ヴェルサイユ宮殿を造った「太陽王」ルイ14世と絶対王政の歴史

「太陽王」と呼ばれるフランス王ルイ14世。1643年に即位してから1715年に死ぬまで、なんと72年間もフランス王だったのですよ。あの有名なヴェルサイユ宮殿を建設したのもルイ14世。ルイ14世の時代を絶対王政というのですが、さて、絶対王政とは何なのでしょうか。「朕は国家なり」という有名な言葉を残したのもルイ14世でしたね。この言葉の本当の意味を知っていますか?華やかな宮廷の裏で、魔女裁判や毒殺事件が起こったのもこの時代。ルイ14世の人生の夜明けから日没までをたどってみることにしましょう。
  • style="display:inline-block;width:336px;height:280px" data-ad-client="ca-pub-1386733479651016" data-ad-slot="6199981080">

絶対王政の基礎をつくったのは宰相リシュリュー

絶対王政の基礎をつくったのは宰相リシュリュー

image by iStockphoto

ヴァロア王朝からブルボン王朝へ

1589年にアンリ3世が没して、フランスのヴァロア王朝は断絶。
そのあとに、プロテスタントだったブルボン家のアンリ4世が、王位相続に関する法律に従って王位を継承。
ブルボン王朝が始まったのでしたが、1598年にアンリ4世はナントの王令で、プロテスタントの権利を大幅に認めたのでした。
しかしそのために、1610年に狂信的なカトリック教徒によって刺殺され、息子のルイ13世が王位を継承したものの、まだ子どもだったために、母親であるマリー・ド・メディシスが摂政となりました。
この母親は、その名前からわかるように、フィレンツェのメディチ家の出身ですね。

ルイ13世が成年に達した1614年に三部会が召集され、リシュリューは聖職者代表として演説。
フランス王国の政治に、王の母親と聖職者が深く関わっていることがわかりますね。
絶対王政というと、王権神授説からも推測できるように、国王の絶対的権力のもとに王国が統治されること、と考えることができますね。
神聖ローマ帝国は領邦君主たちの力が強くて、皇帝の権力が弱かったことと対比すると、フランス王国の絶対王政の特徴がよくわかりますね。
七人の選帝侯の選挙によって選ばれる神聖ローマ皇帝と違いますが、そのかわりフランス王は、摂政や官僚の役割が大きかったのですよ。

アンヌ・ドートリッシュとの間にやっと男の子が生まれました

ルイ13世の母親であるマリー・ド・メディシスは、しかるべき後継者を生むために、スペイン王フェリペ3世の娘であるアンヌ・ドートリッシュを、息子の妻に選びました。
「ドートリッシュ」というのはフランス語で「オーストリアの」という意味になるのですが、彼女はスペイン・ハプスブルク家の娘で、ハプスブルク家といえばオーストリアというイメージだったのでしょうね。
ブルボン家とハプスブルク家とは宿敵だったのですが、ヨーロッパの安定のためには、この両家が手を結ぶ必要がありましたね。

1615年にこの結婚が行われ、翌年にリシュリューは国務大臣になっています。
しかし、ルイ13世が成長したことにより、摂政である母親とのあいだに確執が生まれ、「母子戦争」と呼ばれる争いが宮廷内で起こったのですよ。
この戦いによって一度は宮廷を去ったリシュリューでしたが、結局、有能な官僚あっての絶対王政ということでしょうね。
1624年にはリシュリューが政治の実権を握ったのでした。
ところが、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの夫婦関係は冷え切っていて、なかなか子どもが生まれません。
1635年にスペインに宣戦布告してフランスが三十年戦争に加わったため、この夫婦関係はますます悪化。
しかし、1638年にようやく男の子が生まれたのですね。
父親はルイ13世でないのではないかと疑われる一方、この男の子こそ「神の子」と呼ばれ、将来「太陽王」となるルイ14世だったのでした。

「神の子」ルイは5歳でフランス王ルイ14世になりました

「神の子」ルイは5歳でフランス王ルイ14世になりました

image by iStockphoto

5歳のフランス王ルイ14世を母マリーとマザランが補佐しました

三十年戦争の頃の戦争は、傭兵が戦地に派遣されていました。
そのため戦地では、戦いそのものよりもむしろこの傭兵たちの略奪行為によって被害を受けたのですよ。
ドイツに比べるとフランスはそれほど大きな被害を受けたわけではありませんが、それでも、各地で民衆が蜂起。
リシュリューも苦境に立たされるとともに、宮廷内の反リシュリュー勢力とも戦わなくてはならなかったのですね。
反リシュリュー勢力のトップであったサン・マール候を処刑したものの、1642年にリシュリューは病死。
そのショックからか、まだ40代初めのルイ13世も死んでしまい、まだ5歳だったルイ14世がフランス国王に即位したのですよ。

将来「太陽王」と呼ばれるルイ14世ですが、父親と同じように、国王としての成年に達していなかったため、母親のマリーが摂政に。
マリーとの夫婦関係は悪かったルイ13世ですが、弟のガストンが宮廷内で実力をもつことを嫌って、妻のマリーを息子の摂政にするという遺言を残していたのですよ。
もしかして自分の子どもではないとしても、ルイ14世は少なくともマリーの子どもだから、悪いようにはしないということでしょうね。
マリーはリシュリューを嫌っていたのですが、宮廷の宰相には、そのリシュリューが自分の後継者に指名していたマザランを登用。
摂政と宰相のコンビが、まだ幼い国王を支えたのですね。
それが絶対王政のあり方かもしれませんね。

マザランはローマ生まれのイタリア人枢機卿

キリスト教では人が死ぬ直前に、神父がその死の床に来て、その罪の告白を聞くことになっています。
死者は告白された罪が許されて神のもとに召されるわけですが、「あなたの敵を許しますか」と尋ねられたリシュリューは、「私には、国家の敵だけが敵でした」と答えたというエピソードが伝えられています。
これこそまさに、絶対王政がどういうものだったかをよく示していますね。
そのリシュリューが自分の後継者に選んだマザランは、ローマ生まれのイタリア人で、リシュリューと同じローマ・カトリックの枢機卿。

マザランは内政も外交も、前任者であるリシュリューの路線を継承。
ただし、フランス王国は戦費を浪費していたため、財政難の状態にあったのですよ。
財政難ということは、国民からいろいろな名目で税金を徴収しなくてはなりませんね。
絶対王政の時代には法律も整備されていて、宮廷が勝手に新しい税金をつくることはできません。
高等法院というものがあり、これを通さなくてはならないのですが、それでは間に合わないし、高等法院によって否決されることもありますね。
それでも王室としては増税するしかないとしたら、どうなのでしょうか。
しかも、国王はまだ幼い子どもですからね。

フロンドの乱でルイ14世はいろいろなことを学びました

フロンドの乱でルイ14世はいろいろなことを学びました

image by iStockphoto

こうしてフロンドの乱は始まりました

三十年戦争に介入したことによって戦費が増大し、国家の財政は危機になりましたね。
1648年1月に、政府は法律の抜け道を使ってあらたな増税策に出たのですよ。
そのため、ルイ14世と摂政のアンヌ、それに宰相のマザランがそろって高等法院に出向いたのです。
このときルイ14世はまだ10歳。
この当時、国王の成年は13歳だったので、まだ成年に達していない国王だったわけですね。
高等法院での議論を経て、なんとか新しい税制が通過したかに見えたのですが、翌日になって高等法院に取り消されたのでした。

それに対して、政府は官吏たちの俸給の支払を停止すると発表。
すると今度は、高等法院などが、地方長官制などの廃止をはじめとする内政改革を要求。
政府もこれに対しては譲歩せざるをえず、地方長官制を廃止したのですね。
貴族はもともとは地方に領地をもつ地主なので、絶対王政下においてその貴族たちは、中央政府から派遣された地方長官によって監督されていたのでした。
しかし8月には三十年戦争スペイン軍と戦っていたフランス軍は、ランスの戦いで勝利。
その戦勝を祝うため、パリに近衛部隊が配備されたのをきっかけに、パリの民衆が蜂起したのですね。
この一連の事件をフロンドの乱と呼んでいるのですよ。

ルイ14世の寝室にまで民衆は押し寄せました

ここで「乱」と呼んでいるのは、結局は制圧されてしまったからですね。
絶対王政に反対するという点では、貴族も民衆も高等法院などの官吏も一致していたのですが、それ以外の点ではバラバラだったとしか言えませんね。
しかも、パリに始まったこのフロンドの乱は、たちまち地方にも波及。
統一して王政に反旗を翻したわけではありませんが、逆に政府からすると、高等法院の反乱を鎮圧したら、次は貴族の反乱ということになりますね。
1650年にはとうとう、マザランと摂政アンヌはコンデ親王やロングヴィル公などを逮捕して、ヴァンセンヌに監禁。
しかしこのために、王国は内戦状態になったのですよ。

1651年には、逆にパリ高等法院はマザランとその家族をパリから追放。
ルイ14世と摂政アンヌはバレ・ロワイヤルにいたのですが、民衆はもしかしたら国王とその母親もバリから逃走したのではないかと、バレ・ロワイヤルに侵入。
なんと国王の寝室にまで入ったということですね。
ところで、「バレ」とは「宮殿」、「ロワイヤル」とは「王の」という形容詞で、「王の宮殿」ということですね。
まだあのヴェルサイユ宮殿がなかった時代のことでしたが、1652年10月にようやくこの乱も収束。
1649年のピューリタン革命でイギリス国王チャールズ1世が処刑されたことを思うと、パリはまだ平和だったということですね。

このときルイ14世は「朕は国家なり」と言いました

このときルイ14世は「朕は国家なり」と言いました

image by iStockphoto

成聖式を行いルイ14世は自立の道を歩みます

少年時代にこのような官吏や貴族や民衆の反乱を経験したことは、ルイ14世にとってはおおいに意味のあることでした。
絶対王政の君主として、他人をどのように評価し、またどのように用いればいいのかということを、文字通り身をもって体験したからですね。
1654年にルイ14世はようやく成聖式を行うことができました。
成聖式とは、亡くなった先代王の葬儀のあと、神から与えられた聖なる王権を次の王に渡すことです。
これによってルイ14世は正式に神から王位を与えられたことになるのですね。
7人の選帝侯の選挙によって選ばれる神聖ローマ帝国とはそこが違います。

ただし、摂政の母親と宰相のマザランの存在は無視することができませんね。
ルイ13世はこのときのルイ14世と同じ15歳でしたが、そのときには「母子戦争」とが起こりましたね。
この父親とはちがってルイ14世は、摂政や宰相に反発することはあまりなかったのでしたが、それは、自分の治める王国の民衆までが反乱をすることがあるのだから、やたらに王権を振り回すよりはじっくりと時の推移を見ていた方がいいという知恵を、これまでの一連の出来事から学んだからでしょうね。
それがまた、人生の大半をフランス王として生きたルイ14世の生き方だったのですね。

「朕は国家なり」とはどういう意味なのでしょか

ルイ14世というと、「朕は国家なり」という言葉があまりにも有名ですね。
「自分が国家だ」ということは、絶対王政と関連させてみると、王権の絶対性を強く主張したものと理解できますね。
しかし、この言葉が発せられたときの事情を考慮すると、この理解がかならずしも100%正しいとはいえませんね。
1655年に、財政難からまた新しい税を導入しようと王令を出したとき、高等法院がこのときもクレームをつけたのでした。
それに対して、ルイ14世は規則を無視して高等法院に乗り込んだのですね。
高等法院長がそのルイ14世に対して、「国家の利益が大切なのではないか」と言ったとき、ルイ14世が「自分こそその国家だ」と言った、と伝えられているのですよ。

これはもしかしたら作り話かもしれませんが、ちょうどこの頃、フランス王国が拡大したことは事実です。
スペインとの戦いの一環として三十年戦争に介入しましたが、この戦争は1648年にウェストファリア条約によって終結。
フランスはアルザスを手に入れましたね。
その後もスペインとの戦争は続きましたが、この戦争は1659年のピレネー条約により、フランスの勝利で終わっています。
これでルイ14世のブルボン家は、神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家の上になったのでした。

宰相マザランが死んでルイ14世の親政が始まりました

宰相マザランが死んでルイ14世の親政が始まりました

image by iStockphoto

スペイン王女との結婚とマザランの死

このときスペイン王もハプスブルク家でしたが、ピレネー条約の翌年にルイ14世は、スペイン王フェリペ4世の長女マリー=テレーズと結婚。
フェリペ4世にはこのときまだ男の子がいなかったので、ルイ14世はスペイン王にも王手をかけたということになりますね。
実はルイ14世には、それ以前にマリー=マンチーニという女性と恋愛関係にあったのですよ。
この女性は宰相マザランの姪でしたが、身分違いのため正式の結婚は不可能。
しかし、宰相とはいろいろ意見が合わなかったのに決裂しなかったルイ14世の心には、もしかしたらこの女性の影があったかもしれませんね。

1661年3月9日の深夜、宰相マザランはパリ近郊にあるヴァンセンヌの城で死にました。
病死でしたが、これによって22歳のルイ14世は、国政をすべて自分の意のままにすることができるようになったのですね。
その翌日には、国政をつかさどる8人の大臣が任命され、ルイ14世の意向に従うことを約束させたのですよ。
もう宰相はおかず、国王が自らの判断で今後の内政や外交の舵を取っていく、いわゆる国王親政がこうして始まったまでした。

コルベールの重商主義で国力が増大しました

絶対王政といっても、国王の独裁ではありませんよ。
法律もありますし、大臣や官僚たちなしには政治は動いていきませんね。
少数とはいいながら、国務会議に参加するメンバーがいました。
ルイ14世という「国家」のために、彼らはいろいろ仕事をしなくてはなりません。
もう宰相はおかないとしても、国王を補佐する大臣も必要になってきますね。
その代表が、重商主義政策で知られるコルベールだったですね。
しかし、コルベールも含めてマザランが選んでいた3人の重要人物のうち、フケーのほうがコルベールよりも上位だったのですよ。

そこでいつの時代にもあることですが、大臣たちのあいだにいろいろな争いが起こりました。
その最大のものがフケー事件ですね。
フケーの先祖は織物商人で、その財力によって祖父が宮廷の官職を買って現在の地位を手に入れたのですよ。
逆に言えば、身分制社会でそれほどのことができたというのは、恐ろしいほどの財力だったということですね。
現在ではお菓子の名前になっているフィナンシエという、王室のお金を扱う役人たちをその財力で買収。
一方コルベールも同じようにブルジョワから成り上がった人物でしたが、フケーの失脚を画策。
1661年ついにフケーはナントで逮捕され、処刑されるところを罪一等を減じられて終身刑に。
逮捕の日が9月5日、つまりルイ14世の誕生日だったのはなにか意味がありますね。

華麗なヴェルサイユ宮殿が建設されました

華麗なヴェルサイユ宮殿が建設されました

image by iStockphoto

オランダ戦争に勝利しました

フケー事件によってますます国王親政の力を得たルイ14世は、拡大政策をさらに推し進めたのですよ。
拡大政策というのは、王国の領土を拡げることですね。
スペイン王女と結婚したルイ14世ですが、当時はスペイン領だったネーデルラントに軍を進めたのが1667年。
ネーデルラントは、現在は北部がオランダで南部がベルギーですが、当時は北部がオランダ共和国として独立していました。
南部にはフランス語を話す人たちが多く住んでいたので、これをフランスに編入するのが目的だということはよくわかりますね。
しかも、フランドルと呼ばれていたネーデルラント南部は、毛織物工業の盛んな地域。
ここを手に入れれば、苦しい財政も改善されますね。

1672年、ルイ14世はオランダ共和国に宣戦布告。
ライン川を越えて、オランダに攻め込んだのでした。
スペインに支配されていたネーデルラントのうち、北部はスペインに対する反抗心が強くて、八十年戦争を経て、1648年のウェストファリア条約で共和国としての独立を果たした国家ですから、そう簡単にはいきませんね。
オランダの諸都市を占領し、アムステルダムにまで迫ったものの、結局フランス軍は退却。
南部のフランドル地方に方向を転換し、1678年のナイメーヘンの講和条約で、フランシュ=コンテとフランドルの諸都市とをスペインから奪い取ったのでした。

ヴェルサイユ宮殿がフランス王国の宮廷になりました

ヴェルサイユ宮殿は、パリから20kmあまり離れたところにありますが、最初はルイ13世が狩りのときに使っていた館があったのですよ。
ヨーロッパの王侯貴族はとにかく狩りが好きで、暇があったら狩りに出かけていたのですね。
ルイ14世もこの狩猟館が気に入っていて、自分の代になったとき改築しはじめました。
まずはル・ノートルという造園師に命じて庭園を造らせたのですが、それは、そこで盛大なお祭りをするためでした。
まだネーデルラントでの戦争をしていた時代、1664年にラ・ヴァリエールという女性のための祭典でした。
ルイ14世は何人もの愛妾がいたことでも知られていまが、これはそのひとりですね。

その後1668年には「国王のおおいなる楽しみ」という祭典が行われ、ルイ14世自身も太陽神アポロンの衣装を着て、得意の歌やバレエを披露したのですよ。
そのときの姿がまさに「太陽王」。
そのほかに、馬術競技大会や演劇、なんと花火の打ち上げまであったということです。
これに気をよくしたルイ14世は、1677年にヴェルサイユに宮廷を移す計画を発表。
絶対王政の宮廷所在地としては絶好の立地だから、ここに世界に誇れる大宮殿を建設し、ハプスブルク家を越えたブルボン家の力を世に示すチャンス。
オランダとの決着がついた1678年から、大規模建設工事が始まりましたが、宮殿の内装についてはルイ14世が口を出したとか。
1682年、ヴェルサイユ宮殿がフランスの宮廷になったのですよ。

華やかな宮廷には深い闇もありました

華やかな宮廷には深い闇もありました

image by iStockphoto

王妃マリー=テレーズは病死してしまいました

ヴェルサイユ宮殿ができたことで、フランス王国の中央集権化はさらに加速しました。
パリに行くとバレ・ロワイヤルのようないくつか宮殿がありますし、地方にもたくさんの宮殿がありますね。
それは、中央集権化される以前の貴族社会の文化遺産とも言えるのです。
ヴェルサイユ宮殿にはなんと1万人以上の人が収容できる広さがあり、貴族や官吏や召使いらが常時3000人もここに住んで宮廷の仕事をしていたのですよ。
ウェストファリア条約によって封建領主たちがなかば独立国の国王のような存在になった神聖ローマ帝国とはちがって、フランス王国はこの広大なヴェルサイユ宮殿を中心にして、地方の貴族たちもこの中心に集まるようになったのでした。

ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に宮廷を移した翌年、1683年に王妃のマリー=テレーズが病気のために死んでしまいます。
華麗なヴェルサイユ宮殿での暮らしはほんのわずかだったということになりますが、実は、ルイ13世と同じようにルイ14世も王妃とは仲がよくなかったのですね。
それでもこの2人の間には王太子ルイが生まれてはいましたが、マリー=テレーズは同じスペイン・ハプスブルク家の出身である義母アンヌ・ドートリッシュと一緒にいることが多かったということです。
夫婦関係がよくない反面、宮廷社会のことですからルイ14世にもいろいろ女性関係があったのですよ。

モンテスパン夫人は魔女の儀式に参加したと言われています

ルイ14世の心をとらえた女性に「王宮のすみれ」と言われたラ・ヴァリエール公夫人がいますが、この名前はすでにヴェルサイユの庭園での祝典で聞きましたね。
1660年代にルイ14世とのあいだに2人のプリンスと1人のブリンセスを生んでいるのですよ。
その次の相手はモンテスパン侯夫人で、ガスコーニュの貴族モンテスパン侯との結婚に失敗してパリに逃亡。
ラ・ヴァリエールを通じてルイ14世に近づいたのですね。
そしてラ・ヴァリエールにからルイ14世を奪ってその愛人に。
この2人の女性はどちらも「当代一の美女」と呼ばれたのですが、モンテスパン夫人とルイ14世との関係は1667年から10年ほど続きました。

モンテスパン夫人は美貌をいつまでも保つために、黒ミサを行ったと言われています。
黒ミサとは魔女の儀式で、生まれたばかりの赤ん坊の血を自分の身体に塗り、若さと美しさとをいつまでも保とうという恐ろしいものですね。
1679年にラ・ヴォアザンという女性が魔女裁判にかけられ処刑されたのですが、モンテスパン夫人もその魔女の儀式に参加していたとか。
ルイ14世によって命だけは助けられましたが、宮廷からは追放。
これらの女性関係はまだ王妃が生きていた時代のことでした。

ルイ14世の孫がスペイン王になりました

ルイ14世の孫がスペイン王になりました

image by iStockphoto

王妃の死後マントノン夫人と秘密結婚しました

王妃がまだこの世に生きていた頃、ルイ14世は華麗な女性関係をもっていましたが、これも宮廷社会のひとつの側面かもしれませんね。
しかし、そのなかに黒ミサにかかわった夫人がいたことは、ショッキングなことですね。
1683年に王妃が死んだあと、ルイ14世はマントノン夫人と秘密の結婚をしたのですよ。
このマントノン夫人というのは、モンテスパン侯夫人とルイ14世とのあいだにできた子どもたちの世話をするために宮廷に入った女性。
1679年の宮廷毒殺事件でモンテスパン夫人が失脚したあと、マントノン夫人がルイ14世の寵愛を独占したのでした。

マントノン夫人とルイ14世とのあいだの関係は、これまでの宮廷の美女たちとは少し違っていたのですね。
それは、心と心とのつながりがあったことで、若いころは信仰心などほとんどもっていなかったルイ14世が、熱心なカトリック教徒であるマントノン夫人との付き合いを通じて信心深くなったのですよ。
王妃が死んだときルイ14世は45歳でしたから、しかるべき王家の王女と再婚することは可能だったし、またブルボン家の安泰のためにはその結婚によって男の子を生む必要もあったわけです。
モンテスパン夫人の生んだプリンスには王位相続権はありませんから。
しかし、ルイ14世は誰とも再婚しなかったのですよ。

ナントの王令を廃止しました

ルイ14世の信仰心が深くなったことは、ヨーロッパの国際社会においてはいいことばかりではありませんでした。
ブルボン家はそもそもプロテスタントだったので、プロテスタントには寛大でしたね。
フランス王国はローマ=カトリックの国ですが、ナントの王令によってプロテスタントもカトリック教徒と同じような権利をもって暮らすことができていたのですよ。
しかし、ルイ14世の信仰心が深くなったということは、カトリックに傾いたということです。
復活祭前の40日間を四旬節といい、キリストの受難を思って精進潔斎、つまり肉を食べないというのがカトリックの習慣。
贅沢に慣れた宮廷で、ルイ14世は肉食を禁じたのですよ。

王妃の死から1ヶ月後に、今度は財務大臣のコルベールが病死。
コルベールは遺言のような形でルイ14世に、国家の財政は悪化しているから、出費を抑制するようにと書き残したのですね。
出費とは、宮廷社会の贅沢というよりは度重なる戦争のための費用のこと。
言い換えれば、戦争はやめてほしいということです。
信仰心が深まったからといって、ルイ14世が平和主義者になったというわけではありません。
1685年にはフォンテーヌブロー王令により、あのナントの王令は廃止。
フランスのプロテスタントの国外逃亡は、20万人にのぼったとのことでした。

ルイ14世の晩年にブルボン家は危機に直面しました

ルイ14世の晩年にブルボン家は危機に直面しました

image by iStockphoto

アウクスブルク同盟戦争とスペイン継承戦争

熱心なカトリック信者であるマントノン夫人の影響でプロテスタントを弾圧することになったルイ14世。
ライン川は、ドイツにとっては「ドイツ国内の川」なのですが、フランスにとっては「ドイツとの国境の川」なのですよ。
ですからライン左岸までをフランスに併合しようとしてきたルイ14世に対して、オランダとスペインとオーストリアとスウェーデンとドイツ諸侯は、アウクスブルク同盟を結んで対抗。
またまたカトリック対プロテスタントの戦いの様相となってしまいました。
ちょうどその頃、1688年にイングランドの王ジェームズ2世はカトリック教徒だったために議会と対立、王位を追われてフランスに亡命。
これを名誉革命といいますが、フランスはアウクスブルク同盟との戦争を開始。
この戦争はなんと1697年まで続きました。

スペインもオーストリアもカトリックの国なのにこの同盟に加わっていたというのは、この戦争が単純な宗教戦争でないことを示していますが、そのスペインの王であるカルロス2世は生まれつき病弱。
そのためスペイン王位を、2代にわたってスペイン王女を王妃にしてきたブルボン家に渡すと遺言を残していたのですね。
1700年にカルロス2世が死んだとき、ルイ14世は孫のアンジュー公フィリップをスペイン王フェリペ5世にしたわけです。
そのため、1702年にはこれに反対するオーストリア・ハプスブルク家との戦争が起こってしまいました。
これをスペイン継承戦争と呼んでいますが、1713年まで続いたのですよ。

ルボン家は誰が継げばいいのか?

ルイ14世には、王位を継承できる王太子は1661年に生まれたルイしかいませんでした。
そのルイには、1682年生まれのブルゴーニュ公ルイがいて、王太子がルイ15世、孫のブルゴーニュ公がルイ16世とブルボン王家が続いていくはずだったのですが、スペイン継承戦争のさなか、1711年に王太子ルイが死に、さらに1712年には王太子ルイの息子のブルゴーニュ公ルイも死んだのですよ。
このときすでに70歳を越えていたルイ14世にとっては、痛恨の打撃。
王太子ルイには3人の息子がいたのですが、次男はスペイン王になってしまい、三男のベリー公シャルルも1714年に死んでいます。

孫のブルゴーニュ公ルイの長男であるブルターニュ公ルイが1707年に生まれていますが、1712年に死去。
次男のアンジュー公ルイが1710年に誕生。
1714年の時点では、ルイ14世の血統はまだ4歳の曾孫アンジュー公ルイしかいませんね。
ルイ13世もルイ14世もまだ子どものときに王となりましたが、今度は病弱な曾孫ひとりしかいないという大変な事態に。
ルイ14世は王国の法律を破って、モンテスパン夫人の生んだ子どもにも王位継承資格を与えることまでしてしまいました。
1715年9月1日、ルイ14世は77年の生涯を閉じたのでした。
まだ5歳の曾孫がルイ15世となり、ひとまずブルボン王家の灯火は消えずにすんだのでした。
「太陽王」の最期にしては、なんだか寂しいですね。

「太陽王」ルイ14世はながく王位にとどまりすぎた?

「太陽王」ルイ14世はながく王位にとどまりすぎた?

image by iStockphoto

5歳でフランス王になってから77歳で死ぬまで、ヨーロッパ最大の王家をリードしてきたルイ14世。
フランス王国を、パリを中心とする中央集権国家にしたのち、郊外にあの華麗なヴェルサイユ宮殿を建設。
ヴェルサイユ宮殿こそまさに絶対王政の象徴ですね。
しかし、フランス王国拡大のために戦争に明け暮れ、国家の財政は破綻。
子どもにも孫にも曾孫にも先立たれ、晩年はどんな気持ちだったのでしょうか。
光あるところに影がある、などとは陳腐な表現ですが。
photo by iStock

piaristen

Writer:

Piaristenというのは、教育を主体とする修道会のことで、あちにちにそれが運営する教会や学校があり、ウィーンに住んでいたとき、うちの子どもが八区にあるピアリステン小学校に通いました。専門はオーストリア文学ですが、私の研究している劇作家もここのギムナジウムを卒業し、壁には彼のレリーフが飾ってあります。

この記事のカテゴリ

フランス
ヨーロッパ
歴史

フランスの記事を見る

アドリア海の女王と呼ばれるヴェネツィアが巨万の富を得たレヴァント貿易ってどんなもの?
「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチの足跡をたどってイタリアからフランスへ
【フランス観光】元住民が解説!費用や穴場は?治安は?フランスの観光完璧ガイド
マダガスカルの隣にあるフランス領「レユニオン島」で見たい絶景10選
フランス観光なら次はここ!「カンヌ」で見たい絶景10選
フランス観光なら次はここ!「アルビ」で見たい絶景10選
【フランス建築の歴史】フランスの王道観光!歴史的建造物ってどのように造られたんだろう?
フランスを救った少女が火刑に処されたのはなぜ?悲劇のヒロイン「ジャンヌダルク」っていったいどんな人物?
今も生き続ける「伝説」を残した英雄ナポレオン皇帝の歴史
クロワッサンの旗印?アジアとヨーロッパにまたがるオスマン帝国の歴史
優雅に”大人”のパン朝食を。フランス発のフレッシュチーズ新発売
「朕は浪費家の太陽王なり」で有名なヴェルサイユ宮殿を建てたルイ14世ってどんな王様?

関連記事を見る