「ノートルダムの鐘」の舞台はここ!パリで850年「ノートルダム大聖堂」が見てきた歴史と物語

救世主ナポレオンと復興運動

破壊され廃墟となったノートルダム大聖堂を復興するきっかけが訪れます。

革命の混乱に乗じて軍人として出世し、ついには国会の議決と国民投票を経て、世襲となる皇帝となったナポレオン・ボナパルトの戴冠式です。

歴代王の戴冠式はランス大聖堂で行われる慣習でしたが、これまでと違うということを示すため、廃墟となっていたノートルダム大聖堂で行うことにしました。

1804年12月2日ナポレオンの戴冠式が行われました。

国王の戴冠式ではローマ法王が王冠を授けますが、ナポレオンは法王の目の前で自ら王冠をかぶりました。
神にではなく国民から選ばれた「フランス人民の皇帝」であり、教会を政治の支配下に置くという意志の表れです。

ルーヴル美術館にはナポレオンのお抱え画家だったダヴィットの描いた「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」がありますが、実際にはジョゼフィーヌは戴冠しておらず、ナポレオンが自ら戴冠したことを寓意した構図と言われています。

次いで1831年に発行されたヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」が出版されます。
これによって国民全体に大聖堂復興運動が広がり、1843年に政府が大聖堂の修復を決定します。
撤去されていた聖堂の十字の交差部にあった尖塔を復活させ、1330年ごろの様式や大聖堂の姿を想定して完全なる復元がされました。
1845年から着手され、1864年に復興が完了し、現在の姿となったのです。

パリの大改造

まだノートルダム大聖堂の修復中の1851年、第二帝政を迎え、ナポレオンの甥がナポレオン3世になり、パリの近代化をセーヌ県知事のジョルジュ・オスマンに依頼します。

パリの街は狭い道と袋小路が多く、ワインの大樽(バリック)を積み上げることで簡単に立てこもりやゲリラ戦を起こすことができたため、治安が不安定になる原因になっていました。

また、当時のパリは家の中で出た排尿などの汚物はもちろんすべてのごみを窓から投げ捨てる習慣がありました。
狭い道にそれらが散乱し常に異臭が漂い、衛生面において大変劣悪で伝染病やコレラなどが蔓延していたのです。

そんなパリを光と風の通る街へ作り変える近代都市計画がはじまりました。

エトワール凱旋門から放射線状に延びる12の大通りを作り、中世の時代からある複雑で狭い路地を整理していきます。
計画地にある建物を取り壊して道幅を広げたりするスクラップアンドビルドという手法でパリの街を生まれ変わらせました。

そして区画整理を行い、シテ島を中心にカタツムリ状に地域を区分けして区の番号を振っていきます。

シテ島を含む区画はパリ1区になります。
当時、ノートルダム大聖堂をの前の広場は貧民層が集まるスラム街でしたが、一掃されきれいな広場へと作りかえられました。

広場にはパリからの距離を測る起点となるポイント・ゼロの標識が埋め込まれました。

都市計画の中には景観も含まれていました。
ノートルダム大聖堂の塔へ登ると街が360度一望できるのは、このときの都市計画で景観を保つためこの双塔の高さを基準にしたためです。

今ではフランス革命100周年を記念するパリの万博博覧会で建てられたエッフェル塔が双塔よりも高いですが、それも景観を邪魔しないよう計算されて建てられたと言われています。

パリの歴史がシテ島から始まったことを忘れていないオスマンの街づくりの心が伝わります。
この近代都市計画は世界で注目され都市計画の手本とされるようになりました。

現在のノートルダム大聖堂

現在のノートルダム大聖堂

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一筋縄ではいかない世界遺産登録

ここまで、ノートルダム大聖堂とパリの歴史について長い時間旅行をご案内してきました。

とてもたくさんの歴史が詰まった都市であると感じられたことと思います。

ところで、パリには世界遺産がいくつあるかご存知ですか?5つ?8つ?正解は、1つ。
世界遺産登録されているのは1つだけなのです。

有名なルーヴル美術館も凱旋門、そしてノートルダム大聖堂も世界遺産ではありますが、それら歴史のある建物と街並みすべてをひっくるめて「パリのセーヌ河岸」として、1991年に世界遺産へ登録されました。

具体的にはサン・ルイ島にかかるシェリー橋からエッフェル塔前のイエナ橋の間にあるセーヌ川両岸沿いにある歴史的建造物と街並みになります。

中世の建築群から近・現代の建物、都市計画で作られた街並みなどがまとめられて世界遺産の登録基準を満たしたとして、世界遺産となったのです。

中にはなぜこれは含まれないの?と思う建物や街並みもあります。

世界遺産が制定されて登録までに19年後に登録されているのも歴史のあるパリにしては遅い登録だなとも感じられます。

世界遺産になるとその修繕や周辺の規制などが生まれてきます。
パリは今でも都市の開発がされているため、世界遺産というタイトルは必要だけれどもそれによる規制があると困ると考えたのかもしれません。
検討に検討を重ねての登録だったと感じられます。







パリの中心で平和を祈る

パリの歴史を見てきたノートルダム大聖堂ですが、現在ではパリ観光の定番として世界からたくさんの観光客が訪れています。

大聖堂の彫刻群とステンドグラスの見学はもちろん、塔に登ってシメールやパリの街並みを見ることもできるので観光としては楽しい場所ではあります。

しかし、単なる観光地ではなく、現在もパリ教区の中心としての役割を担っています。

今でも巡礼の出発地であり、その巡礼者たちの中には聖遺物を目的に参拝する人もいます。

聖ルイ王が持ち帰った「キリストの茨の冠」や「十字架の破片」「磔刑に使われた釘」などが第一金曜日の午後3時から一般公開されています。

先にご案内したサント・シャペルに収められていた聖遺物たちは、フランス革命時に一時散乱しましたが、今はノートルダム大聖堂で保管されています。

そして2015年11月15日にパリ同時多発テロ事件の犠牲者のために追悼ミサを開き、パリ市民の信仰の中心として教会の務めを行ったのです。
大聖堂の中に入りきらないほどの参列者が集まり、入りきれなかった人たちも大聖堂前の広場でともに追悼の祈りを捧げました。

長い時間旅行を終えて

とてもとても長いパリとノートルダム大聖堂の歴史をご一緒にみてきましたが、いかがだったでしょうか?

日本人に人気の観光地であるパリはおしゃれでおいしいものがたくさんあって楽しい街ではありますが、その一方で歴史の荒波を超えてきた街でもあります。

そして、その中にいたノートルダム大聖堂も美しいだけではない悲喜こもごもな歴史を持った教会でした。

旅行に行かれた際には、ちょっとそんな歴史を思い出してみるとまた違った旅行を楽しむことができるかもしれません。

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