「ノートルダムの鐘」の舞台はここ!パリで850年「ノートルダム大聖堂」が見てきた歴史と物語

フランスの花の都・パリの真ん中を優雅に流れるセーヌ川。その流れの中に大きな中州、シテ島とサン=ルイ島があります。
今回ご案内するノートルダム大聖堂はそのシテ島にはるか昔からたたずむ教会です。その源流はさかのぼれば大変古く、古代ローマの時代の前から見ることができます。

ノートルダム大聖堂は「ノートルダムの鐘(邦題)」として、現在ではミュージカルやディズニー映画の題材としてもつかわれているため中にはご存知の方も多いのではないでしょうか。

そんなノートルダム大聖堂は常にパリの街とともにあり、発展と衰退をともに過ごしてきました。大聖堂が見てきたパリの歴史とともに時間旅行をしながらその大聖堂建築の特徴や見どころ、そして世界遺産になるまでをご一緒に見ていきたいと思います。

フランスのパリになる前のパリ

フランスのパリになる前のパリ

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パリシィ人の漁村

まずはぐぐっと紀元前300年ごろの古代ガリア時代へ時間を戻してみましょう。

当時のフランスはまだ王国などもなく、ガリア部族が狩猟をしながら生活をしていた時代です。
部族長を中心にそれぞれの縄張りをもちながら移動をしたり定着したりしていました。

このころはノートルダム大聖堂があるシテ島に漁村があったと言われています。
その漁村には古代ケルト系民族でガリア部族のひとつ、パリシィ人が定着し営んでいました。
シテ島で漁業を営み、セーヌ川を利用して他の地域との商業的な交流もされていたようです。

そして、当時のパリシィ人はケルト系の自然信仰と思われるほこらのようなものをこのシテ島に作っています。
おそらく漁業の発展を祈ったのではないでしょうか。

よく、「パリの誕生はシテ島からはじまった」と言われますが、それはこのような事実からきているのでしょう。

近年の発掘調査で当時の経済や村の中心地は現在のパリ西側近郊であったことがわかり、古代には中心地ではなかったと言われています。
しかし、この地域に漁村と宗教的な遺構があったことは事実で、そこを基盤に現代のパリにつながっていったのです。

古代ローマとガリア戦争

交易やセーヌ川を利用して反映していたパリシィ人たちにひとつの転機が訪れます。

アルプスの向こう側で勢力を伸ばしてきている都市国家だった共和政ローマ。
その中でもメキメキと政治家として頭角を現していたローマ最大の英雄と言われるユリウス・カエサルが紀元前58年ごろからガリア(現フランスの地域)に遠征してきたのです。
遠征の目的はいろいろとありますが、表向きはローマの同盟地域へのガリア人の侵略を防ぐことでした。

そして紀元前52年、ガリア戦争の最大にして最後の戦い「アレシアの戦い」が起こります。

同じガリア人でアルウェルニ族のウェルキンゲトリクスがこれまで統制のとれていないガリアの各部族を統制してローマに立ち向かいました。
焦土作戦とゲリラ戦を展開しローマ軍を苦しめることになりますが、結果としてガリア人たちはローマに敗北。
大将であるウェルキンゲトリクスが降伏し、これにてガリアはローマの属州となります。

シテ島は河川の運行や交易上の拠点として戦略的に重要な場所でしたので、当然、ローマ人たちによって支配されるようになっていきます。

パリの誕生―ルテティアと呼ばれた時代

パリの誕生―ルテティアと呼ばれた時代

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ルテティアからパリ

戦いを終えた共和政ローマはシテ島から現在のセーヌ川左岸のカルチェラタンの南地域に公共広場・劇場や公共浴場など、ローマ式の街を作っていきました。
今でもその遺跡が残っており、円形闘技場の跡が現在のパリ第6大学の近くにあり「アレーヌ・ド・リュテス」と呼ばれています。

そして彼らはこの街を『ルテティア』と名付けました。
ユリウス・カエサルのガリア戦記にもその名前が記載されています。
そして別名『ルテティア・パリシオルム』とも呼ばれていて、それは『パリシィ人の沼地』という意味でした。

ローマ人の元で城壁に囲まれたルテティアは次第に交易を通して繁栄していきます。
紀元前52年当初はカルチェラタン南側が街の中心地でしたが、275年にゲルマン民族のアラマンニ人がルテティアを襲います。
シテ島が要塞として整備されたことでセーヌ川左岸の地域の人が移り住み、人口がシテ島に集中し、街の中心地はシテ島へ移ることになりました。
要塞に人口が集中するほど古代ローマ後期は治安が安定していなかったことが伺えます。

そのころにルテティアは先住民パリシィ人の名前をもとに『パリ』と名前を変更しました。
ついに街としてのパリが誕生したのです。







ルテティアの信仰事情

やっとパリが誕生しましたが、ここで視点を変えてルテティアだった時代の信仰についてみていきましょう。

ローマ人たちが築いた建物の中には神殿もありました。
その神殿の元はパリシィ人がシテ島にほこらを建てた場所で、ローマ神話の全能の神ユピテルと美の女神ウェヌスの神殿がありました。
だからといってローマの神々を信仰するように無理な強制はしませんでした。

古代ローマは共和政の時代から帝政になってからも基本的に属州にした地域の信仰を廃止せず、支配した地域の文化を容認して残すことで民衆のムダな反発を買わず支配したのです。

しかし、中にはローマが国を治めるのに危険と判断した信仰に対しては禁止をし、弾圧していきました。

ちょうど共和政から帝政になった頃、パレスチナでユダヤ教の新派が生まれ、1人の若者の教えを説く集団が現れます。
そう、みな様ご存知のキリスト教です。

キリスト教の「人はみな唯一の神の前で平等である」とする教えは、ローマにとって社会基盤である奴隷制度を脅かすものとして禁止されました。
何度も元老院(ローマの政治機関)から禁止の発布を受け、紀元27年の皇帝ネロの時代には大きな弾圧もありました。

しかし、その信仰の波は徐々に広がりパリにもその波が押し寄せてきていたのです。

キリスト教が中心の中世時代

キリスト教が中心の中世時代

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迫害から国教へ

3世紀ごろに、イタリアからディオニュシウスという伝道者がパリの地に足を踏み入れます。

彼はローマ教皇ファビアヌスより伝道の指示のもと、はるか遠くよりアルプスを越えてやったきたのです。
ちょうどパリではデキウス帝の迫害によってキリスト教徒の小さな集団が解散した後のことでした。

彼はパリ最初の司祭として、同行した助祭とともにシテ島に滞在し布教活動を行いました。

ディオニュシウスは多くの信者を増やしたため、ほかの宗教の僧侶から怒りをかい、パリ郊外の高い丘にて斬首刑にされました。
このことからその丘は「殉教者の山」と名付けられ、その古語が変化して現在ではモンマルトルと呼ばれています。

伝説では、ディオニュシウスは斬首された首を拾い上げて、説教をしながら街の北4キロを歩いたと言われています。
そして彼が倒れた場所に小さな礼拝堂が建ち、歴代フランス王が埋葬されるサン・ドニ大聖堂の基盤となります。
「ドニ」は「ディオニュシウス」がフランス語訛りに変化した呼び方です。

このようにキリスト教の伝道士は各地で迫害を受けながらも地道に信者を増やしていきました。
そして、ついにその勢力をローマ皇帝が認めることとなり、312年コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教にしました。

そのころに、ノートルダム大聖堂の前進の寺院となる小さなキリスト教の寺院がシテ島に建てられました。

キリスト教徒の王たち

ここで時代を一気に12世紀の中世へと移してみましょう。

ローマ帝国崩壊後、キリスト教の国としてフランス王国が比較的安定してきたのは12世紀ごろ。
このころのパリは現代のパリの街に近い特徴がみられるようになりました。
シテ島は政治と宗教生活の中心で、セーヌ左岸(南側)は教会学校や大学があり、セーヌ右岸(北側)は商業と経済の中心でした。

ノートルダム大聖堂も1163年に現在の形になる聖堂建築へ着工されています。

1180年に王となったフィリップ2世の時代にルーヴル宮の建設がはじまり、中央市場がレ・アールにでき、道路も整備され、パリ大学の設立にも着手されました。

この時代はローマ教会の力も強く、信仰中心の生活をしていた時代でした。
ローマ教会からの呼びかけで、聖都エルサレムをイスラム教から解放する十字軍が提唱され、各国の王侯貴族たちにその負担を強いていました。

現実主義者フィリップ2世もキリスト教国の王として第3回十字軍に参加したほど、キリスト教の信仰に対するパフォーマンスが政治的に有効な時代だったのです。

また、王の中には彼の孫ルイ9世のように大変信心深く生涯に十字軍を2回起こし、東より聖遺物を高額に買取り、その一部を納めるための教会サント・シャペルを王宮の横に建てるほどの信仰に篤い者もいました。

ルイ9世は内政に力を入れ、比較的平和を維持したことによりフランス王国は繁栄しました。
彼の人柄は穏和で、各国の争いごとの調整役などを行なった事と十字軍の実績から、彼はフランス王家で唯一聖人として認められ「聖ルイ王」と呼ばれるようになります。
聖ルイ王の統治時代の1250年にノートルダム大聖堂の正面のバラ窓や双塔が完成しました。

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