そうだったんだ、フランス!ちょっと意外なフランスの歴史エピソードをめぐるスポット

フランスと聞いてまず何を思い浮かべますか?

フランスパンやマカロン、エッフェル塔におしゃれなパリジェンヌなどでしょうか。
なかにはパリのテロを思い出される方もいるかもしれませんね。

では、フランスの歴史といえばどうでしょうか?
フランスの歴史と聞いて思い出されるのはやはりフランス革命やルイ14世のベルサイユ宮殿や観光の名所モン・サン・ミシェルといったところかと思います。

これらも大事な歴史の足跡ですが、今回はそんな有名なところからちょっと外れたフランスのあまり知られていない歴史とそれを知ることができるスポットをご紹介したいと思います。

中世の時代、ワインの名醸地・ボルドーはイギリスだった?

中世の時代、ワインの名醸地・ボルドーはイギリスだった?

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フランスの中でも有数のワイン銘醸地のひとつとして知られるボルドー。

現在のフランスの南西部にあるスペイン寄りのこの地域は12世紀半ばからイギリス王の支配下にありました。

一時はイギリスの向かい側にある大西洋側のノルマンディーからボルドーを含むアキテーヌ地方まで、フランスの海沿い西半分がイギリス王の領地だったのです。

表向きはフランス王が与えた公爵領の相続でしたので、イギリス王はフランス王に臣従礼を行っていましたが、実質的には対等でした。

なぜこんなことになったのでしょうか。

それは12世紀にこの地域を納めていたアキテーヌ公の公女アリエノールの結婚によって起こったことでした。

アリエノールは最初15歳の時に後のフランス王ルイ7世と結婚。

しかし、十字軍遠征に参加したアリエノールとルイの宗教観が違うことから、意見が対立。

近親婚だったとして離婚を申し立てます。

そしてローマ教会から許可が降りた数ヶ月後にアリエノールは浮気相手のアンジュー公でノルマンディー公であったヘンリー・プランタジネットと結婚。

アキテーヌ公爵の直系男子がいないことからアリエノールが公爵領を相続。
これによりヘンリーはアキテーヌ公爵も兼ねることになります。
するとその2年後、当初はイングランド王になる予定ではなかったヘンリーが王位を継ぐことになります。

完全に棚ぼた式に相続した王位ですが、あれよあれよと言う間にフランスの西半分がイングランド王のものになったのです。

月の港ボルドーに残る中世の足跡を探してみましょう

月の港ボルドーに残る中世の足跡を探してみましょう

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アリエノールとヘンリーが結婚式を挙げたサンタンドレ大聖堂は今でもボルドーの街の中心地にあります。

大聖堂北側の「王の門」に施された「最後の審判」の彫刻は大変古く、1250年に作られた南フランスのゴシック様式の典型です。

内陣はとてもシンプルなゴシックの天井を持つ静謐な雰囲気。

古くからボルドーの守護神とも言われ、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の1つとして世界遺産に登録されています。

今のボルドー旧市街はフランス革命以降に都市開発されたため、中世の時代の面影は少ないのですが、アキテーヌ門は中世の時代に街を守った城壁の一部が使用されています。

とても奥行きの厚みがあり、華美な装飾もない無骨でがっちりとした堅牢な門。

これほど厚い城壁に囲まれた街だったのですから、経済的に力もありまた周辺から狙われるほど要所だったと想像できます。

さて、アリエノールの結婚によってイギリス領となったアキテーヌ地方。

古代ローマ時代からその品質で知られるボルドーワインはイングランドの貴族たちが大量に消費することで、品質が向上し、経済的にも発展してどんどん豊かになっていきました。

これが面白くないのは元夫のルイ7世。

表向きはフランス王が公爵へ与えた土地ですので、宗主権を振りかざして取り返そうとするようになり、対立が生まれます。

1152年からはじまった断続的に続く争いは、フランスの諸侯も巻き込むことになり、ついに百年戦争にまでもつれ込んでいきます。

ジャンヌダルクが現れて戦争が収束する1453年まで何と300年以上続いたのです。

100年もアヴィニョンにあった法王庁は王が無理やり連れてきた?

100年もアヴィニョンにあった法王庁は王が無理やり連れてきた?

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キリスト教のトップであるローマ法王がヴァチカンに住んでいることは、みなさんよくご存知だと思います。

この法王の住まいがヴァチカンに定まるまでの間、法王庁はローマから飛び出て南フランスのアヴィニョンに存在したことがあるのはご存知ですか?

中には世界史の授業で聞いたことがある方もいるかと思いますが、1309年から1377年までの約70年間、ローマ法王はアヴィニョンに住んでいました。

歴史学上ではこれを「アヴィニョン捕囚」といいます。

そもそもの発端はフランス王とローマ法王との度重なる対立が原因です。

時のフランス王フィリップ4世は先のイングランドとのボルドーやフランドルの戦争で資金が不足していました。

そのため、教会にも税を課すようになったのです。

ローマ教会にとって信者の多いフランスの教会は大きな資金源ですから、当然法王はそれに抵抗します。
そこからは王を破門にしたり、王が法王の罪を訴え退位を迫ったりとやり合います。
そうこうしているうちに高齢の法王が度重なる心労と持病で憤死します。

これはカトリック教会の力を配下に置きたいフランス王に絶好の機会に。

元ボルドー大司教でフランス人のクレメンス5世が法王に選出されるのです。

フィリップ4世はクレメンス5世に法王庁をローマからアヴィニョンに移転させます。

実際は法王とフランス王の争いをしている間に神聖ローマ皇帝がローマを支配したため、帰りたくても帰れなくなったという面もありました。

かくして当時は単なる平野でしかなかったアヴィニョンに何千人ともいえる法王庁の人が住むようになり、急速に街が整えられることになったのです。

歴史に翻弄されたアヴィニョンの法王庁宮殿

アヴィニョンの法王庁宮殿はヨーロッパの中で最も大きなゴシック建築の建築物です。

重厚な外観はとてもガードの高い雰囲気を醸し出しています。

厳しい風貌の宮殿。
ローマのサン・ピエトロ寺院のイメージを持っていると少々驚くことになります。

急遽法王庁が移転してくることになって、わずか20年で宮殿と街は作られました。

アヴィニョン捕囚の間は7代の法王がここで執務を行い、当時の最先端の知識や文化がアヴィニョンを彩ったと言われます。

フランス革命で中世の時代の装飾や調度品は破壊されたり持ち出されたため、現在の法王庁宮殿には当時の名残はほとんどありません。

ガランとした広間や部屋が続きますが、キッチンなど生活を感じさせるスペースを見ることができます。

アヴィニョンは城壁に囲まれた街で、法王庁宮殿のゴシック建築と合わせて14世紀の築城技術を知ることができる街として、アヴィニョン旧市街地として世界遺産に登録されました。

今ではローマにあるのが当然と思っている法王庁がフランスにあった、しかも、パリではなく南フランスの小さな街にあったというのは歴史のイタズラのようですね。

フランスの王様はあっちこっちにフラフラしていた?

フランスの王様はあっちこっちにフラフラしていた?

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花の都パリ。

フランスに古くからある有名で大きな都市ですので、昔のフランス王はずっとパリに住んでいたと思っている方は多いのではないでしょうか。

世界有数の美の殿堂・ルーブル美術館はかつての王宮だったとパンフレットにも載っていますし、王や古い体制を打ち破ったフランス革命だってパリで起こりました。

しかし、歴史を振り返ってみると意外と王はパリに住んでいない時間が長いのです。

フランス王は主にパリのシテ島にあるコンシェルジュリーに10世紀から居を構えていましたが、十字軍や戦争などで何年も留守にしがちでした。

そして、14世紀半ばのシャルル5世の時代に宮廷をパリ以外に置く様になります。

フォンテーヌブロー宮殿やサン・ジェルマン・アン・レーなど近郊に居を構え数年ごとに移動するようになります。
そうなると、当然宮廷も王にひっついて移動していきます。

15世紀はじめの百年戦争真っただ中ではロワール沿いにいくつもの城を作り転々としていきます。
この戦争中に王家とパリが対立し、パリに入れない時代もありました。

百年戦争が終結した1453年からルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ移る1681年までの200年間、王はパリのルーブルと郊外の城を転々とします。

借金の肩代わりをしてもらう交換条件でパリに戻ったフランソワ1世や、民衆の支持が必要だったアンリ4世はパリを中心として政治を行いましたがそれぞれ20年未満。

フランス宮廷は伝統的に「移動する宮廷」だったのです。

途中ルイ15世の時代に7年ほどパリに居城を移しましたが、1789年のフランス革命までヴェルサイユ宮殿に王は住み続けます。
パリには100年間王が不在となりました。

ルイ16世は革命によってパリへ連れられ、フランス王家は終焉を迎えたのです。

そんなあっちこちにフラフラしていたフランス王のお城がいくつか残っているので、みてみましょう。

パリの王宮になったルーブル宮殿

まずは、あえてルーブル美術館ではなく、ルーブルを宮殿としてみてみましょう

現在の美術館になっている入り口あたりの8角形のエントランスの下にはとても古い城壁のような跡を見ることができます。

これはフランク王国ができて200年後に作られたルーブルの最も古い土台です。

ルーブルができた当初は王宮ではなくセーヌ川からの敵の侵入を阻むための要塞でした。

パリと呼ばれた街は主にシテ島とその周辺のセーヌ川沿いだけだったので、ルーブルは城壁外の要塞ということになります。

12世紀ごろにはフィリップ・オーギュストが十字軍へ参加するため、アキテーヌ公でもあるイングランド王がその隙に侵略してこない様、さらに要塞として整えられました。

この要塞からシテ島へ鎖が渡されて、夜間の侵入を防いだそうです。

要塞のルーブルが王宮へ変わるのはシャルル5世のとき。

シテ島にある現在のコンシェルジュリーの王宮が白昼堂々、王がいるときに襲われました。
敵対していた神聖ローマ帝国を後ろ盾にした一部のパリの民衆たちが犯人でした。

シャルル5世はより警備の固いパリ郊外のルーブルへ王宮を移しました。

ここから王宮として整えられるようになり、歴代の王がパリに戻るたびに手を入れ、どんどん増築され、フランス革命を経て今の形になりました。

美術鑑賞をする前に一度地下の要塞だった土台をみるのもルーブルの楽しみ方のひとつかもしれませんね。

ジャンヌ・ダルクと対面したシノン城

ロワール川右岸にある街の高台にそびえるブロワ城。

ここで生まれたルイ12世が1498年にフランス王に即位してからアンリ4世がパリに宮廷を移すまでの約100年間、このお城がフランス王の第1の城でした。

城を移ることがあっても基本的にはブロワ城に戻るということです。

このお城の特徴は3つの建築技術を観ることができること。

1500年ごろにルイ12世が建てた、煉瓦と石造りによって建てられた後期ゴシックのフランボワイヤンスタイル。

1515年に着工されたフランソワ1世の八角形の螺旋階段が印象的なルネサンス建築。

1635年に作られたルイ13世の弟・ガストン・オルレアンが作った典型的な古典様式。

フランスを代表する建築の時代変遷をまとめて観ることができる貴重なお城になっています。

そして、このフランソワ1世棟では1588年に凄惨な暗殺事件が起こった部屋があります。

当時ギーズ公アンリはパリ市民より絶大な人気と支持を得ており、事故死や病死が続くヴァロア王家から王位を奪おうとする空気が生まれていました。
国王アンリ3世は20名の刺客をギーズ公アンリに送り、惨殺したのです。

この事件からパリ市民から王としては認められないと宣言され、翌年には王も暗殺し、ヴァロア朝は終わりを迎えることとなりました。

そしてブルボン朝のアンリ4世が王になり、王宮をパリへ移したのです。

yuchico

Writer:

旨いものとヨーロッパが大好きなアラフォー女子。背中に羽の生えたペガサスのようにジャンルを問わず様々なことに興味を持ってはアレコレと調べるクセがあります。 1人でも多くの方が、今まで見たことのない景色や面白さを感じていただけるような記事を書けるよう、精進の日々です。

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