「ノートルダムの鐘」の舞台はここ!パリで850年「ノートルダム大聖堂」が見てきた歴史と物語

サン・バルテルミの虐殺

カトリックとユグノーの統合を図るため、当時の王の母であったカトリーヌ・ド・メディティスがアンリと王妹であるマルグリットの結婚を提案します。

この結婚式でカトリック派貴族と王族ががユグノー派貴族たちを一斉に虐殺した事例が起こりました。
「サン・バルテルミの虐殺」です。

ちょうど結婚式が終わった5日後にサン・バルテルミの祝日に、ルーヴル宮の隣、ちょうどシテ島のポン・ヌフ橋を右岸に渡ったところにある、サン・ジェルマン・ローセロワ教会の朝の祈り鐘(深夜から明け方)の音に合わせてその虐殺は実行されたと言われています。

いろいろな対立などがありましたがアンリは最終的にはカトリックに改宗し、フランス国王・アンリ4世となり王宮をパリに戻しました。
このアンリ4世がのちにナントの勅令を出したことによりフランスの宗教戦争は一旦の幕を引くことになります。

そして、これがフランス最後の王朝ブルボン王朝の始まりでした。

パリを首都としたアンリ4世ですが、即位当初はまだユグノーだったためカトリック教徒の多いパリ市民からなかなか受け入れてもらえず、パリに入城することができませんでした。
その後、長い間の戦争で荒廃していた街を整え、セーヌ川にポン・ヌフ橋をかけたり内政に力を入れていきます。

アンリ4世の政治は安定しており、経済面でもフランスを豊かにしたため、当初はパリ市民に受け入れてはもらえませんでしたが、晩年は良い王として評価が上がっています。

王すらも拒絶するパリ市民の自らの意思の主張と権力へ抵抗する市民性が感じられるエピソードですが、この気質が次の大きな歴史のうねりへとつながっていったのではないかと思えます。

フラン革命前夜:その背景

フラン革命前夜:その背景

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国民の怒りという名の風船

フランス革命と聞くと、ルイ16世が政治を見誤り、マリー・アントワネットが贅沢をしたことから起こったと思われがちです。

もちろん彼らの現実を認識する力不足や国民に対応する姿勢などがきっかけで革命が起こることにはなりました。
しかし、それよりももっと前にその国民の怒りの風船は生まれ、長い年月をかけて大きくなっていくのです。

特にルイ14世の時代は戦争に明け暮れ、海外の植民地の開拓など外に向かっていく戦費がかさみ、さらにヴェルサイユに壮麗な王宮を作ることにも執着したため、国の赤字は年々積み重なっていきました。

ルイ15世の時代も同様に戦争にお金がかかり、赤字は解消するどころかさらに増していきます。
その負担はすべて国民に税金として降りかかっていました。

ルイ16世の時代になると国民の税金を上げるだけでは解消できなくなり、税制を変えて特権階級だった聖職者や貴族からも税を取る案を何度も立ち上げては、反対にあい取り下げるということをしています。

これによってこれ以上ないほどの重税を国民に強いるだけでなく、貴族たちからも反感を買うことになります。

ついにはじける怒りの風船

どんどんと膨らむ怒りの風船はさらにほかの要素でも膨らみを増していきます。

人はみな平等であるという啓蒙思想が貴族たちの間で支持されるようになりルイ14世のころのような絶対君主制が崩れつつありました。

そしてイギリスの市民革命やアメリカの独立といった王がいない社会が現実にあり、それによる刺激も加わります。

さらに、1783年のアイスランドのラキ火山の爆発が追い打ちをかけます。

一見フランスには関係のない出来事のようですが、この火山の爆発によって噴き上る火山灰はヨーロッパの空を白く覆いました。

それによる日照時間の減少、気温の低下によって農作物は不作となり飢饉がおこります。
小麦の値段は前年の4倍に跳ね上がり、さらなる貧困を生むことになったのです。

パリの市民たちは王や特権階級への怒りをデモや暴動でたびたび主張するようになります。

そのたびに警備隊や衛兵に取り締まられては解散し、また演説などで怒りの声を上げる集会を行い、暴動を起こすといったことが繰り返されていました。

そんな不穏な空気が流れるパリでついに怒りの風船がはじけます。

1789年7月14日にバスティーユ牢獄が市民によって襲われます。
これがフランス革命の始まりと言われています。







フランス革命とノートルダム大聖堂

フランス革命とノートルダム大聖堂

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王家のパリ帰還

バスティーユが襲撃された後、国民議会は封建特権の廃止を宣言し、フランス人権宣言を採択します。

人権宣言はフランス革命の基本原則と言われる「人間の自由と平等」「言論の自由」「人民主権」「三権分立」などです。
この時点では、国民は王家を廃止にすることを主張しているわけではありませんでした。

自分たちの自由の確保と王や特権階級だけに富や権利が配分される社会体制を崩したいだけでしたので、主権者はまだ国王にあり、法律の制定や海底には国王の承認が必要でした。

しかし、ルイ16世は国民が提案する法令を認めず、この人権宣言を認めませんでした。

そんな政治的な混乱と前年からの不作でパリの物価はさらに高騰。

同年10月にパリの女性たち数千人が武器を持って終結し、ヴェルサイユ宮殿へ押し入り、国王と議会に食料を要求します。
一部暴徒と化して宮殿での破壊行為が行われ、ルイ16世はこれに身の危険を感じ人権宣言を承認します。

この女性たちに連れられて王家はヴェルサイユを出てパリへ連れてこられることになりました。
そして、もう二度とヴェルサイユへ戻ることはできませんでした。

逃亡、処刑、そして破壊

ヴェルサイユを離れた王家はパリのテュイルリー宮殿に移り住むことになり、いつもパリ市民たちの目があり監視される日々を過ごします。

革命派の勢いがどんどん大きくなるにつれ、有力な貴族や聖職者たちはパリを出て国外逃亡をする人が多くなっていました。

そして王家も1791年に国外逃亡を図ります。
ヴァレンヌ事件です。

フェルゼン伯をはじめとする王党派の手助けにより、オーストリア国境に向かいます。

この逃亡はとてものんびりとしたもので、途中で何度も休憩したりピクニックのように郊外を楽しみながら進んでいたようです。
あと少しで国境というところで見つかり、パリへ連れ戻されました。

この王家が国を捨てて逃亡したことは国民にとって大きくショックでした。

のちにルイ16世は国外逃亡するつもりはなかったと証言しますが、王家の処刑は決行されてしまうのです。

王に裏切られたパリ市民の怒りは大変大きく、ルイ16世が処刑されるとその余波がノートルダム大聖堂を襲います。

古くから王家とのつながりのあるということと、特権階級の聖職者がいる大聖堂は市民にとってもはや自分たちの神の家ではなく、搾取した税で彩られた憎むべき象徴へと変わっていたのです。

正面入口の彫刻やステンドグラス、堂内の装飾などがパリ市民たちの手によって次々に破壊されていきます。

特に正面入口に並ぶ聖人やユダヤの王たちはフランス歴代の王家の像と勘違いされ、徹底的に壊されました。
また、司祭もギロチンの下に連れていかれました。

こうして12世紀からパリ市民を見つめてきたノートルダム大聖堂はその美しい姿を失い、1795年には廃墟と化し、閉鎖されることとなったのです。

ノートルダム大聖堂の復興

ノートルダム大聖堂の復興

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