フランスの歴史でこれだけは知っておくべき9つのこと

フランスといえば日本でも旅行先として人気の高い国ですが、あなたはフランスにどういったイメージをお持ちですか?ルーブル美術館がある芸術の国、いろんな有名ブランド発祥のおしゃれな国、フランス料理やフランスワインなどの美食の国、といったように、人によって様々なイメージが浮かぶかと思いますが、私たちはフランスについてどれほどのことを知っているのでしょう?ここでは、豊かな文化と伝統の国フランスを知る上で絶対にはずすことができない、9の歴史的出来事についてご紹介していきたいと思います。

フランスってどんな国?

フランスってどんな国?

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 フランスの歴史についてご紹介していく前に、フランスの地理的条件や文化について少し見ていきましょう。
前提の知識としてそれらを理解することは、史実に対しての想像を膨らませる材料となりますので、歴史を理解するうえでの大きな助けとなるでしょう。

 現在のフランスの国土は、西ヨーロッパにある六角形の形をした本土、地中海に浮かぶコルシカ島だけでなく、南米やインド洋などにも領土を持っています。
その面積は西ヨーロッパのなかでも最大で、本土の面積だけでも日本の1.5倍の国土を保有しています。

 その本土の大半は緩やかな丘陵や平野なので、その居住可能地は日本のおよそ3倍以上です。
南から東では、山脈が自然の国境になっています。
西部、北部には平らな地域が広がっていて、農業国フランスの基礎となっています。
東部の国境には、ヴォージュ山脈が、スイス国境の方にはジュラ山脈が横たわっています。
ライン川は、ヴォージュ山脈の西岸に沿って流れていて、フランスとドイツの間の国境になっています。
イタリアとの国境となっているアルプスの山々は、その多くが標高4000m以上の巨峰で、その最高峰としてモンブランが有名です。

これだけは知っておこう!フランスの9つの歴史的事実

これだけは知っておこう!フランスの9つの歴史的事実

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 華々しい芸術や文化を育んできたフランスですが、その歴史は重厚で伝統深いものです。
旅行などでも人気のフランスですが、訪れる前にそんなフランスの歴史について知っておくことは、フランスを楽しみ尽すうえでは欠かせないことでしょう。
凱旋門やエッフェル塔などのフランスの各観光地の成り立ちを知ることで、それらを更に味わえることは言うまでもありません。

 それでは、そのフランス歴史のなかで絶対に抑えてほしい、9つの史実についてご紹介していきたいと思います。

1.古代ローマ時代の呼び名は「ガリア」

1.古代ローマ時代の呼び名は「ガリア」

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 古代ローマの時代、現在のフランスの位置にあたる地域は「ガリア」と呼ばれていました。
近代では、このガリアという語がフランスの雅称として使われることもあります。
ガリアの起源は、紀元前4世紀頃とされていて、ケルト人が居住していたと考えられています。
紀元前58年頃からガリア遠征を行ったカエサルによる「ガリア戦記」にも、ガリアの地にケルト人が居住していたことについての記述があります。

 ガリアを語る上で、この第一級資料であるガリア戦記をはずすことはできません。
ガリア戦記は、前述のガイウス・ユリウス・カエサル属州総督自らの手によって書かれた戦記です。
元老院へガリア戦争の戦況を報告するためのレポートのようなものだったと考えられています。

 ガリア戦争とは、紀元前58年から7年間にわたって行われた、共和政ローマのカエサルがガリアの全域を征服し、ローマの属州とした戦争のことです。
こうして征服を受けた後のガリアには、ローマ的な都市も建てられるようになり、ローマ化が一気に進んでいきました。

 そして、この戦争での実績によって、カエサルは将軍としての権威を高めたうえに、ガリアでの戦利品を私物化し、莫大な財産を蓄えます。
カエサルが得たのは名誉や富だけでなく、一緒に戦いの日々を過ごした将兵たちからの熱い忠誠心をも獲得しました、カエサルを慕う将兵たちの忠誠心は、ローマよりもカエサル個人に対して向けられるようになったのです。
これによりカエサルは、頑強な私兵軍団をつくりました。

 ローマの元老院は、このカエサルの勢力を恐れてポンペイウスと結託し、カエサルに対抗する姿勢を強めます。
そして、紀元前49年にはカエサル対元老院の内戦へ突入するのでした。

2.ゲルマン民族の大移動!フランク王国成立

2.ゲルマン民族の大移動!フランク王国成立

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 375年ごろから、ゲルマン人ゴート族が南下し、ローマ帝国を脅かすようになります。
これが、後に言われる「ゲルマン人の大移動」の起こりです。
その後、ゴート族以外のゲルマニアの民族も南下しだしローマ帝国の領土を侵すようになります。
ゲルマン人の移動はすべてが侵略的だったというわけではなく、平和的に行われることもありました。
その移動の原因は、他民族からの圧迫から逃れるためであったり、気候の変化によるものだったりと様々です。

 とくにゲルマニアの民族のひとつであったフランク族は、ローマ帝国と同盟を結び、他のゲルマン系民族とローマ系住民を吸収し、次第に現在のドイツやフランスに勢力を伸ばしていったのでした。
これがフランク王国成立の契機となります。

 このフランク人をはじめに統治したクローヴィス王は、カトリックを受容し自信もその洗礼を受けました。
このことは、旧ローマ帝国領のカトリック勢力からの支持を得ることができる上でも有益でした。
クローヴィス王は、その後も度重なる遠征を敢行し、507年には西ゴート王国からガリア南部を奪い、ガリアへの支配を確立させました。

 クローヴィス王の死後、フランク王国の領地は4人によって分割され、フランク王国は4つの分国に分かれることになります。
しかし、この分国の領主はほとんどが指導力に欠けたため、それら領主に仕える宮宰が実質的な力を握るようになりました。
なかでも、アウストラリア分王国のカロリング家はその権力を強化していきます。

 そして、カロリング家はアウストラリア分王国だけでなく、いつしかフランク王国全土を従える実質的支配者となりました。
そのカロリング家のカールは各地に派兵を行い、フランク王国の領土を最大にします。
こういった功績から、彼は「ヨーロッパの父」と呼ばれました。

3.百年戦争勃発!カペー家による統治

 カロリング家の後、987年にユーグ・カペーによってカペー朝が創始されました。
しかし、その王権はドイツ王国などと比べると脆弱なものでした。
13世紀ころからは徐々にカペー朝の王権の強化が進められ、フィリップ2世はイングランド王家の領土であったノルマンディーを奪いました。
この頃になると、その戦争のほとんどがローマ教皇との連携によって進められるようになります。

 しかし、時代が14世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は一転して対立します。
フランス王であるフィリップ4世によって、聖職者への課税が行われるようになったことなどが原因としてローマ教皇との対立を深めたのでした。
1302年、この状況の打開すべく、フィリップは議会を開催し、フランス国内の有力者たちから支持を受けます。
そして、ローマ教皇であるボニファティウス8世を幽閉に追い込み自死に至らしめました。
その後には、クレメンス5世を擁立、教皇庁を移転させ、フランス王権の教皇に対する優位性を世間に知らしめたのでした。
そうして、フランス教会は、ローマ教皇からの独立を成し遂げたのです。
このカペー朝の繁栄は永く続くかと思われましたが、フィリップ4世の死後の跡継ぎ不在によって断絶へと至ります。

 しかし、フランスでの王位継承は、カペー家の血筋のみが継承権を許されているというサリカ法典の規定がありましたので、カペー本家の断絶以降は、カペー朝の傍系であるヴァロワ家、ブルボン家へと受け継がれることになり、カペー家の血筋はまだまだ続くことになります。

 カペー本家の断絶後は、前述のヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王に即位しました。
しかし、フィリップ4世の孫であるイングランド王のエドワード3世は、自分こそが正当なフランスの王位継承者だと主張します。
有名な百年戦争の勃発です。
当初は、イングランドが優勢で、イングランド軍はパリを占領し、フランス王のシャルル7世をオルレアンにまで追いつめました。
しかし、ジャンヌ・ダルクの登場によって戦況は一転し、最終的には大陸領土をフランスが制圧して百年戦争の終結を見ます。

4.国民的ヒロイン!ジャンヌ・ダルクの軍隊指揮能力

4.国民的ヒロイン!ジャンヌ・ダルクの軍隊指揮能力

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 ジャンヌ・ダルクについては、百年戦争のところで少しだけ触れましたが、その指揮官としての能力は実際のところどうだったのでしょうか。
ここで、史実に基づきながら彼女の指揮能力を検証してみましょう。

 指揮官となったジャンヌは、それまで他の指揮官たちによる消極的な作戦を一新しました。
それによって、これまで防戦一方であったフランス軍が攻勢に出て、イングランド軍によって占拠されていたサン・ルー要塞を攻略し、1429年5月5日にはジャンヌが軍を率いて、サン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠しました。
翌日に指揮官たちの作戦会議の席で、ジャンヌは指揮官デュノワの消極策に反対し、イングランド軍へさらなる攻撃を加えることを主張していることが記録として残されています。
しかし、デュノワは攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令し、これ以上戦線を広げさせないように画策しました。
これを受けたジャンヌは、市民と兵を呼び集め、城門の責任者に門を開けさせるように働きかけます。
そしてジャンヌはこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞を攻略することに成功したのです。

 ジャンヌがサン・オーギュスタン要塞を攻略したその夜、ジャンヌは自身が参加していない作戦会議で、これ以上の軍事行動を中止することが決められたことを知ります。
しかし、ジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にはイングランド軍の拠点であるレ・トゥレルへの攻撃を主張しました。

 ジャンヌ・ダルクの指揮によって、オルレアンで劇的な勝利を収めたことが、フランス軍の攻勢の発端となりました。
予想していた以上の勝利をあげた直後、ジャンヌは王シャルル7世を説得し、自身をアランソン公の副官にさせ、ランスに侵攻しロワール川沿いの橋を占拠するという作戦に対する勅命を得ました。
しかしながら、当時のランスはイングランド軍の占領地の中心にあったことなどの状況を考えると無謀ともいえる作戦の提案でした。

 その提案を受け入れられ、フランス軍は6月29日にロワールからランスへ向けて進軍を開始します。
そして7月3日にはブルゴーニュ公国軍からの条件付降伏を引き出す結果となりました。
ランスへの道のりの中にあった各都市も抵抗することなくフランスに忠誠を誓い、これによりフランスはその領土を回復していきます。

5.ブルボン朝成立、ルイの台頭

5.ブルボン朝成立、ルイの台頭

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 1589年、ナヴァール王アンリが、フランス王に即位したことで、ブルボン朝が成立します。
そしてアンリは、政情の混乱を避けるためカルヴァンからカトリックに改宗し、保守派にすり寄りました。
その上で、1598年にはナントの勅令によって宗教的な寛容を示します。
しかしそういった策略も実を結ばず、アンリは、1610年に狂信的なカトリック教徒の凶刃に倒れることになりました。

 アンリの死後、ルイ13世が即位します。
ルイ13世はこれまでよりもさらに王権の強化を推し進めていきます。
アンリは三部会の開催を拒否し、官僚制・常備軍の整備をさらに進めたのでした。
そして、1618年より起こった三十年戦争では、カトリックという宗教的な立場よりもフランスの国益を優先して新しい教派を支援し、ブルボン家の勢力を拡大させ、カトリック派の反感を買います。

 1643年に、このルイ13世が死去し、まだ5歳と幼かったルイ14世が即位しました。
宰相のマザランがこれをよく補佐し、1648年にはアルザス地方とロレーヌの3都市を領土に加えています。

1661年には、宰相マザランが死去したために、その後ルイ14世の親政が始まりました。
ルイ14世は、さらなるブルボン家の勢力の拡大を図ったために、より一層の財政充実をもとめ、当時の財務長官のコルベールをその任にあたらせます。
コルベールは、かつてのフランス東インド会社を再建し、重商主義政策を推進しました。

当初は、イングランドのステュアート朝と友好的でしたが、名誉革命によってオランダ総督であったウィレム3世がイングランド王として即位すると、対英関係は再び悪化しました。

 イギリスとの抗争は長期に渡り、フランスは財政的な困難によって劣勢に陥っていきます。
フランスでは、国内の富裕層であったカルヴァン派がフランス国外に流出したうえに、贅沢の限りを尽くして建築されたヴェルサイユ宮殿もフランスの財政にとって大きな負担になったのでした。
イギリスとの抗争が長期化することは、フランスにとってこういった財政的困難をさらに大きいものにしたのです。

 太陽王とまで呼ばれたルイ14世の時代の「絶対王政」は、フランス人民1人1人にまで国家権力が及んでいたわけではありませんでした。
18世紀になると、パリでは多くのカフェが営業されます。
そのカフェが社会批判の社交場となりました。
このカフェのような、王の統治が及ばない空間で生まれた世論は、啓蒙思想につながっていきます。
こうした中でも、ルイ16世の時代まで王朝は持続しましたが、こういった世論によって絶対王政は限界を迎える様になりました。

6.フランス革命!バスチーユ牢獄襲撃やヴァレンヌ事件

6.フランス革命!バスチーユ牢獄襲撃やヴァレンヌ事件

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 1789年7月14日、バスティーユ牢獄襲撃事件が起き、フランス革命の契機となります。
このパリでの事件が伝えられると、その戦火はフランス全国にまで飛び火し、農民達が暴動を起こして、貴族や領主を襲い、借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生しました。

 これらの動きを受け、国民議会は、8月27日に人権宣言を採択するに至ります。
しかし、この時点ではまだ主権は国王にあったので、議会による法律の制定には国王の承認が不可欠でした。
ルイ16世は、議会から提出される民衆主導の法令の可決を拒絶し、これらの法案を承認することを拒否します。
民衆を侮蔑していた王妃マリー・アントワネットなど、国王の周りには強硬派しかいなかったということも影響しているでしょう。

 こういった政治的の影響によって、フランスの物価が高騰したために、これに怒ったパリの女性達が武器を手に市役所の広場に集まり、そのままヴェルサイユ宮殿に乱入したうえに、国王と議会に食糧を要求しました。
その一部は暴徒と化し、ルイ16世はこの圧力に負けて、人権宣言を承認します。
そして、それ以後はパリのテュイルリー宮殿に移り住むことになります。
ルイ16世は、パリ市民からの監視を受けながら暮らすことになってしまったのです。

 これらの革命勃発によって、貴族などの多くの特権階級が国外への亡命を始めていました。
1791年に国王と民衆との仲介者としての役割を果たしていたミラボーが死ぬと、過激化する革命を恐れたルイ16世も、スウェーデン貴族のフェルセンの助けを借りて、オーストリアへ逃亡しようと企てます。

 そして、ルイ16世一家はパリからの脱出を図りましたが、国境まであと少しのヴァレンヌで国民に見つかり、パリへ連れ戻されてしまいました。
この事件は、フランス全土に衝撃を与えるとともにルイ16世の反革命思考が暴露され、国民の怒りを買ってしまうことになります。
それまでは比較的に見て多数を占めていた国王擁護の国民からの支持をも失ってしまったのでした。

 1792年の4月、革命政府のオーストリアに対する宣戦布告によって、フランス革命戦争が勃発します。
しかし、貴族階級であるフランス軍の士官達は、革命政府に非協力的であり、そのためにフランス軍は各戦闘で戦いに敗れます。
マリー・アントワネットは敵方であるオーストラリアにフランス軍の作戦を漏えいさせることすらしていました。

 しかし、フランス軍はヴァルミーの戦い以後からに反攻に転じ、敵軍を国境の外にまで押し戻します。
戦いで活躍した義勇兵は、多くの下層民階級によって組織されていたこともあり、そういった人々の政治的発言力が増大していきました。
そういった背景から、ついに共和政府が誕生します。

 そして、その共和政府は、ルイ16世を革命裁判にかけました。
戦争の際に、ルイ16世がフランス政府や国民を裏切っていた数多くの証拠が提出され、国民公会はルイ16世の死刑を議決します。
約2万人の一般市民の目の前で、ルイ16世はギロチンによって処刑されました。
同じ年には、マリー・アントワネットも、市中を引き回された末に処刑されます。

7.第一共和制の誕生!その後の王政復古まで

7.第一共和制の誕生!その後の王政復古まで

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 ルイ16世の処刑後、共和政府によって貴族や教会から没収した土地の再分配が行われました。
革命期の政治家ロベスピエールは、王妃マリー・アントワネットや王党派のダントンらを処刑すると、恐怖政治を行うようになります。
しかし、このロベスピエールも1794年にクーデターにより失脚し、処刑されてしまいます。
そして1799年、ナポレオン・ボナパルトがクーデターにより新政府を樹立するとその独裁権を握りました。

 それから5年後の1804年、ついにナポレオンが皇帝に即位します。
その後、ナポレオンはトラファルガーの海戦・ロシア遠征などによって、欧州諸国に戦争を仕掛けました。
ナポレオンが起こしたこの一連の戦争はナポレオン戦争と呼ばれます。
しかし、ナポレオン率いる帝国軍はライプツィヒの戦いに敗れたことをきっかけに1814年に退位することになり、戦後処理のためのウィーン会議の決定でエルバ島へ流刑されることになりました。
しかし、その翌年の1815年には、エルバ島から脱出したナポレオンは復位します。
しかし、今度はワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンは再び退位の憂き目に遭いました。
そのナポレオンの失脚後、今度はルイ18世がフランス国王に即位します。
このブルボン家の復古は、諸外国によって承認されました。

 よく保守反動的な体制といわれるウィーン体制ですが、かつての絶対王政へ完全に回帰したわけではありませんでした。
選挙による立憲君主政が採用され、法の下の平等や所有権の不可侵、言論の自由なども認められていました。
すなわち、かつての厳しい身分制の枠組みは復活しなかったのです。
しかし、1ルイ18世の弟シャルル10世が即位すると、亡命した貴族への補償を行うなどしてさらに王権復古的な政治を推し進めます。
こういった政策に対して、王への反発が強まったため、シャルル10世は、アルジェリアへの出兵によって関心を逸らそうとしましたが、1830年には七月革命が起き、シャルル10世も失脚の憂き目にあります。
しかし、この革命は立憲君主派によって起こされたため、共和政には移行することはなく、オルレアン家のルイ・フィリップが王として選ばれました。

8.ナポレオン3世の登場

8.ナポレオン3世の登場

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 こうして、自由主義者として有名なオルレアン家のルイ・フィリップがフランス王となりました。
7月革命によって即位した彼の治世は7月王政と称されます。
この王制では、厳しい制限選挙によりブルジョワジーにしか政治参加が認められませんでした。
そういった王政への反発として、二月革命が起こり、ルイ・フィリップもと退位へ追い込まれました。
そして、この二月革命がヨーロッパ全体へと広がっていきます。

 二月革命によって成立した臨時政府は、ブルジョワ共和派と社会主義者の連携が図られていました。
しかし、様々な諸政策で対立が深まり、その影響によって総選挙で社会主義者が大敗を喫したことを受け、国立作業場が閉鎖されます。
これにパリの労働者が反発し、六月蜂起を起こしましたが、カヴェニャック将軍によって早々に鎮圧されました。

 この一件は、ブルジョワジーに、社会主義的な革命に対する恐怖心を抱かせました。
彼らは以前のように改革を進めることを否定し、保守化したことによって市民革命の時代は終焉を迎えたのです。
このような政治的混迷のなかにあって、農民やブルジョワジーたちは強力な指導者の登場を待望するようになりました。
その期待に応えるようにして、1851年12月、ルイ・ナポレオンが国民投票により皇帝に即位したのです。

 即位後のナポレオン3世は、有名なクリミア戦争などを含む数々の諸外国遠征の成功によってその威光を高めました。
その一方で、フランス国内においては、大規模なインフラ整備によって工業化を推進します。
工業化によって新たに創出された雇用は、失業者の減少にもつながり、ますますナポレオン3世は人々からの尊敬を集めたのでした。
ナポレオン3世による統治の前半は、言論の自由が制限されたりと以前のような権威主義的な統治でしたが、前述のように労働者の支持も獲得し、工業化の推進によってブルジョワジーの期待にも応えました。
このように、ナポレオン3世はフランス国民全体からの直接的な支持を集め、フランスの政治運営を行ったのでした。
こうした統治の方法には、後のポピュリズムにも通じるような要素が見いだされると思いませんか?

 しかし、こうした彼の絶大な権力は、派手な成功を維持し続けなければ維持することはできませんでした。
1860年代、アメリカ大陸への進出を目指すために行ったメキシコ出兵で失敗し、その威光が弱まります。
また、ナポレオン3世は、自由貿易体制をとったために、フランス国内の産業はイギリスの優れた工業製品に取って代わられ、打撃を受けていました。
このような失政が続き、以前のような権威主義的な統治も難しくなり、段々と議会に対して妥協せざるを得ないことが多くなっていきます。
さらに、世論を自らの権力基盤としていたので、エムス電報事件によって世論が反ドイツ大きく傾くと、民衆によって、開戦を避けられない状況に追い込まれました。
かつて自分を支えた世論が、今度は自分の首をしめるような結果になってしまいます。
そして、1870年に普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世が捕らえられたことによって第二の帝政は幕を閉じました。

9.フランスから見た2つの世界戦争

9.フランスから見た2つの世界戦争

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 時代は進み1914年、第一次世界大戦が勃発します。
連合国側のフランスはドイツと戦いました。
その戦争の中で、フランス軍は長い塹壕戦を強いられます。
大戦中に戦場となったフランスの地は荒廃してしまいました。
兵士たちは、いつ終わるかも分からない戦争に嫌気が差し、士気は低下していくようになり、ニヴェル攻勢の集団抗命に繋がります。
しかし、最終的には、ドイツ革命によるドイツ崩壊までフランスの国土持ちこたえさせました。

 1939年、二度目の世界大戦が勃発します。
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると、フランスはイギリスと共にドイツに宣戦布告しました。
しかし、翌年にドイツはフランスに侵攻し、フランス軍はこれに打ち破られ、その年の6月22日には、休戦協定が締結されます。
これによって、フランスドイツとイタリアに占領されることとなりました。

 フランスでは、戦争に敗れたことで共和政への非難の声、反イギリス的な感情が高まり、フィリップ・ペタンに対する崇拝的な権威主義が隆盛します。
そして1940年7月10日にはペタン政権が成立しました。
当時、ヴィシーにその首都が置かれたため、ヴィシー政権と呼ばれます。
しかし、実質的にはドイツによって支配されているため、実際のところはドイツの傀儡政権だったのです。
その一方で、フランス領であったインドシナは南進してきた日本軍によって支配されることになります。

 ドイツによる占領は苛酷で、1942年以降にはレジスタンス運動が高まるようになりました。
そして、ノルマンディー作戦によって、フランスはその国土の大半を取り戻します。
また、1945年のドイツの降伏によって全土は再びフランス手に戻りました。

重厚な歴史に基づく伝統の国

以上、フランスを知る上で欠かせない歴史的な史実をご紹介していきました。
伝統の国らしく、重厚な歴史によって象られているこの国は様々な特色の文化を育んできました。
世界を代表するような芸術や食文化などは、こういった歴史を持った国でなければ生まれ得なかっただろうと思われます。
この記事が、あなたのフランスの理解のお役に立てれば幸いです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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