ローマ帝国の継承者、フランク王国。こんな風に世の中に貢献してました

フランク王国はローマ帝国が崩壊した後に、ライン川と右岸から侵入したゲルマン人の一部族のフランク人がガリアで起こした王国です。誰がこんなに凄い王国へとなっていくと想像したでしょう。今回は、中世時代に西ヨーロッパの基礎作りに一役買ったフランク王国の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

フランク王国の概要

フランク王国の概要

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フランク王国といえば中世時代の西ヨーロッパにおいて、ローマ帝国壊滅後に一時代を築いた王国です。
フランク王国が活躍したのは、5~9世紀に隆盛を誇ったゲルマン系の王国。
最盛期には、現在のフランス、イタリア北部、ドイツ西部、オランダ、ベルギー、スイス、オーストリアなどを領土とし、分裂によりフランス(西フランク~987)、ドイツ(東フランク~911)、イタリア北部(ロタール王国、イタリア王国)の3国の基礎を造りました。

ゲルマン民族を統一し民族大移動の後に、ラテンやゲルマン、ケルト等の文化も混在させ、政治的秩序とキリスト教を保護することで共通の文化的基盤を作るなど、西ヨーロッパにおける功績は大きなものでした。

フランク王国の基礎、メロヴィング朝の成立

フランク王国の基礎、メロヴィング朝の成立

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451年にカタラウヌムの戦いで西ローマ、西ゴート、フランクの連合軍が、アッティラ率いるフン族を倒しました。
481年にフランク王国のメロヴィング家のクロヴィス王がフランク人を統一。
彼は486年にソワソンの戦いでローマ将軍シアグリウス(パリ)を破り、北ガリア(フランス)に勢力を伸ばし、507年には西ゴートにも領土に加えました。
508年にはパリがメロヴィング朝首都となっています。
496年には、カトリックの信者であった妻に感化され、ランス司教レミギウスの洗礼を受けてアタナシウス派(カトリック)に改宗しています。
この改宗により、ガリア領内のローマ系市民との絆を強化することに成功しました。

彼の死後511年にフランク王国は分割相続され、アウストラシア分王国、ネウストリア分王国、ブルグント分王国、アキテーヌ分王国の4つに分かれたのです。
実は、後を継いだ王は力が弱く、各地の実力者に特権を設け家臣にすることで地位を強化していきます。

メロヴィング朝の衰退とトゥール・ポワティエ間の戦い

メロヴィング朝の衰退とトゥール・ポワティエ間の戦い

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732年に最大の危機が訪れます。
イスラム軍(ウマイヤ朝)が西方への侵略を始めたのです。
711年にイベリア半島から侵略し、713年には西ゴート王国を滅亡させました。
イスラム勢力の侵入はキリスト教世界において最大の脅威となったのです。
720年にウマイヤ朝はとうとうピレネー山脈を越えてガリアを襲いました。
この時メロヴィング朝の力は弱くなっており、ガリアに対する手助けができませんでした。

そこで立ち上がったのが、カロリング家のカールです。
彼はフランクの騎士たちを動員し、732年に中部フランスのトゥールとポワティエの間で、7日間に亘り大激戦を繰り広げました。
それだけカロリング家の力は強かったのです。
撃退に成功することで、穏やかな日々を取り戻しました。

発展を始めるフランク王国

発展を始めるフランク王国

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フランク王国の華やかな時代を作ったといえる、カロリング朝が751年に成立しました。
アウストラシア分王国のカロリング家は、4分割された王国の中でも強大な力を持っていました。
事実上の支配者メロヴィング家の血統が王位を継ぐものと思っていましたが、カロリング家はローマ教皇との関係を強め、ローマ教皇の支持下でピピン3世が国王即位を確実なものに。
751年にメロヴィング国王を廃し、カロリング王朝を築きました。
756年にはピピンが ランゴバルド王国を征服し、獲得したラヴェンナ地方を教皇領として寄進し更に絆を深めました。

「ヨーロッパの父」カール大帝の誕生

「ヨーロッパの父」カール大帝の誕生

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後継者となったのは、ピピンの息子のカール大帝。
皆さんご存知!「ヨーロッパの父」と称される、フランク王国の全盛期を築いた人物です。
彼は単独国王として長い間君臨しました。
領土拡大と支配、ローマ帝国皇帝の戴冠、ラテン文芸の保護など目覚ましい功績を残しています。
アヴァールの遠征によりイスラム教を撃退し、西ヨーロッパ主要都市を手中に収めた功績は大きいでしょう。

800年のクリスマスの夜に、聖ピエトロ大聖堂で、教皇レオ3世によって西ローマ皇帝の戴冠を受けました。
これは完全な独立王国となったことを意味する世紀の大事件だったんですよ。
帝国が成立し、ローマ文化とカトリックが組み合わさった西ヨーロッパが誕生しています。
イギリスの神学者として有名なアルクインを招き、カロリング=ルネサンスが発展したのもカール大帝の功績です。

フランク王国の分裂

フランク王国の分裂

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カール大帝が814年に亡くなると、敬虔王ルイ1世が継承します。
840年にルイ1世が亡くなり3人の息子に分割相続されました。
これが843年のヴェルダン条約です。
中央部のロレーヌ地方から北イタリア半島という南北に長い領地を長男のロタール皇帝が継ぎ、西フランクをシャルル2世が継承。
ドイツのもととなる東フランクはルートヴィヒの領地とされました。

フランク王国が分裂したことにより、これはしめたと北からノルマン人(ヴァイキング)の侵略が激しくなってしまいました。
しかし、ロタール1世は、弟たちと争いが絶えない状態にあり、ノルマン人の居住を認めざるを得ませんでした。
そのノルマン人たちを傭兵として利用したのです。
これがノルマン人の大陸移住が盛んになった原因とか。
封建制度のもとにあったフランク王国は、3兄弟の争いが続き統一性が弱かったことも大陸移住の起因になったのではないでしょうか?なかなか止まらない3兄弟の争いでしたが、ロタール1世が死んだことにより、870年にメルセン条約が結ばれました。
中部フランクの分割が見直されることになり再分割され、上部を西と東で分けました。
これが、現在のドイツ、イタリア、フランスの原型となったのです。

フランク王国最後の統一

フランク王国最後の統一

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始まりがあれば終わりがあるもので、ヨーロッパの基礎を築いたフランク王国にも陰りが見え始めました。
東フランクではルートヴィヒ2世が死亡したことで、カール3世は、879年に兄のカールマンからイタリア王位の譲位を受けました。
881年2月21日にはローマで皇帝カール2世の後を継ぐ形で教皇ヨハネス8世より、西ローマ皇帝として戴冠を受けました。

882年にルートヴィヒ3世が死亡し、彼の領地を相続し西フランク全土を領地としました。
884年に西フランク王カルロマンが死去し、西フランク王となりました。
カール3世はフランク王国の統一を果たしたのです。
凄い!ただここまでは良かったのですが、カール3世は残念な王だったのです。

ピーターラビット

Writer:

世界遺産ブームをきっかけに歴史に目覚めてから、国や城、庭園などの成り立ちに魅了された主婦です。何だろう?と思ったことを調べて、皆さんにお伝えすることで気持ちを共有できたら幸せだな~と感じながら仕事をしています。ちょっとマニアックな歴史記事ですが、軽い気持ちで触れてみてくださいね!

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