドリア海に面した港町で、かつてローマ皇帝が住んだ宮殿跡が街に発展していった全国でも珍しい街の起源を持つ街です。

この街の土台になった宮殿に住んだ皇帝は3世紀の終わりに即位したディオクレティアヌス帝。

彼が皇帝になった当時、ローマ帝国は軍隊の武力で政治を動かす軍人皇帝時代で、皇帝が即位しても次々とその地位を狙って暗殺が繰り返され、広域な領土を統治する力が弱くなってきていました。

ディオクレティアヌスも軍人皇帝の1人として皇帝となりますが、彼は自分1人では広いローマを治めることはできないと考え、帝国領を東西に分けて分割して統治しました。

これが後々ローマが東西に分かれる事になる前例となります。

そして、キリスト教の弾圧を大きく行った事から彼の名前はキリスト教徒にとっては忘れられないものとなりました。

313年にコンスタンティヌス帝が国教として認めるまでの歴史でネロと並ぶ弾圧だったと言われています。

そして、ディオクレティアヌス帝の統治でもう1つ特徴的なのは、自ら望んで皇帝の座を退いた事です。
歴代の皇帝で引退をした人はいません。

彼は305年に引退し、生まれ故郷であるダルマチアに戻りこのスプリットの街に宮殿を作って10年を過ごし、生涯を閉じました。

ディオクレティアヌス帝の時代を境にローマ帝国の方向性は大きく変わり、その後のローマ帝国の行く末を決めた皇帝だとも言われています。

古代と中世が入り混じった不思議空間の宮殿

堅牢な城壁に囲まれた宮殿はこの地域にスラブ人などの民族が大挙した時に近隣の街から人が避難したことから人が住むようになりました。

そして、次第に人々が自分たちの暮らしに合わせて増改築を行ったことから、古代と中世の時代が混ざり合った建物が出来上がりました。

そしてその時代が入り混じった雰囲気から、この宮殿は欧米で人気の歴史ファンタジードラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」の撮影地にもなっています。

宮殿で見どころなのは大聖堂。
この大聖堂は元々はディオクレティアヌス帝の霊廟として建てられたものが、後にキリスト教の大聖堂として使われるようになりました。

コリント式の8本の柱とその上の柱が円形に並んだ大聖堂の中は、上部にディオクレティアヌス帝と思われるレリーフが残されています。

大弾圧されたキリスト教徒たちは皇帝の石棺は海へ捨てたと言われているほど彼に対する憎しみがあり、皇帝の像などは破壊されているため、このレリーフはとても貴重です。

この大聖堂には古代の足跡だけでなく、ロマネスクを代表するレリーフが美しいオーク材の扉や説教台など完成度の高い美術品を観ることができます。

大聖堂の横に建つロマネスク様式が美しい鐘楼に登ると宮殿を中心とした街を一望することができます。

そして、観ておきたい場所として最後に宮殿の地下をご紹介しましょう。

ディオクレティアヌス帝が宮殿を建てるときにできるだけ海に近い場所に建てたため、年々数センチ地盤沈下をしていき、今では1階だった部分が地下に掘り下げられたようになっています。

その地下は中世の時代に貯蔵庫に使ったりしたようですが主にゴミ捨て場としていたため、天井に届くゴミが詰められた状態でした。

皮肉にもそれが古代ローマ時代の空間を保存することとなり、上の階を支える補強にもなっています。

時代が入り混じった不思議な体験ができるこの宮殿を中心とした街は1979年に世界遺産に登録されました。

初期キリスト教美術の姿を残す街 ポレチュ

初期キリスト教美術の姿を残す街 ポレチュ

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クロアチアのアドリア海岸線の北側、ちょうどヴェネツィアの対岸にあたるイストゥラ半島の西にあるポレチュ。

この街の歴史は古代ローマから始まり、ビザンツ帝国、フランク王国、ヴェネツィア共和国、オーストリア=ハンガリー帝国と時代の覇者に飲み込まれたものでした。

美しいアドリア海に突き出た細い地域に発展した港町で、旧市街には時代の地層が建物などに観ることができます。

その中でも最も特筆したいのが世界遺産にも登録されているエウフラシウス聖堂。

この聖堂はビザンツ様式で建てられた聖堂で、美しいモザイクで飾られた内部が特徴的です。

建てられたのは4世紀から6世紀にかけて。
黄金のモザイク画や石膏細工など初期のキリスト教文化をよく残しています。

入口の黄金のモザイクや床に描かれたモザイクの文字、祭壇がドームを重ねたような形で作られ、ビザンツ美術のタイムカプセルのような聖堂です。

Writer:

旨いものとヨーロッパが大好きなアラフォー女子。背中に羽の生えたペガサスのようにジャンルを問わず様々なことに興味を持ってはアレコレと調べるクセがあります。 1人でも多くの方が、今まで見たことのない景色や面白さを感じていただけるような記事を書けるよう、精進の日々です。

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